そのひとは、黒髪をひとつに結んだ、化粧っ気のないアジア人でした。



Chapter.4 ゴースト・ハント

File.57 ねがはくは、花の下にて(Ⅲ)


「アーユーオーケイ?」

 固まったままの私に向かって、もう一度ヘタクソな英語が繰りかえされました。
 我に返ってポケットから拳銃を抜く―― はずの場面だったにもかかわらず、取った行動は私自身にすら予想できなかったものでした。
 何を思ったか、とっさにトリガーから指を外した私は、まるで何ごともなかったかのように空の両手を身体の横にぶら下げたのです。

 どうしてこんなことをしてるんだろう、と私は自分の行動に混乱しました。
 ここを通る人間は全員撃ちなさい。“先生“にそう言われているのに。

 思い直して、もう一度ポケットに手を伸ばしかけたとき、ズゥン、と建物全体に重い衝撃が走りました。続いてもう一度。
 明らかに、爆発音でした。

 今回の仕事に火薬を使うという話はありませんでした。何か予想外のことが起こっているのだと気付いたときには、壁から剥がれた重い金属パイプがすぐ頭上にまで落ちてきていました。
 逃げようにも、間に合いません。

 そうか、私はここで――
 どこか他人事のように眼前の光景に見入っていたとき、女の声が私の身体を一喝しました。

「避けて!」

 ドン、とさっきとは別の衝撃が身体に響いたかと思うと、次の瞬間には遠くへ弾き飛ばされていました。
 庇うように上から覆いかぶさる影。その背中のすぐ後ろに、間一髪、けたたましい音を立ててパイプが落下しました。

 壁が剥がれおちる音、瓦礫が砕ける音。
 耳を押さえたくなるような暴力的な音が立てつづけに聞こえたあと、あたりはようやく静かになりました。
 電気が消えた暗い通路に、非常灯だけがぼんやりと光っています。

 薄情な私が何よりもまず最初にやったことは、出口の確認でした。
 しかし、唯一のドアはすっかり瓦礫で埋まってしまっており、脱出は簡単ではなさそうでした。

 そして、そこまで確認してようやく、私は自分に覆いかぶさっている誰かの存在に気付いたのでした。
 薄暗い闇の中で目が合います。
 黒い瞳がほっとしたように細められました。

 私は、すこしどきりとしてしまいました。
 なんというか、その視線が、とてもあたたかかったので。

 綿で包むようなやり方で私の背に手を回した彼女は、それでいて力強い声で言いました。

「もう、大丈夫。助けにきたよ」

 ひと言ひと言、きれいなビー玉をころがすようにつむがれた日本語。
 それはもう長いあいだ、本の中にしか存在しなかった言葉でした。
 目を見開いた私に、彼女ははっと両手を振りました。

「オー、ソーリー。ドンウォリ、アイアムア、ポリスオフィサー」

 警察という単語に私はさっとまなじりをきつくしました。
 「本当にそうなの?」と英語で鋭く問いただすと、どんな受け取り方をしたのか、彼女はさらにあわてて同じ言葉を繰りかえしました。

「アイムシリアス。アイマ、ポリスオフィサー」

 警察手帳を引っぱりだしながらの、やはり絶妙にヘタクソな英語でした。
 発音の悪さとその内容の疑わしさの両方に眉を顰めながら、私は目の前に示された手帳を覗きこみました。

 旭日章―― それは朝日をかたどった日本警察のエンブレムでした。
 当然、各国の警察章くらいは頭に入っています。もちろんその真贋の見分け方も。

 結果から言えば、どんなふうに触ろうが透かそうが、それは本物でした。
 私はポカンとしてから日本語で「日本の警察官?」と訊ねました。
 そうすると彼女は私よりもはるかに驚いた顔で「日本人なの!?」と叫びました。国籍も何もないので日本人というのもおかしな話なのですが、私はその勢いに負けてつい頷いてしまいました。

「わーっ!奇遇だね、こんなところに日本人!」

 そう言いながらも、彼女はそれこそ日本人とは思えないような熱烈なやり方でぶんぶんと私の手を握りしめてきました。

「さっきちょっと喋ってたけど、言葉すっごく上手だね。こっちには長いこと住んでるの?お名前は?」

 この状況下で、どうでもいい質問を矢継ぎ早に射かけてくる彼女に、私はちょっと、いえ、かなり呆れてしまいました。
 それでも、キラキラと目を輝かせてこちらの返事を待つ彼女を前に、折れたのは結局、私のほうでした。

