私は、今から約二十年前、とある雪深い山村に生まれました。
File.56 ねがはくは、花の下にて(Ⅱ)
あなたもよく知るとおり、生家は錠前屋を生業とする古い家です。
私は、その待望の第一子・長女として生を受けました。
そのときにもらった名前は雪枝。
同じ日に生まれた、同じ顔をした双子の妹・入絵とともに、あたたかな家族のなかで大切に育てられます。
女の子らしく物静かな妹とは正反対に、私は良くいえば活発で、悪くいえば落ち着きのない子どもでした。
何にでも興味を示した私は、物心つかないころから父や祖父の仕事場に入りびたり、錠前をおもちゃに遊んでいたそうです。
夏には祖父と近所の川で魚を釣り、秋がきたら母と妹と一緒に焼きいもをして、冬の日はこたつを囲んで家族団らん。
そして、春になればみんなでお花見に行きました。
山の中に車を停めて、一生懸命でこぼこの道を登っていきます。
辿りつくのは、峠の天辺にある私たちだけの秘密の場所。
満開の桜の下、小さなレジャーシートにぎゅうぎゅうガヤガヤと肩を寄せ合って、手作りのサンドイッチを食べました。
舞い散るのは、なつかしき薄紅の花。
思いだすのは、うつくしきふるさと。
私にはもう幼いころの記憶はほとんどありませんが、この光景だけは今でもどこかに残っていて、ときおり私の心をきゅっと締めつけるのです。
私たちが五歳になったとき、家族の休暇が重なって、海外旅行に出かけることになりました。
めったに故郷を離れることのない私たち家族にとって、海外旅行ははじめてといってもいいくらい不慣れなものでした。もちろん外国語なんて全員さっぱりです。
キョロキョロ、オドオドしながらツアーガイドのお姉さんの後ろを子ガモのようについていきました。
旅行中はそれはもう、次から次へとさまざまなハプニングが起こりました。
祖父がパスポートを落としそうになったり、妹が迷子になったり、父が怪しげな外国人に怪しげなものを売りつけられたり。
でも私たちにとっては、そんなことすらも楽しい旅程のひとつだったのです。
そして、翌日には日本に帰るという最後の日、泊まっていたホテルが火事になりました。
ホテルには私たちのような家族連れのツアー客がたくさん宿泊していたため、現場はたちまちパニック状態になりました。
子どもの泣きさけぶ声、走りまわる人の足音、遠くで聞こえるサイレン。
じわじわと、しかし確実に迫りくる炎の気配。
日本語、英語、中国語、それからたくさんの知らない言葉が飛びかう混乱のなか、どこをどう逃げたのか、私は両親とはなればなれになってしまいました。
人混みに逆らい、家族を探しました。お母さん、お父さん、と泣きながら。
いえ、家族を探しているのは私だけじゃありませんでした。
大人も子どもも皆が皆、自分の大切な人を見つけるのに必死だったんです。
だから―― 仕方なかった。
気付いたときには、私は煙に閉ざされた廊下に、たったひとりで立っていました。
喉はもうとっくの昔にだめになっていて、助けを呼ぼうにも声が出ません。いつ火傷したのか、腕もヒリヒリ痛みます。
人の声は聞こえず、炎のはぜるおそろしい音だけが私を取り囲んでいました。
身体も頭も心も全部、我慢できないほど苦しくて、私はとうとうその場にしゃがみこんでしまいました。
「すわる、ダメ。あるいて」
人の声がしました。
見れば、警察官のような格好をした外国人が、まだ煙の薄いほうの非常口から顔を出していました。
彼はカタコトの日本語で私を呼びました。
「おいで。ダイジョウブ。ワタシ、キミ、たすけにきた」
「ほんと……?」
私はかすれた声で訊ねました。
「ホント。パパとママ、コッチいる。おまわりさン、ウソつかない」
それがとてもやさしい笑顔に見えたので、私は力をふりしぼって立ちあがり、その手を取りました。
彼はすぐに私に頭に上着をかぶせ、非常口から逃げだしました。
さっきまで熱くてたまらなかったのに、今度は寒くて寒くて、上着の下でずっと身体を丸めていました。
もうダイジョウブ、という声で私は顔を上げました。
火事場の喧騒はすでに遠くなっていました。赤く燃える夜空がビルの隙間にちらりと見えるくらいです。
彼は近くに停めてあった黒いバンまで私を案内しました。
そこには同じように火事から逃げてきた子どもたちがたくさん乗っていました。
黒、ブラウン、褐色、青、緑。
さまざまな色の瞳がいっせいにこちらに向きます。私と同じく、不安と安堵の入りまじった視線でした。
