Chapter.4 ゴースト・ハント

File.53 ゴースト・ハント/リロード


 風見と別れたあと、まっすぐハイツ・アサヒに向かった。

 人がいないのを確認して、敷地内へと入る。何度も繰りかえしているうちに侵入している意識も薄れ、もうすっかり住人気分である。

 真上から降りそそぐ昼の日差しのせいで、エントランスはかえって薄暗い。
 もう一度、人の気配がないのを確かめてから、並ぶ銀色のポストのうち二〇四号室のそれに顔を近づけた。

 使われているのはNIWAのダイヤル錠。つまみを左右に回して数字を合わせる、集合住宅ではよくあるタイプの錠だ。
 外からの視線を背中で遮るようにしながら、安室は素早くダイヤルを動かしはじめた。

 解錠番号を知らなくても問題はない。あてずっぽうでは開かない、と思いきや、じつはこのタイプは数十通りしか番号の組み合わせがなかったりする。五分半ほどあれば総当たりが可能なため、慣れた者からすれば無いも同然の脆弱なセキュリティだった。
 郵便物はなるべく早くポストから取りだしましょう、と彼女ならそんなアドバイスをする場面だろう。

 運の良いことに、“当たり”を引きあてるまで一分もかからなかった。

 ポストを開けると、底のほうにハガキが一枚へばりついていた。
 取りだしてみれば何のことはない、どこかのガソリンスタンドの洗車クーポンだ。
 派手なゴシック体で飾りたてられた通信面には目もくれず、彼はそのまま裏返した。

 宛名はやはり『佐神トウコ』だった。

 手紙を溜めないという青田。いつか見た山盛りのポスト。そして、受取人のない手紙。安室は宛名を見つめた。
 、このポストにはトリックなど仕掛けられてはいなかった。

 ハガキを元の場所に戻し、エントランスを出た。もうひとつの目的のため、錆びた外階段を上がっていく。
 向かうのはもちろん二〇四号室―― 誰にも見えない、透明な幽霊のすむ部屋だ。

 ドアの前で立ちどまって、ポケットから小さな鍵を取りだした。
 湯守が言うところの『トウコちゃんからの預かりもの』。
 ろくに形状の確認もせず鍵穴に差しこむ。

 ドアはあっけなく開いた。

 渡された鍵がハイツ・アサヒのものだというのは、目にした瞬間からわかっていた。去年の春、彼女が安室を隣の二〇三号室に招きいれるときに使った鍵と、ほぼ同じ形状だったからだ。
 今思えば、彼女は二〇三号室の鍵を不正に複製していたわけではなく、大家としてマスターキーを所有していただけだったのだ。
 もちろん、それを使って勝手に部屋に侵入するのはれっきとした犯罪だが。

『それがどこの鍵なのか、トウコちゃんはおしえてくれなかった』

 その言葉もまた嘘ではないだろう。トウコは湯守に何も言わなかった。言う必要がなかったのだ。アパートの管理人が部屋のキーを見て、それだとわからないはずはないのだから。
 湯守はこれがハイツ・アサヒの鍵であることに気付いていたし、トウコもまた湯守がそう気付くであろうことを知っていた。だからトウコは湯守にあえて何も言わず、湯守は『何も言われなかった』ことをそのまま安室に伝えた。

 人間なのだ。彼らは。

 塗りの剥げたスチール扉をそっと引くと、気温のせいか、今日は前ほど軋まなかった。
 靴を脱いで、廊下をまっすぐ行く。
 この前の夜とはうってかわり、さんさんと春の陽光が差しこむリビングは、おもわず目の上にひさしをつくりたくなるほど、明るくうららかだった。
 サンルームのような陽気に、その場でジャケットを脱いだ。

「好きなもの、嫌いなもの」

 トウコの好きなもの。
 ―― ポアロの紅茶。
 トウコの嫌いなもの。
 ―― 勉強の邪魔をする人。
 トウコの好きなもの。
 ―― 桜とハイツ・アサヒ。
 トウコの嫌いなもの。
 ―― 幽霊。

 トウコの趣味、思考、癖、習慣。
 エトセトラエトセトラ。

 嘘を言うこともなければ、真実を語ることもない。だが、言葉を交わさずともよく見ていればわかる。
 好きなもの、嫌いなもの。それ以上のことだって。

 ―― たとえば、彼女が大切なものをどこに隠すかも。
 安室は何もない真四角のリビングを見渡し、片側の壁に注目した。

 はたして『それ』は以前と変わらずそこにあった。
 黄ばんで穴だらけの壁紙に、繕うようにして貼られた桜の形の修繕シール。暗闇ではわからなかったが、こうやって日光の下で見ると、こぶし大のそれはまだ真新しいピンク色を保っている。

