Chapter.4 ゴースト・ハント

File.54 ゴースト・ハント/ブラックドッグ


 闇を裂いて駆けるふたつの影。
 さらに苛烈にアクセルを踏み、安室は先行車の真後ろにつけた。せり出したリトラクタブル・ヘッドライトが、幽霊の正体を煌々とあばきだす。

 BNR34・スカイラインGT-R。
 数あるスカイラインのなかでもカーレースに特化して開発されたスカイラインGT-R―― その名を冠する最後のモデルがR34サンヨンだ。
 かつて80スープラやNSXなどとともに全盛を誇った、FD3S・RX-7の“ライバル車”のひとつでもある。

 先行車のナンバープレートすれすれに鼻先を寄せたまま、安室は追いたてるように夜の公道を走りぬけた。
 追われるR34に焦りの色はない。後続車の存在などまるで意に介さず、一定のペースで走りつづけている。

 前に出る機会を窺うも、そのたびに自動制御のような反応でタイトにインを締められてしまう。意思ある存在が乗っているとは思えない、機械的で無機質な走りだった。

 二台の車は膠着状態のまま、平地を抜け、上り坂に入った。山裾から上へ上へとのぼっていく峠道のコースだ。
 ところが、それを眼前にした瞬間、これまで頑なに沈黙を守ってきたR34が突如、咆哮した。
 巨獣の唸りのような太く重い低音。暴力的なエンジン音がびりびりと夜の闇を震わせる。
 ハンドルを握る両腕が総毛立った。

 まずい。
 そう直感した直後、目の前からR34の姿が消えた。
 いや―― 消えたと錯覚するほどの加速だった。

「……っ!」

 一瞬遅れて、強烈な走行風に襲われた。ぐっと強く引き寄せられるような感覚とともに、否応なくFDのスピードが引きあがる。

 スリップストリーム。
 先行車の後方にできた空気の薄い部分に、後続車が強力に引きこまれる現象だ。先行車の速度域が高いほど強くはたらく。狂ったように弾けるスピードメーターの針と、ガタガタ揺れる車体。
 ハンドルを取られそうになり、安室はさらに腕に力を込めた。

 平地を走っていた時点で、スピードはすでに相当なものだった。そこからたったひと踏みでこの加速。どんなチューンをしているのかは知らないが、五百馬力は軽く出ている。
 こわばりそうになる口元を、無理やり持ちあげた。

「ネズミだって?バカ言え」

 嘲笑うように、モンスターがさらに速度をあげた。
 GT-RのリアエンブレムがじわじわとFDの鼻先から遠ざかりはじめる。

 GT-Rはレースで勝つために生まれた車だ。市街地で一般車のように飼いならされていても、ひとたび踏みこめば豹変する。
 飛びぬけた加速性能とパワー。その源であるRB26DETTは500psオーバーのチューニングにもなんなく耐えうる国産エンジンの最高峰。
 重厚でタッパのあるGT-Rとはこのうえなく相性がいい。

「さすがに、足りないな」

 ギアチェンジのごく短い合間、安室はあえぐように息を吐いた。
 加速には自信のあるRX-7も、ヒルクライムでハイパワーチューンのGT-Rを相手取るのはさすがに分が悪い。ただでさえ燃費の悪いガソリンメーターが見ている間にもガンガン減っていく。

 鮮やかなベイサイド・ブルーの車体は、今はもう闇に溶けてその輪郭すら判然としない。
 闇の中、テールライトだけが赤く浮かんで見える。特徴的な形をしたそれらは、燃える双眸のようにらんらんと安室を睨みおろしていた。