運転席にはやはり警察官の格好した別の男の人が座っていて、彼もまた、とても気さくに、乗れ、と合図をしてくれました。
子ども用の低いタラップに足をかけたとき、ふと背中に視線を感じました。
振りむくとコートを着た初老の女性が、向かいの路地からじっとこちらを見つめていました。
とても印象的な、薄く青い、瞳でした。
おもわず見入ってしまった私に気付き、男の人はその女性に向かって何ごとかを顎で示しました。すると、女性は我にかえったように視線を逸らし、そそくさと路地に消えていきました。
それっきりでした。
運転手は仲間と私のふたりがちゃんと乗ったのを確認してから、エンジンをかけました。
私を助けてくれた警官は助手席に乗っていて、複数の言語で子どもたちに何ごとかを伝えていました。
日本語はいちばん最後でした。
「これから、ビョーインいく。みんなのパパとママ、いる」
子どもたちを満載した車がゆっくりと走りだします。
疲れていたこともあって、子どもたちは気を失うように次々と寝てしまいました。私もまたウトウトしはじめ、まもなく眠りにつきました。
さっきこちらを見ていたあの薄青の、どこか悲しそうな瞳を忘れられないまま。
目を覚ますと、目の前に知らない天井がありました。
真っ白で汚れひとつない、とても清潔な部屋です。
びょういん?とおもわずこぼした声で、隣で寝ていた子が目を覚ましました。私と同じようにキョロキョロと周囲を見まわし、不安そうに眉を下げています。
そうしているうちに他の子供たちも起きはじめました。
目を覚まし、親がいないことに気づいた彼らは、最後にはそろって泣きだしました。どの子も五歳かそこら、まだ慰めあえる年齢ではありません。そもそも言葉も通じないのです。
私もとうとう泣きはじめました。
お母さん、お父さん。お家にかえりたい。
他の子が何を言っているかはわかりませんでしたが、たぶん皆そんなふうに泣いていたんだと思います。
部屋が子どもの泣き声でいっぱいになったころ、白いドアがひらいて男の人が何人か入ってきました。そのなかには私を助けてくれた男の人もいました。
でも、不思議なことに彼はもう制服を着てはおらず、そのときになってやっと、私は彼が警察官ではなかったのだと気づいたのです。
冷たい瞳をした彼らは、ひどく恐ろしい声で、何ごとかを言い放ちました。
その途端、泣いていた子どもたちがぴたりと泣きやみました。
知らない言葉でしたが、だまれ、と言われたことはわかりました。
そして、絶対にその命令に逆らってはいけないということも。
だって―― 彼の手には、ナイフが握られていたから。
その日から、私は赤羽雪枝ではなくなりました。
その場所は、ただ“学校”とだけ呼ばれていました。
親からもらった名前を奪われ、元の名とは似ても似つかない呼び名で区別されるようになった私たちは、“学校”で毎日さまざまなことを教えられました。
まずはたくさんの言語。それから多分野にまたがる高度で専門的な知識。あらゆる国の教養とマナー。それと並行して、普通の子どもがまず習うことのない内容も数多く勉強しました。
情報収集の仕方。相手の心を読む方法。人をだます術。特殊な道具の使用法。
その中にはもちろん、武器の扱い方も。
あたたかい家庭のなかで守られ育てられてきた子どもたちにとって、ただひたすら勉強と訓練だけを繰りかえす生活は死にもひとしく苦痛なものでした。
子どもたちは夜になると、家に帰りたいと泣きました。大きな声で泣くとあとから罰を受けるので、枕に顔を押しつけて声を出さずに泣くのです。
お父さんとお母さんに会いたい。
お家に帰りたい。
でも本当のことをいうと、そういうのは少しの間だけでした。しばらくすると、みんな次第に理解しはじめたんです。
もう、誰にも、どうすることもできないのだと。
私たちは、私たちの知らないところでそれぞれ埋められたり燃やされたりして、いない人間になった。私たちを探す者はいない。助けにくる者もいない。帰る場所はない。帰ることはできない。
―― あの夜に、私たちは死んだんだ。
そうわかった途端、心のなかで抵抗していた最後の何かが、ぽろりと欠けて落ちていきました。
その日から、“学校”での生活に対して感じていた苦痛や抵抗が嘘のように消えてなくなりました。
まるで生まれてこのかた、ずっとそうやって暮らしてきたかのように。
そうなってはじめて気付いたのは、私たちに与えられている待遇は決して悪いものではないということでした。