 人さし指と親指で丁寧につまみ、剥がしていく。
 壁紙に開いてしまった穴を隠すためのそれは、結果的にいうと、本来の用途で使われていたと言える。

 シールの下、壁の真ん中には、直径十センチほどの正円がぽかりと口を開けていた。

 彼の見つけたトウコの癖―― ストラップの発信器しかり、大切なものは桜の下に隠したがる。文字どおり、『花の下にて』だ。

 彼の手には少々小さく思える穴だったが、安室はかまわず手首まで突っこんだ。
 彼に残したものならば、彼の手が届かないということは万に一つもないだろう。トウコがそういう点で手抜かりのない人間であることを、安室はすでに知っている。

 案の定、もうこれ以上は奥へいかない、というギリギリのところで指先に何か平たいものが触れた。
 落とさないように、慎重に穴から引きずりだす。

 は日記だった。

 黄ばんで薄汚れたのが一冊と、まだ新しいのが一冊。
 まったく様子の違う二冊の日記をぱらぱらとめくって、安室は苦笑した。
 このアパートの関係者は、揃いも揃ってタヌキである。

『どちらもトウコちゃんの物よ』

 そのとおり、まさしくどちらも『トウコ』のものだ。一言一句、嘘はない。

 床に座りこみ、まずは古い方の日記を手にとった。
 重要な内容だけをかいつまむようにして、時間をかけずにどんどん先を読んでいく。

 書かれていた中身は、おおむね彼の予想と違わなかった。
 あらかた内容を頭に入れた彼は、古い日記を床に置いて、今度は新しい日記を取りあげた。

 古いほうがあっちこっちに散らかったような、良くいえば豪快な鉛筆字で書かれていたのに対し、新しいほうはとめはらいの守られた丁寧な字で記されていた。
 性格そのままの几帳面で整った字は、彼もよく見知ったものだ。

 残り時間は少ない。
 だが、これはきっと必要な作業だった。

 立ちあがって窓を開けると、途端、春のにおいのする風が流れこんできた。まだ少し肌には冷たい爽風も、陽光の差しこむあたたかな部屋のなかではこのうえなく気持ちが良い。
 猫のように伸びをしたあと、ごろりと床に寝転がって日記を読みはじめた。

 穏やかな春の昼下がり、たんぽぽの綿毛のようなやわらかな日だまりのなかで、一文ずつ丁寧に追っていく。
 途中、いくつか破りとられたページがあった。このアパートでトウコを追いつめたあと、彼女が出してきた“資料”の中によく似た紙質のメモがあったが、それはおそらくここから千切って使ったのだろう。

 『トウコ』の日記には安室と出会ってからの出来事がこと細かに記されていた。
 時系列で行動を書きとめただけの、日記というよりも記録に近い文面である。しかし、安室はそこに観察的な冷たさではなく、ただそれ以外の書き方を知らなかった彼女の生真面目な不器用さを見た。

 ページをめくる。
 記憶がめぐる。時がめぐる。

 誰かに読ませる物語でもなければ、誰かに当てた手紙でもない。
 それはただ彼女が彼女自身のために綴ったものだった。

   

 気がつけば、太陽が西側に傾きはじめていた。

 二冊の日記をかかえ、表に出る。
 途端に、びゅう、とひどく強い春風が吹きつけた。淡いオレンジに染まりつつある黄昏の空に、薄紅の花弁が狂い散る。
 ハイツ・アサヒの古桜は、まさに満開の時を迎えていた。
 ねがはくは――
 いつかの日、彼女はここで桜を見上げていた。

 動機はわかっても、気持ちはずっと理解できなかった。
 安室透はどこまでいっても探偵でしかなく、そんな彼には永遠に無縁のものだと思っていたから。

「僕も、まだまだだな」

 師には遠くおよばない自分の未熟さを、彼はひとり苦笑した。
 安室透はどこまでいっても探偵でしかない。だが、だからこそ、届くのだ。
 ―― 『彼』だけではずっと届かずにいた、最後の一歩が。

「さて」

 ピースはすでに嵌まった。目指すは二〇四号室の住人ゆうれい。タイムリミットまであと半日。

 ゴースト・ハントが始まる。

◇◇◇

 結論を言えば、日記からトウコの行方を知ることはできなかった。

 日記に記されていたのはあくまでも過去の事柄だけで、未来の行動をにおわせるような記述はどこにも見当たらなかったからだ。

 当然のことではあった。
 トウコは本気で姿を消そうとしているのだ。追いつかれる可能性のある相手に、わざわざヒントを残していくような真似はしない。そういう点で、トウコは愉快犯とは対極の存在だった。

