「こんなところで奇遇ですね、安室さん」

 桜の下、彼女はそう言って、困ったように眉を下げた。



Chapter.4 ゴースト・ハント

File.55 ねがはくは、花の下にて(Ⅰ)


「もう逃げるのはやめたのかい」
「あれ以上、派手にカーチェイスをやって、車が壊れるようなことがあればイヤですから」

 どの口が言う、と安室は肩をすくめた。

「ぶつけてきたのはそっちだろ」
「おやおや。さては標識を見ていませんでしたね?あそこは追い越し禁止ゾーンですよ。追越し違反で二点減点、ピピッ」

 警笛を吹く真似をしてみせたあと、トウコは「それに、言ったでしょう」と安室から視線を外した。ぐるりと首を巡らせて、背後に立つ桜の古樹を見上げる。

「ぜんぶ終わってから、お花見の予定を入れようかなって」
「近くまできたら、あとは歩いて現地集合って?」
「ご覧のとおり、車の入れる道がありませんからね。ここの桜は穴場すぎて、地元の人間にもほとんど知られていないんです」

 木の肌を撫でるやさしげな手つきに、安室はふと問うてみた。

「この木は、タチヒガン?」

 意外な質問だったのか、トウコはほんの少し目を見開いた。

「ご存知なんですか?」
「まあね。でもそれにしては妙だな。タチヒガンのシーズンはもう終わってる」

 数日前に湯守とともに見た散り際の桜。
 記憶の景色を読みとったように、トウコは頷いた。

「ええ、安室さんのおっしゃるとおりです。なんたって立ですから。たとえば、有名な鎌倉浄智寺のものなら今はもう散ってしまっているでしょうね」

 満開の桜を見あげ、トウコは「この木は特別なんです」と言った。

「土壌のせいか気候のせいか、タチヒガンのくせにソメイヨシノと同じ時期に咲く。タチヒガンというのはね、桜のなかでもとっても長寿で立派な種類なんですよ。樹齢二千年の神代桜しかり、千五百年の淡墨桜しかり。この木がもし普通のタチヒガンだったら、ここだって今ごろはちょっとした観光名所になっていたはず。名前はそうだなあ、赤羽桜とかどうでしょう。いかにもローカルな感じで」

 あはは、と明るくおどけてみせたトウコだったが、黙ったままの安室を見て苦笑した。

「彼岸に咲けない―― 彼岸に立てない、仲間はずれのタチヒガンです。彼岸の住人たちもさぞ残念がっていることでしょう。せっかくこちらに里帰りしたのにお花見ができないなんて、って」

 トウコは足元に視線を落とした。

「まあ、彼岸にかえれない、仲間はずれの幽霊にはありがたいことですけど」

 安室はやはり何も答えられなかった。言ったほうも何か返事を期待していたわけではなかったらしい。とん、と幹に背をあずけたトウコは夜空に咲く花をひとり眺めはじめた。

 明るい月夜だった。

 枝と花の間をぬって射しこむ、淡く清浄な光の帯。手を伸ばせば届きそうな月の下、彼女の横顔は白くかがやいていた。
 しずかにゆれるまつげも、黒曜のような瞳も髪も、ただただ濡れたように光るばかりで、その心のうちを明かそうとはしない。

 透きとおっている。
 透きとおってうつくしく、だからこそ、どこかかなしい。
 彼女は此岸にとり残された、ひとりぼっちの幽霊だった。

 ご存知ですか、と透明な彼女は透明な声で言った。

「私は桜が好きなんです。どれも古くから根をはり、この地を支えてきたとても大切なものだから」

 天上の桜に向けられていた視線が、地上に降りてくる。

「でも、そう思ってるのは私だけじゃない。あなただって本当は好きでしょう」

 『サクラ』と、特別な響きをもってつぶやかれた言葉に、ぴくりとまぶたが震えた。

「もしくは『チヨダ』。そして、その現在の呼称は―― 『ゼロ』。協力者獲得工作と作業指揮を担う、警察庁警備局内の機密機関。名前どおり、あなたにぴったりの職場ですね、降谷零さん」

