File.52 二〇四号室(Ⅳ)
「残念ながら、こちらには見えていませんわ」
長いまつげが目元に影を落とす。犬を撫でる手を止めて、木崎は安室を見つめた。
彼は息を吐いた。
「……そうですか」
ツヤのある黒い毛並みの上に置かれた女の手。
わざわざ問わずともいいくらいに、はじめからわかっていた答えだった。
トウコにはここに来る理由がない。
だがトウコにはなくとも、安室にはあった。残り少ない貴重な時間を費やし、ここを訪れた理由が。
それは少なくとも、このようなわかりきった答えを聞くためではない。
彼は豪奢な室内を見回した。
トウコとふたりで来たときと何ら変わりはない。変化があるとすれば、侍らせている犬の種類くらいだ。
立派な身体のグレード・デンが女の膝であくびをした。
ここは、彼が安室透として事件を解決した場所のひとつだ。
探偵としての自分が描いた確かな軌跡。その感触を、安室はもう一度思い出さなくてはならない。
トウコが隠した最後のパズルピースを見つけるために。
「前にお会いしたときにも、申し上げたことではありますが」
黒目がちな目で安室を見つめていた木崎が、口火を切った。紅茶の注がれた白いカップを、それと同じくらい白い手で持ちあげる。
「犬がいなくなるとき、そこにはかならず理由があります」
ティーカップの中身に視線を落として、彼女は独り言のように続けた。
「彼らは我々のような言葉を持ちません。嘘を言うこともなければ、真実を語ることもない。ですが、言葉を交わさずともよく見ていればわかります」
「好きなもの、嫌いなもの……」
安室は自分の手元に視線を落とした。
木蔦の文様があしらわれた上品なティーカップ。ミルクのようになめらかな陶磁の肌が、手のひらに柔い熱を伝えてくる。
小さく繊細なそれは、彼の手にはひどく不釣り合いだった。
「そう。好きなものも、嫌いなものも。それ以上のことだって」
カップをソーサーの上に戻す。
白い器の中で、混じりけのないダーク・オレンジの水面がつややかに揺蕩う。
かすかに鼻先をくすぐる嗅ぎなれた香りは、上質なアールグレイ。
気付けば、手がミルクピッチャーを取りあげていた。
伝わせるようにカップに注ぐと、透きとおる水面下に白い花が咲いた。
正円を描く波紋とともに広がっていったミルクは、じきに中身すべてを淡いクリームオレンジに変えた。
「貴方にはもう答えがわかっているはず。だって、ずっと見てきたんでしょう。一度積みあげたものはけっしてゼロにはならない」
好きなもの、嫌いなもの。それ以上のことも。
カップをふたたび目の前に持ちあげた彼は、犬のように鼻を動かして、慎重に匂いをかいだ。柔らかさの増した香気を鼻腔に吸いこむ。
そして、彼はゆっくりと、ほんの少しだけ口をつけた。
「美味しいです」
「そう、それはよかった」
おだやかに目じりをゆるめる木崎の前で、安室はティーカップをテーブルに戻した。
「ごちそうさまでした。そろそろ行かないと」
上着を着て部屋を出ていく間際、安室は思い出して木崎を振りかえった。いたずらっぽく口角を上げてみせる。
「そういえば、今の僕は何に見えますか。職務に忠実なシェパード?それとも好奇心旺盛なゴールデン・レトリバー?」
安室の小さな意趣返しに、木崎はちょっと目を見開いてから白い歯を見せてクスクスと笑い声を立てた。
「さあ、どうでしょうね。自分で好きにお決めなさいな。だって、自分が何者かだなんてこと、貴方自身にとってはどうでもいいことですもの。でしょう?」
「あはは。あいかわらず、犬のことなら何でもお見通しというわけですか」
「そうお拗ねにならないでくださいまし。どっちの貴方も素敵ということですわ」
「……僕の脚で、追いつけるでしょうか」
木崎は瞳を伏せた。見えない何かを見つめながら、ささやき声で言う。
「その身体は夜の霧、その吠え声は幽谷の風、その瞳は煉獄の熾火。貴方のさがすその犬は、人の心が生みだした影そのもの」
恐ろしげな声で言ったあと、「でも」と木崎は珍しく人間らしい仕草で肩をすくめた。
「どんな姿をしていても、ワンちゃんはワンちゃんですわ。貴方の迷い犬が見つかりますように」
夜が明けて、最後の一日が始まった。
トウコが消えて今日で七日目になる。
昨夜遅くに東京に戻ってきた安室は、働きづめの心身にほんの短い仮眠を与えたあと、早朝から家を出た。
とある人物との待ち合わせのためだ。
昨夜、鎌倉から帰ろうと車に乗りこんだ彼は、留守電が一件入っていることに気付いた。普段からずっとマナーモードにしてある私用携帯に、だ。
