File.50 二〇四号室(Ⅱ)
「佐神、トウコ?」
困惑のあまり声が漏れた。慌てて周囲を見回すも、さいわい近くに人はいない。
小さく息をついて、安室は記事に視線を戻した。
佐神トウコ。
まったく心当たりのない姓と、よく知った名前の組み合わせ。大家の名前もたまたま『トウコ』だった―― ここまできて、そんな偶然があるだろうか。
たとえば、ハイツ・アサヒの所有者『佐神トウコ』が、安室の知る『トウコ』である可能性。
―― なくは、ない。
トウコがかつてアパートの住人であったというのは、すでに疑わしい話になりつつある。しかし、それを抜きにしても、トウコのこれまでの行動は、彼女がハイツ・アサヒの所有者だったという仮説を何ら裏切りはしない。
「記事の日付は、八年前」
あえてそうしたのか、それこそ偶然だったのか、彼女がなりすましていた赤羽トウコは、赤羽雪枝と同年の生まれだ。『トウコ』の正体が赤羽雪枝であるとすれば、彼女の実年齢と、これまで周囲に申告してきた年齢の間に差異はなかったことになる。
であれば、八年前の時点で中学生程度。
大家を務めるには幼いが、あの彼女なら、絶対に不可能だったとは言いきれない。
ハイツ・アサヒの大家はトウコ。
仮説の確度は高い。
だから、問題はもうひとつのほうだ。
佐神、と安室は口内でその響きを転がした。彼女自身の口から語られたことはもちろん、ここまでの調査においても一度も浮上したことのない姓だ。
あの募集記事を書いたのが彼女だったとして、どうしてわざわざ『佐神トウコ』という名前を使ったのだろう。
彼女には『赤羽』という姓の、それ自体としては正式な戸籍がある。彼女にとってはあくまで『赤羽トウコ』だけが本名であり、それ以外は通称もしくは偽名にならざるをえない。
『その他大勢』になりきりたかったトウコが、あえて偽名を名乗るメリットはない。
「いったい何のために?」
彼女は生まれた当時の姓である『赤羽』に固執していた。なりかわりのトリックに使う、という実用上の理由を超えて。
彼女にとって『トウコ』という名前は、条件に合った『赤羽』姓の戸籍を買いとったら、たまたま付属してきた、という程度のものでしかなかったはずだ。
わからない。
出所不明の『佐神』という姓。
偶然手に入れた『トウコ』という名前。
そのふたつを組み合わせて、新たな偽名を作りだす意味は?
安室はふたたび新聞記事に視線を落とした。大家・佐神トウコの住所はハイツ・アサヒの二〇四号室になっている。
『あの部屋には、はじめからずっと、誰も住んでいない』
蘇った赤羽雪枝としての彼女は、彼の中ですでに生きた輪郭を伴いつつある。
しかしそれとはべつに、あの部屋にはいまだ、彼には見えない住人がいるのだ。
幽霊の名は―― トウコ。
「もうカンベンしてよお、安室さァん」
傷んだ金髪を掻き乱し、宇多川は泣きつくように言った。
「オレが知ってることはもうぜんぶ話しちゃいましたよお。そういう話が聞きたきゃ、ずっと住んでる二〇三の青田センセーにきいてくださいッス」
「それがあいにく、また長期で外出されているみたいで」
「そんなバナナ……」
ちっ、と舌打ちした安室に、宇多川は「ネ、ネタが古くてスンマセン」と震えあがった。
「でもでもでもっ!オレとしては、そんなこと言われても!って感じで。知らないものは知らないとしか答えようがないんス……」
群れから追い出された野良犬のように眉毛を下げる。しばらく大人しく尻尾を丸めていた宇田川だったが、突然ぴかりと頭上に電球を光らせた。
「あっそうだ!湯守サンにきいたらいいんじゃないスかね」
「湯守さん?」
安室の脳内で検索が始まる。はじめて耳にしたのはたしか一年前、はじめてトウコとともにハイツ・アサヒにやってきたとき。
ここの桜の世話をしている『お天気おばあさん』なる人物のはずだ。
宇多川はものすごく得意そうに人さし指を立てた。
「オレの推理では、湯守サンなら住人のことも、大家サンのことも知ってるんじゃないかと」
「植物の世話だけではなくて、アパート自体の管理も請け負われているということですか?」
「そそ。そういえば前にトイレが詰まったとき、湯守サンに相談したなあって」
今思い出したッス、と恥じることなく親指を立てるキンキラ頭。
大事なことをどうしてそう簡単に忘れられるんだ、と異次元の脳みそにげんなりした。
「なんにせよ、その湯守さんなら大家さんに直接連絡を取ることもできそうですね。その方は今どちらに?」
「うーん、知らね」
宇多川はテヘッと首をかしげてから、ペロッと舌を出した。
「五点」
おもわず氷点下まで下がった声に、宇多川は「どうどう、顔が怖いッスよ安室サン」と馬を宥めるようなジェスチャーをした。
その後で「てか、なんでオレの期末テストの点数知ってるんスか?エスパー?」と首をかしげているあたり、想定以上にアレがアレすぎて言葉にならない。
「……はあ。でも、ここには定期的に来てるんでしょう?」
「いえあ。たぶん週一か週二くらい」
「次に来るのはいつごろになりそうですか?」
「うーん、知ら―― 」
「おい」
テヘッとして、ペロッとする前に安室は顔だけはにこやかなまま、ビキビキっと拳を握った。能天気なテヘペロが気持ちよく凍りつく。