身体を強く育てるための食事、高度で専門的な教育、徹底された健康管理。
人間的なあたたかみが完全に欠如していることを除けば、むしろ恵まれた環境だったとさえ言えるかもしれません。
意外に思われるかもしれませんが、“学校”においては暴力、拘束、虐待といった行為は排除され、子どもたちは比較的丁寧に取りあつかわれていました。
大人たちの目的は私たちを『育てる』ことです。
恐怖や抑圧はもっとも手軽に対象をコントロールする方法ですが、長期的に見れば、心身のパフォーマンスに悪影響を及ぼす要因となります。
“先生”たちはロボットのように合理的でした。
子どもの能力を効率よく引きだすことが彼らの至上命題であり、それを阻害する行為は基本的には無価値なものと認識されていたのです。
とはいえ『基本的には』なので、何らかの点で意味があると判断された場合には、彼らは顔色ひとつ変えないまま、その逆をおこないました。
それがたとえ、常人には目も当てられない残虐なものであったとしても。
話が逸れました。
とにもかくにも、私たちに与えられた唯一の義務は『成長』―― 知識を身につけ、能力を向上させることでした。逆にいえば、それを遂行しつづけるかぎり、大人たちが穏やかな庇護者の仮面を外すことはありませんでした。
それに気づいた私たちは、みずから進んで教育と訓練を享受するようになりました。
閉鎖環境の中、義務はしだいに目標へと変化し、場合によっては楽しみの一種にすらなりました。
子どもは脆くも強い生き物です。生き残るためならなんだってします。
大人は過去を忘れられないけれど、子どもはそうじゃない。
“学校”こそが世界のすべて。そう思いこみ、己の頭を完全に書きかえることで、私たちは与えられた環境に適応しました。
現実を受けいれ、諦めたんです。
そして、不幸にもそうできなかった子たちは、しずかに姿を消していきました。
そうして、長い時間が経ちました。
“学校”には常にたくさんの子どもたちがいました。
年齢も人種もさまざまな彼らの中で、私はたぶん、とても優秀でした。
同じ歳の子どもたちのうちでもっともおしゃべりでなく、それでいて多くの分野、とくに機械的・電子的な情報工作においては、いちばん短い時間で、いちばん正確に、いちばんたくさんのことができました。
ですが私の場合、もっとも評価を受けていた点はそこではなく、『におい』のなさ―― 民間人に同化する能力でした。
世界でもっとも人口の多い黒目黒髪のアジア人。きわだって美しくもなくきわだってみにくくもない顔立ち。そして何よりも、身にまとう空気がそうなのだと、“先生”たちは口をそろえて言いました。
ウソをつくことなく、だますことなく、装うことなく、なりすますことなく、どこにでもいる『その他大勢』になれる。これは訓練ではどうにもならない、ある種の才能だというのが、彼らの考え方でした。
才能。能力。“学校”ではそういったものがとくに大きな力を持ちました。才能のある者にはより高度な教育が与えられ、能力がある者にはより多くの自由が許される。
ですが、それらについて深く考える者はいませんでした。
ある者にはあり、ない者にはない。ただそれだけのもの。
私たちにとって、才能や能力はそのまま自分という存在と同一であって、それ以上にもそれ以下にもなりえないものだったのです。
そこに意味を見いだすだなんてことは、なおさら。
また話が逸れましたね。
いつしか、番号で管理される十把一絡げの子どもたちから区別され、多少なりとも名前らしい名前を与えられたときには、私は“学校”が子どもをさらっては商品として売る、そういう組織であると知るようになっていました。
だからといって、それに対し何か特別な感情をおぼえることはありませんでした。
むしろ、そういうふうになったからこそ、大人たちも私が真実を知ることを容認したのでしょう。
新しい子どもが入ってきては、またどこかへ消えていく。
彼らは『商品』を明確にランク付けしていました。
素材が良いほど、時間とコストと手間をかけて単価の高い商品に育てます。それなりのものは二、三年ほどかけてそれなりの一般品に、もっと良くないものは半年やそこらの消耗品に。
十歳を過ぎたころには、私と一緒にあのホテルから連れてこられた子たちは、ひとりもいなくなっていました。
名前を得たのと同じタイミングで、私は個室に移ることを許されました。
私専用の機材がそろえられた部屋には、改装のときに取り壊すのを忘れられたらしい小窓がついていました。