 彼女は観衆を欲しない。
 彼女の動機は彼女の中以外に存在しない。

 だったら―― 彼女の行き先はひとつ。

 彼は目的の店の前でハンドルを切った。ずらりと並ぶ黄色いのぼりを横目に、駐車場に入る。
 『まとめ借りでオトク!』―― 年中変わらない文面が、風にあおられてパタパタとはためいていた。

 やって来たのは、DVDのレンタルショップだった。
 時間がないのと、ネットを使えば手軽に視聴できるのとで、もう長らく足を運んでいなかった場所だ。
 入店した彼はどすどすと大股で邦画のコーナーに直行した。
 少しの間、腕を組んで棚を睨んでいた彼だったが、結局あっさりと携帯を取りだした。

「ああ、僕だ。ちょっと訊きたいことがあるんだけど。『AI:BO』の劇場版で左京さんが一番かっこいいのってどれ?」

 電話の向こうで、「へ?」と「は?」の中間くらいの声が聞こえた。ゴニョゴニョとよくわからない呟きで誤魔化したあと、風見は冷静さを装った声で答えた。

『それはもちろんセカンド・シーズンですが』
「ありがとう。参考になったよ」
『あくまで私の趣味ですが、って、ちょ、これはいったいどういう――

 ぶちりと気持ちよく通話を切る。

 『AI:BO』―― 数多あるなかでも最上の部類に入る、トウコの“好きなもの”。
 よく見ていればわかる。まったくそのとおりだ。

 風見にオススメされたセカンド・シーズンの劇場版をひっつかみ、駐車場に戻った彼は、そのまま車のDVDデッキに突っこんだ。
 早送りはせずに、最初から観る。
 風見とトウコがそろって愛好しているだけあって、なるほど彼にもそれなりに心を揺らされるシーンがあった。

 そして、開始からちょうど一時間三十八分。
 安室は見覚えのあるシーンで一時停止ボタンを押した。

 それはうつくしい桜吹雪の場面だった。
 大きな桜の下で主人公の刑事と相棒が今まさに犯人を暴かんとする、クライマックスシーンだ。
 安室は携帯を取りだし、ロケ地を検索した。
 情報サイトが示したその場所は、偶然にも―― いや、やはりというべきか、彼女の故郷のごく近くだった。
 エンジンをかけながら、安室は白い愛車に話しかけた。

「すまないな。もうひとふんばり頼めるか?」

◇◇◇

 ロケ地付近に着いたころにはもう深夜になっていた。

 近くにある駐車場に入って、そのままUターン。頭を入り口に向けて停車する。
 エンジンは、かけたままにしておく。

 空き地をロープで区切っただけのだだ広い駐車場に、人の気配はなかった。
 時おり、峠道を走りおりてくる車のヘッドライドが、光線のようにあたりを照らしていくほかは、たいした明かりもない。近くには、民家もコンビニも見当たらない。

 ひどく暗い夜だった。

 ハンドルを握ったまま、待ちはじめた。
 五分に一台来ればいいほう、というくらいのペースで前面道路を車が走り抜けていく。通行車が彼のFDのヘッドライトに照らされる瞬間を、かじりつくようにして見つめる。

 賭けだと言ってもよかった。勝率は五分、ここまでくればあとはもう運だ。

 彼はひたすら待った。

 一台。二台。
 三台。四台。五台。
 六台。

 どれくらい経っただろうか。七台目になって、かなり毛色の違うのがやってきた。

 独特の甲高い排気音。

 いまだ姿は見えずとも、腰元から背筋にかけてゾクリと駆けあがるものを感じた。毛が逆立つような緊張感が、興奮を加速度的に高めていく。
 サイドブレーキを引き、回転数をあげるとエンジン内部のローターが待ち焦がれるように唸りを上げた。

 そうしている間にも、『七台目』が迫ってくる。

 身体は夜の霧、吠え声は幽谷の風、瞳は煉獄の熾火。
 は、夜を引きつれ、闇の底から現れる。

 ―― 来る。

 ブォン、と音のかたまりが、ヘッドライトの光線を通り抜けた。
 その瞬間、彼はアクセルを踏んだ。くびきから解きはなたれたように、FDの白いボンネットが前面道路へと躍りでる。

 すぐ前を走るのは青のスカイライン・GT-R。
 ほんの一瞬視界に入った、ハンドルを握る幽霊の姿に唇を舐めた。

「やっと、見えた」


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