スピーカーを耳に当てると、『俺です』と聞きなれた生真面目な声が再生され、彼はおもわず眉をひそめた。
連絡の際には、原則こちら側から電話をかけることになっている。何も頼んでいないときに勝手にかけてくるのはルール違反だ。
しかも発信元は業務に使うそれではなく、風見個人の私用携帯だった。非常時に備えて番号を交換した記憶はあるが、当然のことながら、それを使って連絡を取りあったことは一度もない。
録音されたメッセージはほんの十秒程度だった。
『明日の朝七時半に今から言う店にいる予定です。必要がなければ、忘れてくださってかまいません』
いつもの淡々とした声で場所を伝えた後、留守電はぷつりと切れたのだった。「え?」と珍しく間抜けな声を漏らしてしまったのも、さすがに仕方のないことだった。
「なんだっていうんだ、いったい」
ハンドルを切りながら、安室は眉を変な形に持ちあげた。
なんとも言えない妙な感じである。
普段ふたりの間で使っている符牒はすべてクリアされていたから、かけてきたのは風見本人で間違いない。拘束され、電話を強要されたのなら、それ専用の符牒を使って何とか現状を伝えてきただろう。どんな状況にあったとしても、あの部下が命惜しさに彼を危険な場に呼びだすことはない。絶対に。
なので、おそらく事件性はない。
ないのだが。
はあ、と信号でブレーキを踏んで、ハンドルにもたれかかった。全体を通して、とにかく奥歯に物の挟まったような、奇妙な感じだった。
無駄な話を省いて結論から話すことを、普段から徹底している、いや、徹底させられている男である。誰が聞いているかわからない電話に具体的な用件を吹きこまないのは当然としても、電話をかけてきた意図すらはっきり伝えてこないのはどういうことか。
しかも上司に対して勝手に時間の指定をしたうえ、『必要がなければ、忘れてかまわない』だ。普段の態度からは考えられない物言いである。
「まあ、会えばわかるか」
待ち合わせ場所の指定にあった、チェーンのカフェレストランに到着して、安室は駐車場の中でも出入り口に一番近い場所に車を停めた。
時刻は七時十五分。店は七時から。
隣にはすでに見知った車が停まっていた。
車を降りて表に回りこむ。
ビジネス街ならまだしも、住宅地のほど近くにある店舗で、日曜日の朝七時半にモーニングをとる人間は少ない。外から見るだに閑古鳥が鳴いていた。
店に入るとすぐに相手は見つかった。ショーウインドーに貼られたポスターのすぐ裏、出入り口には近いが、外からも内からも見えづらい席だ。
一番『良い』席を取ったうえで、余裕をもって待ち人を待つ。普段から徹底させていることだった。
ウェイトレスの案内を断って、大股で席まで近付く。
「おい、急に呼びだしていったい何事―― 」
そこで、はじめて風見の全身を視界に入れた安室は、しばしポカンとした。
「風見?」
上質な白いスプリングニットに、細身のパンツ。トレードマークのメガネも、今日はハーフリムの軽いものになっている。
正直に言う。バッチバチに似合っている。
以前、捜査のために私服を着てこさせた際にはもっともっさりした、いかにもな格好をしていた記憶があるのだが。
「お着きだったんですね」
読んでいた文庫本を閉じて、風見は安室を見上げた。
見慣れない格好のせいか、いつもの男臭さはなりをひそめ、そこはかとなく洗練されて見える。
ああ、と頷きかえしたが、風見はいつものように立ちあがって挨拶しようとはしなかった。
イスにかけたまま、ごほん、と咳払いをした風見は、開口一番こんなことを言った。
「先に言っておきますが、今日の俺は、上司の知人の探偵に会いにきただけの、どこにでもいるただの風見です。よってスーツは未着用、堅苦しい挨拶も省かせていただきます」
ソファで向き合ったまま、冗談なのかそうでないのかよくわからないことを真顔で宣言される。
さすがの彼もツッコミどころを間違えた。
「ど、どこにでもはいないと思うが」
「そうかもしれませんね。ということで、おはようございます安室さん」
どこにでもいるらしいただの風見は、安室に対し、悲しいくらいにクールだった。
「ああ、おはよう……」
立ちなおりきれないまま、安室はもう一度風見の装いを眺めた。
―― やはり、悪くない。
ニット・パンツ・メガネ、どれも細身の長身を引きたてながらも親しみやすいデザインにまとまっていて、男女どちらの視点でも好感が持てる。
どうなってる。誰に見立ててもらったんだ。彼女か?彼女ができたのか?
