連日の長野通いのせいだろうか、目的地の北鎌倉まではあっという間だった。
湯守が参加しているというツアーのスケジュールによると、今はちょうど市街観光の時間だ。
ホテルで待つ選択肢もあったが、彼は結局そうしなかった。
駅近くのコインパーキングに車を停めた安室は、線路に沿った県道を徒歩で南に下りはじめた。
片側一車線のわきに申し訳程度に敷設された歩道は、大人ひとりが通ればいっぱいになってしまうほどの幅だったが、人通りが少ないので問題にはならない。
この季節、国内有数の観光地である鎌倉はどこも人でごったがえすが、土地柄だろうか、このあたりはいくぶんか落ちついている。
ウォーキングをする初老の夫婦の後ろをついて歩き、横断歩道に行きあたったところでいったん立ちどまった。
歩行者信号はない。車の往来が途絶えるのを待って県道を横断した彼は、そのまま若干の傾斜のある路地に入った。
民家の裏塀を見ながら、枝分かれのない坂道を登っていくと、じきに苔むした石の反り橋と高麗門が見えてきた。
鎌倉五山のひとつ、浄智寺である。
File.51 二〇四号室(Ⅲ)
入口付近まで来ると、人影はさらにまばらになった。門付近の井戸に数人が集まっている程度だ。
浄智寺には桜並木がない。
建長寺、鶴岡八幡宮、源氏山公園。他にいくらでも名所がある鎌倉で、せっかくの花見シーズン、わざわざこの場所を選ぶ観光客は多くない。
それに、ここは少し季節はずれ だ。
門前の散歩客を横目に見ながら、安室は門をくぐり抜けた。わずかな拝観料を支払って入場すると、杉林に囲まれた石段がしずかに彼を出迎えた。
春にもかかわらず、鬱蒼として日陰の多い深緑の参道である。やはり、人は少ない。
参道をたどって石段を上がると、鐘楼門が姿を見せた。
鎌倉でも珍しい花頭窓の山門―― その右脇には、門柱に寄りそうようにして一本の大きな古樹が立っている。
そして、彼はようやく見つけたのだった。
木漏れ日の中にぽつんと佇む、老いた女の背中を。
「タチヒガン、もう散ってしまいましたね」
声をかけると、白髪混じりの頭が振りむいた。安室の顔を見て、一瞬はっとしたような表情になったが、それだけだった。
おだやかな声が返ってくる。
「今年は全体に開花が前倒しでね、見ごろは三月の中頃だったのよ。それに……タチヒガンは元々、ソメイヨシノよりも開花がすこし早いから」
「彼岸に咲くから立彼岸。なのに、貴女はなぜ今ここに?」
茶色の地肌を見せつつある桜の木を見上げながら、安室は老女の隣に立った。彼女もまた花を愛でた視線のまま、しずかな笑みを浮かべた。
「満開の桜は、ハイツ・アサヒに帰れば見られるもの」
そこでようやく、ふたりは向きあった。
「湯守さんですね。安室透と申します。はじめまして、ではないのですが」
「トウコちゃんの大学の先輩と名乗った方ね」
安室はほんの少し眉を上げた。
「お気付きでしたか」
「ええ。本当はどんなお仕事を?」
「探偵、です」
湯守は、探偵、と口の中で単語を転がしたあと、どこかアテが外れたような感じで頬に手を当てた。
「すこし意外。雰囲気からして、学生ではないというのはわかっていたのだけれど。探偵というより、もっとこう―― 」
何かを言いかけて、湯守は思いなおしたように頭を振った。
「そんなことは、どうでもいいかしらね。それよりも訊きたいことがあって来たんでしょう。でもね、ごめんなさい。私が伝えられることはそうたくさんはないわ。だって私はただの管理人だから。それでもいい?」
「構いません。僕の知りたいことも、そう多くはありませんから」
そう、と湯守は頷いた。
「じゃあ、ひとつだけ覚えておいて。これからトウコちゃんのことを話すにあたって、私は本当のことしか言わないわ」
「……理由は?」
問うた安室に対して、湯守はどこか哀しげにほほえんだ。
「だって、トウコちゃんは、何よりも嘘が嫌いな子だもの」
湯守との話は五分ほどで終わった。礼を言って立ち去ろうとした安室に、彼女は言った。
「じつは、トウコちゃんから預かっているものがあるの」