 最初の質問には、うん、と小さく頷きました。
 ですが、ふたつ目の質問に対しては、口にできるようなろくなものがなかったため、黙って眉毛を下げました。
 困った顔をした私を見て、彼女は「そう」とだけ言って微笑みました。

「大丈夫。心配しないで。私がかならずお父さんとお母さんのところに帰してあげる。ほんとだよ。おまわりさんだから、絶対にウソはつかないの」

 彼女はそう言い切ったあと、明るい笑みとともに、もう一度右手を差しだしてきたのでした。

「私は佐神トウコ。よろしくね!」

◇◇◇

「そしたらその人、なんて言ったと思う?『そんなんだから、いい歳して彼氏のひとりもいねえんだ』って。キーッ!余計なお世話だヨッ!いやたしかに、どっちかっていうとかわいい系よりかっこいい系、ピンク色よりも青色のほうが好きなのは事実なの。車だって青だしね。クルマといえば……そうそう、聞いて聞いて!ずっと狙ってたクルマがさ、やっと手に入ったの!もう中古しか売ってない車種だから、状態のいいやつ探してたんだよね。するとまさかのほぼ新車。しかもVスペック。ぶっちゃけ向こう三年分くらいの給料が飛んじゃいました」

 ぺろっと舌を出すトウコさん。若干引いた顔をしている私に気付いたのか、彼女は弁解するように手を振りました。

「も、もちろん贅沢ばっかりやってるわけじゃないよ。普段はボロアパートで切りつめた生活してるからね。でも今回はどうしても我慢できなかったの……だって、走行距離一万キロそこそこでチューンもほぼなしってそんなR34、今どき全国さがしてもほとんどないよ。あの角ばったクソ真面目なフォルムといい、あのRB26の重戦車のような馬力といい」

 そういうところだ、そういうところ。
 話を聞きながら、私は思いました。黙っていれば普通なのに、口を開けば趣味に走って彼氏をドン引きさせるパターンです。
 ふたりでは瓦礫を動かせず救助を待つしかないとわかってからは、トウコさんはこんなふうにノンストップでおしゃべりを続けていました。

「それで、そのボロアパートにはそれはそれは古くて大きな桜の木が植えられていてね。両親から相続した不動産はほとんど売っちゃったんだけど、そこだけはどうしてももったいなくて。新しく『ハイツ・アサヒ』っていう名前に変えて、手元においておくことにしたの」

「ハイツ・アサヒ……?」

「と言っても、今は仕事がすごく忙しいから、管理はほかの人にお願いしてるんだけどね。その人というのが、とある事件の事情聴取をきっかけに仲良くなった人で」

 新しい話が始まってしまう前に、あわてて気になっていたことを質問しました。

「どうして桜なのに『アサヒ』なの?」

 トウコさんは一瞬きょとんとしましたが、すぐに笑顔になって、最初に見せた警察手帳を取りだしました。朝日をかたどった金色のエンブレムを指さします。

「これは旭日章という名前で呼ばれているんだけど、なんだか桜の花にも似てるでしょう?だから桜のアパートなのにハイツ・アサヒ。ま、仕事熱心な警察官にかかれば、どんなものもそういうネーミングになっちゃうってこと。あっ、そうだ!」

 彼女はとても大切なことを思い出したように、両手を打ちました。そしてジャケットの内ポケットに手を突っこんだかと思うと、ゴソゴソと何かを引っぱりだしました。

「じゃーん。お前は女じゃないって言われたから、さすがにちょっとムカっときて、つい先日こんな女子グッズを買っちゃったのでした」

 ピカピカと真新しいそれは、薄いピンク色をした小さなお花のストラップでした。
 知識としては知っている花弁の形に、私は首をかしげました。

「これも桜?」
「正解。色といい形といい女の子らしくてカワイイと思わない?」
「そうだけど、これ、なんていうか」

 言いたいことを察して、トウコさんは自信満々に頷きました。

「旭日章にそっくりでしょ。同僚には『熱血仕事女』とか『さすが車と仕事が彼氏なだけある』とかって言われちゃったけど、私はこれ以上にかっこいいものなんて知らないんだよね。ん?もしかして、かっこいいからダメなの?」

 口を押さえたトウコさんに、私は静かに首を振りました。

「そういうところだよ、トウコさん」
「子どもにまでそんなことを言われる私とは……」

 がっくりと膝から崩れ落ちたトウコさんでしたが、しばらくして、またこんなことを訊ねてきました。

「ねえ、どうして桜が日本警察のモチーフになってるか知ってる?」
「日本の国花だから?」
「それもあるね」
「それ『も』?うーん、じゃあ警視庁の別名が『桜田門』だから?」