 その身体は夜の霧、その吠え声は幽谷の風、その瞳は煉獄の熾火。
 地に噛みつくようにして走る車は、闇色をした一匹の獣だった。

 黒犬の亡霊ヘルハウンドが、吠える。

◇◇◇

 坂をのぼりきったあと、峠をまわってそのまま下りに入った。
 急勾配の直線で大きく距離をかせいだR34は、すでに姿をくらませている。

 下りは、上りとは違い、急なS字が続く細い峠道だった。
 彼は、蛇のようにうねった全体を山の天辺から見下ろした。視界に入るのは、黒々とした山腹ばかり。

 いる。いるはずだ。
 坂道を下りながら、安室は下方に目を凝らしつづけた。

 そして―― 見つけた。
 数十メートル下に灯る、黒犬の赤い瞳を。

 その瞬間、彼は仕掛けた。
 下り坂のためのブレーキを離し、かわりにアクセルを踏む。金管楽器のような高らかな音とともに、くすぶっていたロータリーが回転数を跳ねあげた。

 世界が一気に後ろへ流れる。
 身体にかかるGが全身の感覚器を刺激して、いっそ快感なほどに、昂ぶりと集中が高まっていった。

 隔てられていた彼我の距離がふたたび詰まりはじめた。
 ただでさえスピードの出る下りに、曲がりくねった狭い峠道。
 GT-Rの強みはハイパワーエンジンによる馬力だ。逆にいえば、それを制御できるだけの重量があるということであり、四輪駆動4WDであることもあいまって、カーブの多い下り坂では全力を出しきれない。

 そしてそれこそ、安室の―― FDの待ちのぞんだフィールドだった。
 R34とは正反対の、低重心で女性的なフォルム。ドリフト・コーナリングに優れた後輪駆動FR。そして、軽くて高出力なロータリーエンジン。
 上級者向け、いや、そんなチープな表現は似合わない。
 自分が選んだドライバーだけにみずからの真価を許す、FD3S・RX-7はそういう車だった。

 狂ったようなスピードでおこなわれるダウンヒル。
 喉の奥で興奮が唸る。一瞬でも判断をあやまれば、ガードレールをつき破って谷底へ真っ逆さまだ。

 だが、それがどうした。
 その程度で終わるようならはじめからここにはいない。自分も、この相棒FDも。

 視界の先に、剣呑にかがやくR34のテールランプが見えた。
 ―― 追いついた。
 安室はさらにアクセルを踏み、ついにその右側にすべりこんだ。
 肩をつきあわせて並走する。
 ちらりと視線を横に流せば、R34の暗い運転席に一瞬、黒髪の端が見えた気がした。

 連続するカーブを利用してそのまま右から追い抜かそうとしたとき、ガンと左腹に衝撃があった。車全体が、突きとばされるように右へとずれる。

「とうとう直接攻撃たいあたりか……!」

 態勢を立てなおす間もなく、二度三度の追撃。
 ハンドルを左に切ろうとした瞬間、ひときわ重い衝撃がFDの車体を襲った。
 視界が飛ぶ。

 身を低めてなんとか席上に留まったものの、ガガガ、と何かの削れる嫌な音がした。
 見れば、右腹に土手が迫っている。
 そして、左にはR34の車体。
 容赦のないプレスで右側の土手に押しつけられ、白いフレームが聞くに堪えない悲鳴をあげた。

「チッ……!」

 FDに、重いR34を押しのける力はない。4WDとFRという駆動系の不利に加え、重量にして二百キロ以上の差がある相手だ。
 足を止めるか、このままスクラップになるか。
 物言わぬ黒い車影が、選択を迫ってくる。
 相手は本気だ。

「……だったら」

 深呼吸をする。
 アクセルを踏み、その状態のまま、ハンドルを―― 『右』にきった。

 ガタン、というひときわ強い衝撃。
 左側からの圧力がなくなり、かわりに直下に別の振動が起こる。

 右側の土手に乗りあげた安室は、その状態で切りたった斜面を駆けぬけた。
 加速によるウォールクライミング。
 一歩まちがえば大惨事の荒技である。

 力を加えていた相手が急に消えて、R34は一瞬ガクンと右によろけたが、土手にぶつかる前になんとか態勢を戻した。

 それぞれ土手と道路で並走する。
 トウコがトンネルに入ったタイミングを狙い、安室は元の道路に復帰した。
 隘路が続いているおかげでR34の足はふるわず、FDの鼻先はまたすぐにその後背に肉薄した。