「僕に?」
湯守は細い顎ではっきりとうなずいた。肩に掛けていたバッグから何か小さなものを取りだして、安室の手のひらにのせる。
それは、鍵だった。
「それがどこの鍵なのか、トウコちゃんはおしえてくれなかったわ。きれいな金髪の男の人が訪ねてきたら渡して、とそれだけ。でも私はその鍵が何のためのものかは知ってる。鍵を開けた先にあるのは、たぶんふたつ。どちらもトウコちゃんのものよ」
今度こそ帰ろうとしたとき、風が吹いた。
びゅう、と痛みさえ感じる鋭い風に、葉ばかりになった立彼岸が、耐えるように身体を揺らす。
そうして、かろうじて残っていた最後の花弁が、散った。
帽子を押さえながら、彼女はどこか遠いところを見て、つぶやいた。
「ああ、いってしまうわ」
空に消えていく薄紅のかけら。
誰にも追いつけない速さで、誰にも追いつけない場所へと飛んでいく。
「こういうの、何というか知っている?」
「春疾風、と」
冬から春へと季節が交代するときに吹く、強い春風―― 彼女はそう言った。
湯守が目を伏せる。
「悪い子じゃ、ないのよ」
「……それも、知っています」
「明日も風が強いわ。どうか気をつけて」
寺を離れ、もと来た道を戻りながら、安室は湯守との会話を反芻した。
彼が訊いた内容はふたつ。
ひとつめは、トウコがアパートの大家なのかどうか。
―― 答えはイエスだった。
『ハイツ・アサヒの持ち主はトウコちゃんでまちがいないわ。佐神トウコ。私の知っている大家さんの名前はそれ。ただ、トウコちゃんは留守にすることが多くて、管理は私のほうでしてきたの。最初に頼まれたのは桜のお世話だけだったんだけど、だんだんと他のことまでするようになって。いえ、決して無理にやっているわけじゃないわ。やりたいから、やってるの』
ふたつめは、トウコが二〇四号室に住んでいたことがあるのかどうか。
こちらも答えはイエスだった。
『表札こそあがっていないけど、あそこは昔からトウコちゃんの部屋よ。大家だからこそ可能な、名目上の住人ってことね。ずーっと昔には実際に生活していたこともあったみたいだけれど……一番古い青田さんなら、もしかするとそのときのことも知っているかもしれないわね』
そして、湯守はうつむいて、独り言のようにつけ足したのだ。
『幽霊のうわさ?そんなもの、うそっぱちよ。二〇四号室の中で自殺した人なんていない。幽霊なんてどこにもいないのよ。あそこはずっとトウコちゃんの部屋なんだから。これまでも、これからも』
車が途切れるのを待ちながら、安室はモノクロの横断歩道に視線を落とした。
結論からいうと、どちらの答えも彼の予想の範疇を出はしなかった。
トウコがあのアパートの所有者であること。同時に二〇四号室の住人でもあること。どちらも目新しい情報ではない。九十パーセントだったものが、百パーセントになっただけだ。
「佐神、トウコ」
依然として残る謎。『佐神トウコ』という名に込められた意味。
なぜ彼女は、その名前を名乗ったのだろう。
図書館でその名を見つけてから、当たれるところはすべて当たってみた。しかしトウコの身辺で、『佐神トウコ』という名前を目にすることはついぞなかった。
―― じれったい。
安室は生まれてはじめて、そんな感情を抱いた。
ひとつの名前から、身元を探り正体を明らかにする。降谷零なら簡単なことだ。戸籍などの公的資料を手に入れることはもちろん、犯罪歴まで丸裸にできる。
どちらも、彼が“安室透”に徹するかぎり、逆立ちしても手に入らない情報だった。
探偵は、無力だ。
身も蓋もない言い方をすれば、そういう職業を名乗っているだけの、ただの民間人にすぎない。
特別な捜査を許されているわけでもなく、武器の携行を認められているわけでもない。許可なく事件現場に入りこめば即座に叩きだされ、踏みこんだ調査をすればプライバシー侵害の罪に問われる。凶悪な犯人を前に、身を守る武器すらない。
探偵には、力がない。
何もない。
パーキングに辿りついた彼は、重怠い身体を運転席に押しこんだ。