窓のない“学校“のなかで、そこは唯一、外の世界を垣間見られる場所でした。
私は時間があればその前に座って外を眺めました。
はめごろしの窓から見えるのは、曇った空と黒い森だけ。どんなときでも季節はわかりません。ただ、特定の時期になると真っ白な雪がすべてを覆い、そのときだけは冬が来ていると知れるのでした。
ある日、そんな白だけの景色を眺めていた私は、ふと久しぶりに故郷のことを考えてみました。
そして気付いたんです。何も、思い出せなくなっていることに。
町の名前は覚えています。その正確な緯度経度も把握しています。祖父や両親、妹。そういった存在がいたことも記憶しています。でも、その町がどんな場所だったのか、その人たちがどんな人たちだったのか、彼らとともにどんなふうに暮らしていたのか、どんなに思い出そうとしても何ひとつ思い出せないんです。
大事にしまってあったはずのアルバムは、私の知らないあいだに表紙だけを残してきれいに燃え尽きてしまっていました。
おもわず苦しくなって胸を押さえました。
思い出せなかったことがショックだったんじゃありません。ええ、そうであったならどんなによかったことか。
―― 反対です。まったくの反対だったんです。
思い出せないと気づいたとき、私は何も思わなかった。本当に、ほんのわずかにも。
私がショックを受けたのは、その事実でした。
悪意も好意も関心もない人間。
あなたの言ったとおり、どうでもよかったんです。ぜんぶ。
私から『におい』がしなかったのは、きっと、私がとうの昔にからっぽになっていたからなんでしょう。
それからしばらくたったある日、私ははじめて“学校”の外に連れ出されました。
窓を目隠しした黒塗りの車は、かなり長い時間をかけて移動したあと、どこかの駐車場の端でひっそりと停まりました。
車を降りて連れて行かれた先は、見知らぬ街の古びた大きなホテルでした。
私を伴ってホテルの地下通路に降りた大人たちは、私を目立たないところに立たせたあと、新品の拳銃を手渡し、こう言いました。
―― ここを通る人間は、全員撃ちなさい。
そして彼らは私に背を向け、足早に地上に戻っていきました。彼らにはこれから大きな仕事があるのでした。
火災を起こし、その混乱に乗じて新しい子供を攫う。
なんとも手っ取り早い彼らの仕入方法でした。火事であれば幼い子どもも簡単に家族から引き離せますし、何より後処理に手間がかかりません。何もかもきれいに燃えてしまったことにすればいいんですから。
ですがこのとき、私が手の中の銃を見下ろして考えていたのは、もっと別のことでした。
これはきっと最後のテストだ、と。
私が本当に使える商品なのかどうかを、大人たちは確認したがっている。
もちろん私は、そういう用途を主眼にして育てられたわけではありません。
ですが、この業界で生きていくかぎり、いずれかならずそういう機会はやってきます。そのときにためらうようなことがあっては、販売した“学校“の信用に関わります。
私は知っていました。テストに合格できなければ、『難あり』のラベルを貼られ、いずれは次の子のために再利用されることになるのだと。
私が攫われた日、あのホテルで赤羽雪枝として焼け死んだ誰かがいたように。
しばらくすると、上階から騒ぎの音が聞こえてきました。私はぼんやりと柱にもたれて待ちはじめました。
私としては例のごとく、まあどっちでもよかったわけです。誰かが来ても、来なくても。
誰かが来ればそれでテストはあっさり終わり、誰も来なければ二回目に延長される。ただそれだけの話です。
しいていえば、そのときはちょうど手の込んだクラッキングプログラムを構築している真っ最中だったので、こうやってまた外に出られるならちょうどいい気分転換になるかも、くらいのことは考えていましたね。
そうしてぼんやりと地上の喧騒に耳を傾けていたとき、どこからか人の足音が聞こえてくるのに気付きました。
上階の音ではありません。足音の主は確実に私と同じ階を歩いています。
それもこっちに向かって。
私は身を起こし、素早い動作でポケットに手を伸ばしました。
私が見張りを任されていた場所は点検用の通路。火事のときにこんなところにやってくるのは、ホテルのスタッフかバカだけです。
しかし、その足音は引きかえす素振りもなく、どんどんこっちに近づいてきました。
諦めてポケットの中で銃把を握ったときでした。
「アーユーオーケイ?」
絶妙にヘタクソな英語とともに曲がり角から顔を出したのは、黒髪の若い女性でした。