 “学校”で学んだ知識の中から、今度こそもっとも正解に近いと思われるものを引き出しました。
 ところが、トウコさんはさっきと同じように微笑むばかりで、「違う」とも「そうだ」とも言いません。

「私たちの国には毎年、桜がたくさんたくさん咲くでしょう。校庭も公園も街角も、薄紅色でいっぱいになる」

 返事の代わりに返ってきたのは、歌うような声でした。

「だから、こんなふうにも思わない?そんな景色をこれからもずっと皆で見られますように。今年も来年も十年先も百年先にも変わらず、そんな春が来ますように。これは、そういう願いの結晶なんだって」

 トウコさんはストラップを目の前に掲げました。

「桜にかこまれた、どこにでもある、あたたかい毎日を守るのが、きっと私たちの仕事なの。だから、誰に何を言われても変わらない。変えたくても変えられない」

 黒い目の表面にうつる桜。

「ねがはくは、花の下にて―― これは、私にとって、それくらいのもの」

 その瞬間、私はたしかに見たんです。
 その瞳の奥に弾けるような青い雷光が走りぬけるのを。

 今にも透けてしまいそうな横顔で、彼女は何かに恋い焦がれていました。
 恋人なんていない、そんなふうに言ったばかりだったのに。

 彼女の恋人が誰なのか知りたくて、私は必死に目を凝らしました。
 でも結局わかったことといえば、それが私の知らない相手だということ、そのくらいでした。

 私は生まれてはじめて、人というものに魅せられました。
 見惚れるような、うつくしい人はたくさん見てきました。彼女の容姿はそれに比べればどうということはありません。瞳も髪もどこにでもある黒色で、ろくに化粧もせず、体つきだってどちらかといえば骨ばって男性的。

 でも。
 でも、そのときの彼女は、私が知る誰よりも、透明で純粋で、うつくしかったのです。

「なあんてね。えへへ、ちょっとカッコつけすぎちゃったかな。あっ、そうそう!近所にね、『ポアロ』っていう名前の喫茶店があるんだけど」

 冗談めかして笑いながらも、トウコさんはやはり透きとおるうつくしいほほえみで言いました。

「そこの紅茶がほんとうにおいしいんだ。ポアロのアールグレイは世界の半分―― 世界の半分と同じくらい、あたたかくていいにおいがするの」

 普段、口にするのはブラックコーヒーばかりでした。飲みものにこだわったことのない私も、このときばかりは心の底から思いました。

「私も、飲んでみたいな」

 トウコさんはニッと口角を上げ、少し時代がかった仕草で親指を立てました。

「話がわかってるう!日本に帰ってきたら訊ねてきてよ。一緒にポアロでお茶しよう。それから、近所も案内してあげる。あそこにはお気に入りの場所がたくさんあってね。古くてさびれた図書館とか、池のある公園とか。大丈夫、あなたがもっともっときれいなお姉さんになって、わたしが疲れた顔のおばさんになってても、これを見ればすぐにわかるから」

 トウコさんはそう言って桜のストラップを私の手に握らせました。

「桜の下にて。約束だよ」

 宝物のような笑みがこちらに向いたとき、建物全体がひときわ強く震えました。
 「あっ」と叫んで、慌てて近くにあった手すりに掴まった私のそばで、トウコさんはじっと天井を見上げていました。

 そして瞬きのようなわずかな時間、泣きそうな顔になったあと、彼女はもう一度だけ笑って言いました。

「ごめんね。ウソのつもりはなかったんだけど……子どもは大人が守るものだから、ね?」

 そして、彼女は私を思いきり突き飛ばし、見ている前で、落ちてきたガレキの下に消えました。
 じわり、と赤い何かが流れでて、足元を濡らします。

 私はそれをいつまでも呆然と眺めていました。

◇◇◇

 遅ればせながら駆けつけた救助隊によって数時間後に助けだされた私は、“先生”の迎えでそのまま“学校”に戻りました。

 あとから聞いたところによると、ホテルでの爆発は客のひとりが可燃性の危険物を持ちこんでいたせいで、“学校”にとってもやはり想定外の出来事だったということでした。
 外国人とはいえ警察官がその場にいたのはのちのち面倒だということで、トウコさんの死は“学校”によって秘密裏に処理されました。

 ふたたび元の生活に戻った私は、今までと同じように勉強と訓練を重ねて暮らしました。
 ただそれまでと唯一違うのは、私の手の中には常にトウコさんがくれたあの小さなストラップがあることでした。

 それからしばらく月日が流れました。
 時が満ち、売られる先が決まったその日に、私は“学校”から逃げだしました。


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