 しかし、そこからが難しかった。
 前に出られない。インはきつく締められているし、外をまわろうとすれば先ほどのような力技のプレスをくらう。
 リアドライブのFDは後輪への負担が大きく、タイヤの磨耗も激しい。長期戦に持ちこまれれば、ジリ貧になるのはこちらのほうだった。

 闇夜にエンジンが唸る。
 さきほどの攻撃的なドライビングが嘘のように、R34は冷静かつ精密な走りを見せていた。

 不利な条件がそろったフィールドでよくもここまでやれるものだ、ともはや素直な感嘆でもって、前を行く車のリアウインドウを見つめた。
 車内は相変わらず暗く、運転席もシートバックに隠されてよくは見えない。しかし、ドアミラーにはたしかに人影が映っている。

 冷たい夜霧をまとうように、心を隠し、感情を隠し、走りつづけるトウコ
 彼女は今、何を思い、ハンドルを駆っているのだろうか。

 ―― わからない。
 彼は、彼女のことを、本当は何も知らない。

 でも、だからこそ、今こうしてその背を追っている。求めつづけた謎の、その終着点こたえに辿りつくために。
 安室は思考を切りかえるように、頭を振った。

「消耗しているのは向こうだって同じだ」

 後ろから先行車を観察する。よく見れば、さっきはまでは完璧な軌道を描いていた走行ラインが、カーブの際、わずかに外にふくらむようアンダーステアになってきている。
 消耗しているのはタイヤやブレーキだけじゃない。
 高いレベルで保たれてきた集中力もまた、しだいに摩耗をはじめているのだ。

 ―― ここを逃せばあとはもう泥沼だ。

 強くアクセルを踏み、ふたたび先行車の右側に出る。学習しない後続車に、R34は苛立ったようにエンジンをふかせた。
 そして、プレスというよりも、もはや粉々にせんばかりの勢いで車体を寄せてきた。

 ガン、とひときわ重い衝撃がFDの横腹に叩きこまれる。
 しかし安室は減速も加速もせず、同じスピードで走りつづけた。

『そんなに死にたいんだったら――

 冷たい声とともに首元に両手があてがわれる。そんな想像が頭をよぎるくらいに、相手はガラリと空気を変えた。
 いったん左へ離れ、をつくる。
 そのさまは獲物に向かって身を低くする獣のごとく。
 一瞬後、これでとどめとばかりに、R34がかつてない勢いで突っこんできた。

 その瞬間、彼は思いきりブレーキを踏んだ。

 シートから投げだされそうな衝撃とともに、車体が一気に後退する。少なくともトウコの側からはそう見えただろう。
 並走していた相手を見失ったR34は、文字通り肩透かしをくらい、勢いあまって右方へよろけた。

 それこそが、待ち望んだ瞬間だった。
 タイミングを逃さず、彼はふたたびアクセルを踏んだ。
 今度はハンドルを―― 左にきりながら。

 ビル街を飛ぶツバメのように、わずかに空いたインを抜けていく。
 なんとか態勢を立てなおしたトウコが、運転席で愕然と目を見ひらいているのが見えた。

 二車の位置が逆転し、完全に前に出た安室は、刻むようにブレーキを踏んだ。
 ランプの点滅によって後続車に警告を送る。

 ―― 止まれ。止まらなければ、どんな手を使ってでも停止させる。

 バックミラーに映った女の顔が、歯を食いしばるように歪んだ。
 が、返ってきたのは恭順の意思ではなかった。

 ふたたびGT-Rが咆哮する。
 駆動系の消耗が深刻なレベルに達していても、燃焼・排気系統はいまだ健在のようだ。
 たいしたモンスターエンジンだ、と安室はおもわず舌打ちをした。