「コンティニューします?」と訊ねると、青年は青い顔でコクコクと頷いてから、何ごともなかったかのようにテイク・ツーを始めた。
「うーん、たしか最後に会ったのが五日くらい前だから、さすがに明日くらいには来るんじゃないっスかね」
「わかりました。では明日もう一度ここに来て、湯守さんに直接お話を伺います。もし宇多川さんのほうで先に会うことがあれば、僕のことを伝えておいてもらえませんか?」
「おやすいごようッス!」
宇田川は、びし、と調子だけは良い敬礼をした。
その肩に一枚、ピンク色の花弁が落ちる。
「そういえば、ここの桜もそろそろ満開ですね」
安室は後ろを振りかえって言った。数日前にはまだ蕾だった花が、半分近く開いている。あと満開まであと少しだ。
「そッスね。この桜を見てると、その幽霊さんも桜が好きだったんだろうなあって気がします」
そう零した宇多川の横顔を、安室はまじまじと見つめてしまった。気付いた彼は慌てて大きく両手を振った。
「ああっ、勘違いしないでほしいんスけど、べつにオレは幽霊を信じてるわけじゃなくて!桜の下で死にたいって言ったその女の人の気持ちもわかるってだけで……!」
「いいえ、よくわかります。僕にも」
独白のように呟いた安室の顔を見て、宇田川は少し驚いたような顔になった。
そして、何も言わず彼もまた桜に視線を戻した。
まだ咲ききらない、春のきざし。
しばらくして、安室は背を向けた。
「では僕はこのへんで」
「あ、そうそう」
宇多川がなにげない感じで人差し指を立てた。
「訊かれなかったから黙ってたんですけどぉー、オレ、湯守サンの家は知んないけど、電話番号なら知ってたり。シェアしたほうがいいッスか?」
イエイ、と脳天気なサムズアップ。おもわずにっこりしてしまったのは仕方のないことである。
「零点」
宇多川から湯守の連絡先を聞きだした安室は、ハイツ・アサヒを離れてすぐにその番号へと電話をかけた。
短い発信音のあと、『湯守です』と電話に出たのは男だった。
声から感じる年齢のイメージで、夫だろうと当たりをつけた安室は、あらかじめ用意しておいた台詞を口にした。
「ハイツ・アサヒの山崎です。奥様はいらっしゃいますか」
「ああ住人の方ね」
アパートの名前を聞いた途端、電話の向こうで納得する気配があった。
すっかり打ちとけた調子になって、湯守の夫は言葉を継いだ。
『家内は今、旅行中でね。帰ってきてからじゃだめかな』
「旅行中?」
予想外の返答に眉をひそめた安室だったが、ごほん、と声の調子を整えてから、問いかえした。
「そうだったんですね。お帰りのご予定はいつごろですか」
『五日前に出発したから、あと二日くらいで戻ってくるよ。ちょうど一週間のツアーなんだ』
とある言葉に安室はぴくりと反応した。
一週間?
そのわずかな沈黙をどう解釈したのか、湯守の夫は困ったような声になった。
『あれ、ちゃんと伝わってなかったのかな。旅行に行くからしばらく顔は出せない、って旨の手紙をそれぞれポストに入れておいたって聞いたんだが』
「す、すみません。ちょうど外出していたもので」
うーたーがーわーァ、と安室は心の中で、よれよれのスウェットの胸ぐらを掴みあげた。大事なことを一から十までぜんぶ忘れるポンコツ具合にはおそれいる。
テヘッ、と首をかしげる金髪頭の幻影が見えた気がして、安室は歯ぎしりしたくなった。マイナス五百点だバカ。
『何でも、知り合いに鎌倉のホテルの宿泊券をもらったらしくてね。近場だけど、たまにはゆっくり慰安旅行でも、と。急ぎの用だったかな』
「じつは、アパートのことでお訊ねしたいことがありまして。ご旅行中に大変恐縮なのですが、連絡を取っていただくことは可能でしょうか」
電話の向こうで、うーん、と残念そうな声が答えた。
『うちの家内は機械オンチでね。いくら言ってもいまだに携帯を持ち歩かないんだよ。今回もだいぶ言ってきかせたんだがね。申し訳ないが、逗留先のホテルの番号を伝えるからそっちで連絡を取ってもらえると助かるよ。アパートのことはいつも最優先で対応しているから、遠慮せずにかけてくれて大丈夫だ。まあ、あちこちツアーで動きまわってるから、電話してもすぐに話ができるかはわからないが……』
湯守の夫との電話を終えて、安室はメモにとったホテルの電話番号を眺めた。
このタイミングでホテルの宿泊券を譲渡される―― しかもトウコが消えた日から、ちょうど一週間分。
気になるのは、別れ際に聞いたトウコの言葉だ。
『ぜんぶ終わるまで、一週間ってとこですかね』
偶然ととるか、それとも。
はあ、と安室は息を吐いた。
「これでたまたまだったら、転職だな」
湯守にホテルの宿泊券を渡したのは、まちがいなくトウコだ。
今すぐにでもメモの番号に連絡しようと携帯を取りあげた安室だったが、結局、通話ボタンを押す前にふたたびポケットに突っこんだ。
その場でくるりと踵をかえす。
『ぜんぶ終わる』まで、一週間。
トウコはあのとき、わざわざそういう表現を使った。
彼のなかに、理由のない焦燥が湧きたっていた。根拠も確証もないが、直感が訴えている。
この事件にはタイムリミットがある。
トウコが姿を消してからすでに五日が経過している。急いでいつもの車庫に戻った安室は、白い愛車に話しかけた。
「いざ鎌倉、だ」