 彼女はさらりとそう言った。いつもの『アールグレイをホットでひとつ。ミルクつきで』というのとさして変わらない口調で。
 だから彼も、いつものように笑って答えた。

「『サクラ』も悪くない呼び名だけど、さすがに古すぎるな」
「たしかに」

 彼女も笑う。彼らはいつものマンションでやる、いつものやりとりのそのままに、会話を続けた。

「知ったのはいつ?」
「うーん、ヒミツ」

 謎めいた女の妖艶さ、というよりも、イタズラがバレた子どもの無邪気さで、トウコは唇に人さし指を当てた。
 が、直後、眉根を寄せた彼に、彼女は慌てて両手を振った。

「じょ、ジョークですよジョーク。あなたが訊きたいのは『知っていて近づいたのか』ってことでしょう?それに対する答えは、完全に『いいえ』です」

 肯定も否定もしない安室を見つめ、トウコは首を横に振った。

「誓って言います。街で噂の喫茶店員さんがそうだなんて、夢にも思っていませんでした。あの日はじめてポアロに行くまでは。気を悪くしないでくださいね。私は本当に、あなたに興味なんてなかったんです」
「僕、じゃなくて―― 、だろ」

 つぶやいた彼に、トウコははっとまつげを揺らした。心臓を撃ち抜かれた人のように、目を瞠って、唇を開いたり閉じたりする。
 そして最後には、己の罪を告白するように、瞳を伏せたのだった。

「そのとおりです。どうだってよかったんです。ずっとずっと」

 それからトウコは黙ってしまった。ふてくされたように桜の木にもたれ、足元に視線を投げやっている。
 普段の彼女からは考えられない、ひどく子どもじみた態度だった。

 しばらくしてトウコはふたたび顔を上げた。
 眉のあたりにはまだすこし拗ねたあとが残っていたが、彼女は気を取りなおしたように明るい声で言った。

「いずれにせよ、私はもうあなたの秘密を知ってしまっています。さて、どうしますか。まさか今さら手切れ金だなんて、しょっぱいことは言わないでしょう?」

 トウコはいつかのやりとりを引用して、いたずらっぽく笑った。
 深刻な話のはずなのにまるで他人事のような言い方をするので、安室は少しおかしくなってしまった。

「それどころか逆にこっちが請求したいくらいだよ。こことの行き来でかかった高速料金とガソリン代、それから君が壊した車の修理費。最低でもそれくらいはね」
「お支払いしたいのはやまやまなんですけどね。ほら、私ってかなりの貧乏人ですし」

 悩ましげに眉毛を下げてみせるトウコ。そんな彼女に、安室は笑いを浮かべた。

「苦学生だって?おもしろいことを言うなあ。『佐神トウコ』は金に困るような人間じゃなかったはずだけど」

 反応は明らかだった。
 まなじりから、ちゃらけた笑いをあとかたもなく消し去ったトウコは、穿つような視線で安室を見つめかえした。
 冷たさすら感じるそれに、彼は確信した。
 やはりその名は彼女のアキレス腱なのだ、と。
 トウコが何かを言いだす前に、安室は勝手に話を始めた。

佐神トウコ。都内の資産家のひとり娘として生まれるも、幼くして身よりをなくしハイツ・アサヒを含む親の財産をすべて相続する。明應大卒、警察学校でも優秀な成績を残した秀才であり、本人の強い希望で警視庁の刑事となった。刑事としても将来を嘱望されていたと聞いている」

 そこでいったん言葉をきり、安室は真正面からトウコの視線を捉えた。

「だがある日突然、失踪した。休暇中の出来事だったということだが、場所が海外だったこともあり、その行方は現在もわかっていない。今からおよそ七年前、彼女が二十五歳のころの話だ」

 風見から聞いた内容は、それですべてだった。内部のデータベースに残されていたのは、あくまで『佐神トウコ』という人物についての情報だけ。
 それ以上のことはこちらでは、と風見は申し訳なさそうにこぼしていた。

「だから、ここからは僕の考えだ。君が『赤羽雪枝』だということは僕の中でほぼ確定したことがらだ。『赤羽雪枝』はすでに故人だから、正確には元『赤羽雪枝』ということになるけどね。僕は当初この『赤羽』こそが今回の件のミソだと思っていた。さまざなカモフラージュを行い、自分が『赤羽雪枝』だったことを隠しとおす。それが君の狙いなんだと」