問いつめたい気持ちに駆られた安室だったが、さすがにストレートに訊くのは憚られて、パニクる頭であれこれ言葉を組みかえた結果、
「それは、本当にお前自身の判断か……?」
という、なんだか苦悩する邪気眼中学生のような台詞を吐いてしまった。
「服装と、いいますと?」
「前に見た私服はもっと、なんというかこうアレだったろ、アレ。ほら、だから、一緒に選んでくれるような相手ができたとか……なんてな、あはは」
いつか見た私服のコーディネートを身振り手振りでオブラートに包みつつ表現する。
すると風見は合点がいったような顔になり、照れたように答えたのだった。
「じつはまあ、以前知り合った方とちょっと。俺もいつまでも独り身というわけにはいきませんし」
「ふうん、どうせそんなことだろうと―― 」
そこで停止した。
ちょっと待て、今なんて?
「以前知り合った方?」
「はい」
それっきり黙りこんでしまった安室に、風見は不安そうに首をかしげた。
「俺、いま何かおかしなことを言いましたか」
「いいや……」
風見はあれだ、クラスにだいたいひとりはいる、『たいしてモテなさそうなのに、わりと初期に彼女ができる』タイプの野郎だ。
ある日突然、クラスの人気者の女子とファミレスに入っていく姿が目撃され、寄ってたかって問いただすと「じつは」とはにかみ顔で爆弾を投下してくるパターン。
「知ってた……お前はそういうやつだって……」
「え、いや、あの」
「この裏切り者が―― じゃなかった、ごほん。いつかこういう日が来ることは覚悟してたさ」
なお降谷は『いちばんモテそうなのに、最後になっても彼女ができない』タイプの野郎だ。自覚はある。
顔を押さえた彼は、かろうじて指の間から「おめでとう、お幸せにな」と唸った。
「な、なんかすみません」
「謝るな。余計に心が狭くなる」
「いや、ほんの冗談のつもりだったので」
「だと思ったよ。でなきゃこんな残酷な―― ん?」
安室は目をぱちくりさせて、風見を見た。
「冗談?」
「はい。『以前知り合った方』云々あたりから全部」
もう一度目の前の男を凝視してから、安室は一気に脱力した。
ごとんとテーブルに額をつける。
「お前さ、性格悪くなったな」
「そのように指導されてますので」
悪びれもしない。したたかになったとも言う。
反論できなかった安室は、テーブルにつっ伏せたまま、いじいじと机の板目を数えた。
そして―― 次に視線を上げた時にはもう、彼はまったく笑っていなかった。
「で、わざわざ僕を呼びだしたのはどういうわけだ。ルールを破って、僕に時間を割かせて。場合によってはお前に対する評価を変えるぞ」
周囲には聞こえないよう、低く告げる。
しかし、風見は少しも怯まなかった。
「貴方が今抱えている案件、行きづまっているんじゃないかと思ったので。探偵という方々は、ときおりこうして我々のような人間からも情報を得ることがあるでしょう」
「だとすれば、外部の人間への意図的な情報漏洩だぞ、それは」
唸るように告げた彼に、だが、風見はきょとんと首をかしげた。
「いえ?そもそも貴方を呼びだした覚えはありませんし」
「……はあ?」
おもわず間抜けな声が出た。
「だって、『明日の朝七時半に今から言う店にいる予定です』と送っただけですから。俺は今日この時間、ここで『ひとりで』考えごとをする予定だったんです。その際に、偶然たまたま近くの席にいた安室さんが、俺のつぶやいた独り言を勝手に聞いていたとしても、俺の知るところではありませんよ。よって意図的な情報漏洩ではないかと」