 4WD車とは思えないドリフトを重ねながら、GT-Rが猛追してくる。目の前にFDが迫っているというのにブレーキを踏む気配はない。

「クソ、往生際が悪すぎるぞ……!」

 このスピードで追突されては大事故は免れない。
 どちらが先に離脱するか、というチキンレースの様相を見せはじめるも、命知らずのR34はさらにじわじわと距離を詰めてきた。

 運転席に座るトウコの顔を、FDのテールランプがぼんやりと照らしだす。
 もう一刻の猶予もない。
 限界だ、と横に逃れようとしたとき、ミラーに映ったトウコの口角がわずかに上がった。

 その瞬間、R34の鼻先が―― 『真横』に向いた。

 そこからはまるで映画のスローモーションだった。
 ねじ切らんばかりの勢いで右方にハンドリングされたGT-Rは、その場でタイヤをすべらせて百八十度スピン、唖然とする安室を残し、元来た道を逆方向に走りだした。
 時間にして一秒かそこらの出来事である。

 摩耗したタイヤを逆に利用して、滑らない4WDを強引に滑らせる。
 駆動系が消耗して強烈なアンダーステア状態であることを考えればわずかなミスも許されない。
 命がけの荒業であると同時に目を瞠る神業だった。

 予想だにしなかった反転だったが、彼もまた極限の集中状態にあった。
 常人では考えられない反応速度でハンドルをきった安室は、同じくノータイムで転回した。

 しかし、旋回の勢いでうまく右車線にずれていたR34は、FDのスピンの隙をついてすでに逃走を図っていた。

 見えなくなったテールランプを追い、来た道を戻った安室は、じきに前方に分岐点を見つけた。
 行きには気づかなかった道だ。
 急な上り坂になっているところを見ると、おそらくは峠に向かうもうひとつのルートだろう。

 どちらの道を選ぶべきか。分岐点に差しかかるまでのほんのわずかな時間、安室が思いうかべたのはトウコの顔だった。

 そして彼は峠道へとハンドルをきった。
 ろくに整備されていない道を行くと、半ば藪に突っこむようなかたちでR34が停められていた。運転席はすでにもぬけの殻。

 顔を上げれば、そこから先は明かりもしるべもない夜の森だった。

 安室もまた車を降り、闇の中へと走りだした。
 すでに日付は変わり、深夜というべき時間帯である。
 自分の足元さえろくに見えない状態で、足跡を辿るのはほとんど不可能に近かった。

 だが、それでも安室は迷わず走りつづけた。
 峠のてっぺんに向かって、道なき道を駆けあがる。

 走りながら、持ってきていたものを投げ捨てていった。
 時計、財布、手帳、携帯。今となっては、何もかもが邪魔だった。
 余計なものをかかえたままでは追いつけない。
 ―― 彼の追う幽霊は、何も持ってはいないのだから。

 走って、走って。
 そうして鬼ごっこは突然、終わりをむかえた。

 辿りついたのはひらけた場所だった。頭上には木々も山肌もなく、ただ夜空だけが広がっている。

 山のてっぺん。峠道の行きつくところ。
 雲ひとつない空には、大きな月が白々と輝いている。闇に慣れた目には眩しさすら感じる満月だった。

 そのとき、ひらり、と肩にひとひら落ちたものがあった。
 安室はどこか畏怖の念さえいだきながら、頭上を見た。

 それは―― 薄紅の花弁を狂い咲かせた、桜の巨木だった。

 天を満たすほどに花枝を伸ばした森の主は、月の白光を背に受けながら、今まさに待ちのぞんだ宴の時を迎えていた。

「こんばんは。素敵な夜ですね」

 聞こえたのは丁寧な挨拶だった。
 彼女はいつもそうだ。欠かさず自分から声をかける。

「こんばんは。ああ、とてもきれいな夜だ」

 はじめてきちんと挨拶をした安室に、彼女はほほえんだ。
 ―― いつもと同じ、どこか哀しそうな顔で。

「僕はもう、君が誰かを知っている」


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