 だが、と安室はトウコの目を射抜いた。

「『僕にそう思わせる』ことこそが君の真の狙いだったとしたら?君は『赤羽雪枝』にあえて多重のカモフラージュを施すことで『赤羽雪枝』がさも重要なファクターであるかのように見せかけた。僕の目を、本当に隠したい秘密から逸らすために」

 『赤羽雪枝』をカモフラージュしていたのではなく、『赤羽雪枝』自体がカモフラージュだったのだとしたら。
 彼女が本当に隠したかった秘密は、必然的にひとつに決まる。
 『赤羽トウコ』でも『赤羽雪枝』でもない彼女が名乗った、もうひとつの名前。

「『君は佐神トウコなのか?』―― 今の君にとって、もっとも投げかけられたくない問いがそれだ」

 桜の下に立つ女は、月の光のなか、じっとこちらを見つめていた。
 たとえば、とてもとても大事なガラスの置物が目の前で落ちていく。またたきひとつにも満たない時間ののち、それは地面にあたって粉々に砕けてしまう。
 そう理解しているのに何もできない、そんな一瞬の静謐さを帯びた瞳だった。
 慌てることも絶望に打ちひしがれることもできずに立ちすくみ、ただぼんやりと目の前のできごとを眺めている。
 どこか神のそれにも似た、遠く凪いだ視線。

「君は、『佐神トウコ』じゃない。それどころか、『トウコ』ですらない」

 彼は宣告した。

「君は、

 その瞬間、ぴしり、とふたりの間にあった透明なガラスが割れた。枝にわかれる雷光のようなきれいなヒビが入ったかと思うと、そのまま粉々に砕け散っていく。
 秘めつづけた正体を残酷に暴きだし、透きとおるガラスの破片を身に浴びながらも、彼はどこかやさしい声で続けた。

「だから、だからこそ君は『トウコ』になろうとしたんだ。そうだろ?」

 彼女も、もう驚いた顔は見せなかった。
 代わりにどこか諦めたような、そして、どこかさみしそうな笑みをのせて、「はい」と小さく頷いたのだった。

「さっき『正体を知ったのはいつか』と訊きましたね。私があなたの正体を確信したのは、あなたに出会ってしばらくしてからです。でもね、あなたがどういう人かは、はじめて会ったときからなんとなくわかってたんですよ。あなたは、トウコさんによく似ていたから」

 はじめて自らの口で紡いだ名前に、彼女はほんの少しまつげを揺らしてから、照れたようにほほえんだ。

「私はこうみえて鼻が利くんです。あなたたちからはいつもいいにおいがしました。この国を支える、桜のにおいが」

 真剣なまなざしで彼を見つめていたトウコだったが、じきに相好を崩し、えへへと苦笑した。

「最後までバレない自信はあったんですけどね。気づいたのはいつ?」
「うーん、ヒミツ―― って言いかえしてやりたいところだけど、それだとまるで推理にやましい部分があるみたいだからね。実際のところ、君の正体に辿りついたのは数時間前だよ。君たちの日記を読んで、それでようやく確信を得た」

 安室はここで、少し眉じりを下げた。

「情けない話さ。君の正体についてのヒントは、はじめから僕の目の前にあったんだ。でも、それがそうだとはギリギリまで気づかなかった。『郵便物でいっぱいのポスト』―― あれこそが最大の手がかりだったのにね」

 心底残念そうな顔をしてみせた安室に、トウコはどこか楽しそうに訊ねた。

「あなたの推理、聞いても?」
「言われなくとも喋ってやろうと思っていたよ」

 笑ったあと、彼はポケットに突っこんでいた右手を出し、人さし指を立てた。

「ことのはじまりは一年前、僕がハイツ・アサヒに招かれたあの春の日だ」

 そうして安室は話を始めた。

「一年前、盗聴・盗撮のため、僕を二〇三号室に誘いだしたかった君は、二〇三号室の青田さんと二〇四号室の『赤羽トウコ』とのあいだで入れかわりを仕組んだんだったね。具体的には、二室の表札を入れかえ、ポストのラベルとその中身もそれぞれ入れかえることで、『君が二〇三号室の住人で、青田さんが二〇四号室の住人』だと見せかけた」