しばらく経ってもシートベルトを締める気になれず、シートにもたれてぼんやりと前を見ていた。
夕方の光線が、白いボンネットを毒々しい赤色に染めあげている。
六日目が終わる。
タイムリミットまで、あと一日。
血のような夕焼けに似た、鮮烈な焦燥感が胸の奥を焼いていた。
安室透であることを諦めれば、今すぐにでも佐神トウコに辿りつける。匙を投げて、さっさと解答を見ればいい。そうすれば、この言いようのない思いから解放される。
そして―― 一度そうなってしまえば、この件は安室の手を離れるだろう。その後のあらゆる判断はもうひとりの彼に委ねられ、トウコの処遇もまた安室の関与するところではなくなる。それが、彼らのけじめだった。
いいじゃないか、と慰める声が聞こえた。
安室透は、降谷零のために存在する。カフェでアルバイトをしているだけの一般人。探偵だなんて名乗ってはいても、つまるところは何の力もない、ただの人。
そうはなれない降谷零の代わりに、手となり足となり耳となり目となって、なんということのない平穏な日常を生きる。
それが安室透の仕事。
それが安室透のアイデンティティ。
それが、安室透の、生まれた意味。
与えられた役目を超えて探偵としての自分を貫きとおす―― 降谷零は安室透にそんなことを求めていない。安室透にできないことは、安室透の『管轄』ではない。
それでいいじゃないか、とさっきの声がふたたび語りかけてきた。
今までも、ずっとそうしてきた。
だから今回も―― 。
『届かないまま、あきらめる?』
ふと己の内から聞こえた知らない声に、ひくりと喉が震えた。それは男の声のようでもあったし、幼い子どもの声のようでもあったし、若い女の声のようでもあった。
声に導かれるように、ひとりの男の姿が浮かんだ。
―― 元の身分を捨て、狭い事務所でくたびれた背広を着る男。神がかった射撃の腕も今や無用の長物だ。彼はもうただの民間人だから。
安室はかき消すように頭を振った。すると入れかわるように、ひとりの少年の姿が浮かんだ。
―― その手は、彼が掴もうとするものに比べてあまりにも弱く小さい。驚くべき力を秘めていようとも、ひとりでは何をすることも許されない。彼はまだ子どもだから。
だから。だから。だから。
「だから?」
だからといって彼らは、嘆くだろうか。立ちどまるだろうか。諦めるだろうか。
『もしも本当に才能なんてものがあったなら、今ごろこうじゃなかったろうさ』
自分にできないことをあげつらって、それができる他人を妬んで、情けなく嘆いて。
バカか、と安室は手を握りしめた。
探偵には何もない。地位も名誉も力も権力も、ときには費やしたものに見合う結果さえも。探偵には本当に何もないのだ。
そんなこと骨の髄からわかっているはずなのに、彼らは嘆かない。立ちどまらない。諦めない。
何もないとわかっていて、それでも彼らは探偵を選びつづける。
それはきっと、そうでなくては、届かないものがあると知っているからだ。
息を吸いこみ、シートベルトを締めた。
グルン、グルン、とFDの心臓が待ちわびたように吠えはじめる。
『最後の一歩が―― 』
聞こえつづけていた胸のうちの雑音。
かき消すように、なつかしい声が聞こえた。
―― 大丈夫だろ、お前 なら。
今はもうはるか遠いそれに思いを馳せ、ほんのひととき目を瞑った。
そして次に目を開けたときには、彼はもういつもの彼に戻っていた。
才能も。能力も。
彼は、不遜に口角を上げた。
「どっちもあるに決まってるだろ!僕にできなきゃ、誰にできるっていうんだ」
躊躇いなくアクセルを踏みこみ、走りだす。
嘆くことも、立ちどまることも、諦めることもない。己に備わった知と理を頼みに、どんなときでもたったひとつの答えを見つける。
「安室透は、探偵だ」
しばらく走って、とある場所で車を止めた。
門前のチャイムを鳴らした途端、あちこちから犬の吠え声がした。しばらくして表に出てきた女は、犬の頭を撫でながら、安室に向かってほほえんだ。
「あらあら、また迷い犬ですか」