仏頂面のまま、とんでもないへりくつを口走る。
「そもそも自分は安室さんの部下ではありませんし。よって、感謝されこそすれ、文句を言われる筋合はないです。この件に関しての叱責は安室さんからではなく、上司を通して職場でのみ受けつけます。こちらからは以上です」
絶句する彼をよそに、風見はつんと横を向いた。
ちょうどそのときウェイターがやってきて、「Bセットになります」と妙にはきはきした声と一緒に、モーニングプレートを置いていった。
熱すぎるコーヒーの湯気がゆらゆらとふたりの間を立ちのぼっていく。
ふたすじの湯気。ふたり分のモーニング。
―― 何が『ひとりで考えごと』だ。
目の前の男は、相変わらず眉ひとつ動かさない鉄面皮ぶりだが、よく観察していれば心の中ではおそるおそるこちらの様子をうかがっているのが丸わかりだった。
ひとりでやると言った安室に、どうすれば協力できるか風見なりに必死に考えた結果がこれだろう。
わざわざ露骨に服や態度を変えてきたのは、部下としての自分を遠くに押しやるため。普段は言わない屁理屈も、くだらない冗談も全部そうだ。
彼は、安室透個人に、風見裕也個人として、降谷零とは無関係な立場で協力したいと言っているのだ。
めったにない非番の日のこんなに朝早くから、安室透の、それこそ個人的で自分本位な願いを叶えてやるために。
―― これ以上、私的な話があってたまるか。
彼は「はあ」と聞こえるように大きなため息をついた。
「ほんっと、どこまでいっても真面目だね。君は」
「お、俺は……」
「褒め言葉だって。融通の利く堅物ほど有能なヤツはいないって言ってるんだよ。それにクソ真面目はお互い様だし。人脈も探偵の実力のうち、ってことで納得させてもらうよ」
ぴしゃりと言ったあと、彼はモーニングのパンを勝手に掴みあげ、かぶりついた。バターの香りもろくにしないパサついた安物を、荒っぽく咀嚼する。
あっけにとられる風見に、彼はまるでテーブルの主のように顎で示した。
「君も食べなよ」
「あ、はい」
「野菜も残さないようにね」
モーニングにがっついて、すきっ腹をわずかながらに満たしたあと、彼は本題を切りだした。
「佐神トウコのことだな?」
同じく朝食を始めていた風見が、手を止めた。
「登記簿には記載がなかったので。過去の新聞記事から調べました」
風見は優秀だ。こちらがいちいち指図しなくとも、勝手にこれくらいはやる。
「貴方は探偵として、ひとりでこの件を解決すると言いました。だからこそ、これだけはどうしても伝えておかなくてはならないと」
いったん言葉を切って、風見は覚悟を決めたように声をひそめた。
「佐神トウコの名を内部で洗ってみました」
「該当するものは?」
「ありました」
表情が険しくなったのが自分でもわかった。
内部のデーターベースでの検索に引っかかる、その代表的なものは―― 犯罪歴。
「前科が?」
掠れた声が出て、自分自身に苛ついた。
いまさらだ。どんなものが出てきても、もう何もおかしいことはない。
だが、結論から言うと、続く言葉は彼の予想を軽く超えた。
「いいえ。佐神トウコに前科はありません。被疑者となったこともありません」
風見の目がまっすぐに安室を射抜いた。
「佐神トウコは、警察官です」