 安室がトウコの依頼で最初にハイツ・アサヒを訪れた日、二〇四号室のポストは『青田』のラベルが貼られたうえで、郵便物があふれ出した状態になっていた。
 つまりトウコは、名字のラベルを貼りかえたうえで、二〇三のポストに溜まっていた青田宛の不在郵便を取りだし、そのまま全部二〇四のポストに移しかえたのだ。

 「―― と、ここまでが、僕の推理。当時の僕ときたら、それで解決した気になっていたんだからのん気なものだよ。致命的な間違いを犯しているとも気づかずに」

 黙って聞いているトウコに向かって、彼はよく通る声で『真相』を告げた。

「ポストの中身は『そのまま』だった。君が取りかえたのはポストのラベルだけ」

 事実を知らしめるように、言う。

「はじめから、二〇四号室のポストはいっぱいだったんだ。佐神トウコ宛の、不在郵便で」

 二〇四号室に住んでいた佐神トウコには、行方不明になったあとも郵便が届きつづけていた。
 ガソリン店の洗車クーポン、家電量販店の優待セールチラシ。
 ―― 受取人がすでにいなくなっていることなど、誰も知らずに。

「もちろんポストは数ヶ月でいっぱいになってしまう。だからそうなる前に、君か湯守さんが定期的に取りだしていたんだろうね」

 桜のトリックが行われたあの時はきっと、そうやって取りだされる直前だったにちがいない。
 そこで安室はトウコをじろりと見た。

「『隠しごとはしても、嘘だけは絶対につきません』だっけ。本当に質が悪いよな、それ。僕が得意満面で間違った推理を語るのを聞きながら、あえて黙ってたってわけだ。君にしろ湯守さんにしろ、嘘はひとつも言わないが、大事なことはもっと言わない」

 彼はふてくされたように、はあ、と息を吐いた。
 そしてそれをスイッチ代わりにして、いよいよ本題へと入った。

「君たちの日記、読んだよ」

 古いほうは佐神トウコのもの、そして新しいほうは目の前にいる彼女のもの。
 二人のトウコが書いた、二冊の日記。
 『両方ともトウコちゃんのもの』―― 湯守が言ったまさにそのとおりだったわけだ。
 隠しごとはしても嘘はつかない、あのアパートの不文律。

佐神トウコの日記は、とある日でぷつりと途切れている。そして君の日記には、僕と出会ってからの内容しか記されていない」

 ふたつの日記は語らない。
 佐神トウコが失踪した日、ふたりのトウコにいったい何が起こったのか。
 だからこれもまた、安室自らが出した結論だった。

佐神トウコは、すでに死んでいる」

 トウコはうつむき、唇を噛んだ。
 安室ならいずれは答えに辿りつくであろうことを、彼女はきっとわかっていた。
 だがわかっていたとしても、その事実は耐えがたく彼女の心をかき乱すのだ。
 なぜならそこには、彼女にとってもっとも知られたくない秘密が潜んでいるから。

「彼女は失踪したんじゃない。死んだんだ。そして、その死の真相を知る者は、おそらく君だけ」

 ハイツ・アサヒでまことしやかに囁かれる桜の幽霊の怪談。
 ―― 死んだら大きな桜の木の下に埋めてほしい。
 そんな言葉を遺して二〇四号室で自殺したとされる若い女。
 火のないところに煙は立たない。

「自殺したとされる二〇四号室の女性。そのモデルはまちがいなく佐神トウコだ」
「あいかわらず、優秀ですね」

 黙って話を聞いていたトウコが、ぼそりと口を開いた。

「でも、安室さんの推理にはひとつだけ間違いがあります。『モデル』なんかじゃありません。トウコさんは噂の女性本人です。だって、彼女は自殺したんですから」
「君がそう思いたいだけだろう」

 トウコがはっと顔を上げた。
 アーモンド型の瞳をいっぱいに見開いて、安室を凝視している。

「君たちの話を聞かせてくれるかい。夜明けまではまだもう少し時間があるから」

 安室は笑ってそう言い、近くの岩に腰かけた。
 トウコはしばらく彼の様子を見つめていたが、ほうっと息を吐いた。そうして同じように桜の下に腰をおろした彼女は、長い長い昔話を始めたのだった。

トウコさんと出会ったのは、ここからずっと遠い外国の、古くて埃っぽいホテルのなかでした」

 


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