「私とトウコさんの話は、これで終わりです」
長い昔話を、トウコは長くて深い息で締めくくった。
File.58 ねがはくは、花の下にて(Ⅳ)
びゅう、と強い風が吹く。
引きちぎられるようにして飛んでいく花びらを、トウコは木に背中を預けたままぼんやりと眺めていた。
「“学校”から逃げだしたあとは?」
「見た目が大人に近づくまでは海外にいました。日本は未成年者がひとりで暮らすことに厳しい国ですから。書類上でどんなに年齢を取りつくろったって、見た目が子どもじゃ話になりません。なので、この国にやってきたのは今からほんの二、三年前ですよ」
いまさら真偽を問う気はなかった。
彼自身の考えと照らしあわせても、何ら矛盾は生じない。
「そしてハイツ・アサヒにやってきた君は、大家不在をいいことに、湯守さんに接触し、アパートの共同管理人になった、と。『トウコさんに頼まれた』などと言って佐神トウコ本人しか知らないはずの話をすれば、案外あっさりと懐に入りこめただろうね」
当時、湯守は帰ってこない佐神トウコに代わり、ハイツ・アサヒの管理をひとりで負っていた。
大家の不在が長びくにつれて、所有権問題など単なる住居管理に収まらない内容も出てきていただろうから、湯守としても、法的手続きなどの知識が豊富なトウコの協力は渡りに船だったはずだ。
『お天気おばあさん』の顔を思い浮かべたのか、彼女は頬に小さな笑みをのせた。
「湯守さんも、刑事だったトウコさんに助けられたひとりです。彼女はそのことにとても感謝していて、たいした見返りもなしにずっとハイツ・アサヒを管理してくれていたんです」
湯守は今なお、佐神トウコの死を知らない。
だが知らなくても、気付いてはいるだろう。
佐神トウコの身に、取り返しのつかない何かが起こってしまったことに。
見て見ぬふりを続けていても、流れる時間は否応なく、彼女に現実を耳打ちした。
でも、彼女はどうしてもそれを認めたくなかった。
だから、トウコに協力した。
「彼女にとって君は、風化していく佐神トウコの存在を、それでも懸命にこの世界につなぎとめようとしている唯一の人間だった」
目の前の『トウコ』を守ることが、佐神トウコとハイツ・アサヒを守ることになる。
佐神トウコの消えた世界で、彼らは目的と望みを同じくする協力者として、互いに互いを守りあってきたのだ。
「そして、君はみずからを『トウコ』と名乗りはじめた」
もう隠す気はないらしく、彼女は素直に頷いた。
「『赤羽トウコ』という名前の戸籍が見つかったのは完全な偶然でした。『トウコ』という名前が含まれていさえすれば、別に『赤羽』でなくてもよかったんです。まさか自分の生家が利用できるなんて、夢にも」
息を吐くように言ってから、トウコは「それなのに、ねえ。聞いてくださいよ安室さん」と自嘲するように口の端を上げた。
「それなのに、日本に来た私が一番最初にやったこと、何だったと思います? 笑っちゃいますよ。私ね、何よりも先に実家を覗きにいったんです」
黙って聞いている安室に、トウコは続けた。
「そこには、もうひとりの“私”がいました。私と同じ姿をした妹は、私が家族から奪い去ってしまったものを、立派に、完璧に埋めてくれていたんです」
「声、かけなかったの」
眉を下げ、トウコはほほえんだ。
「赤羽雪枝はずっと昔に死にました。戸籍のうえでも、家族のなかでも。死んだ雪枝が蘇るならまだしも、私はもう雪枝ですらありません」
何も思い出せないのだと、彼女は小さな声で独白した。
忘れたくないものほど、記憶から薄らぎ、風化していく。
無意識に消してしまおうとする。
失ったものを数えつづけて暮らせるほど、人は強くはできていない。
「この一年、あなたに語ってきた家族の話は、日本に来てあらためて調べなおした内容ばかりです。自分が楽になるために、自分から家族を捨てたんです。逆のことをされたとしても、何も文句は言えません。いえ、むしろそうしてくれてよかったんです」
そしたら、『仕方なかったんだ』って思えるから。
声なき声に、彼は瞳を伏せた。
彼女は誰のことも恨んでいない。
恨めなかったばかりに、こんなところにまで行きついてしまったのだから。
彼女はおどけたように口をとがらせながら、ただ自分の弱さをなじっていた。
「そもそも『赤羽トウコ』の戸籍が見つかるまでは、ここまで凝った仕込みをするつもりはなかったんですよ。バレたらそれまで。私のしたいことなんて、そうたいしたものじゃありませんでしたから」
「たしかに君が日本でしたことと言えば、『トウコ』を名乗り、二〇四号室で暮らし、佐神トウコの母校に通う。それくらいだね」
「あとは、ポアロでとびっきりの紅茶をいただいたりとか」
我がことのように得意げに指を立てたトウコに、安室は応じた。
「君はただ、『トウコ』として生きられればそれでよかった」
「ええ……あなたに、会うまでは」
当時を思い出すように、彼女は安室に遠い視線を向けた。
「ひと目で違う人だとわかりました。街で歩いている大勢の人とは似ても似つかない、たくさんの顔をはりつけた、うさんくさい人だと。怒らないでくださいね、はじめは私と同じ、自分がないから仮面をかぶるしかない人じゃないかって思ったんです。心をなくした空っぽのロボットなんて、行くところに行けば、別に珍しくもありません」
だからまあ、どっちでもよかったといえばどっちでもよかったし、興味があったかなかったかといえば、たぶんなかった。
彼女はふいと視線を逸した。
「でも……」
あなたはそうじゃなかったんだ、とトウコは夜空を見ながら言った。
「どんな仮面をかぶっていても、その奥から、あなたはいつも一生懸命に何かを見つめていました。ぱちぱちはじける青い光を宿らせて、まるで恋する男の子みたいに。あなたはゼロだけど、ゼロじゃない。だから、私はあなたを見ているのがとても楽しかったんです。あなたの見ているものを隣で一緒に見ていると、まるであなたのような人間になれた気さえした。こんな私が、おこがましくも」
本音を吐露する気恥ずかしさか、白い頬がほんのすこし色付いていた。
そんな自分に気付いたらしく、トウコは照れた様子で瞳を彷徨わせていたが、最後にはどこか名残惜しそうに視線を元の位置に戻した。
「でも、それも今日で終わりです。ご存知のとおり、夢の国は二十四時間営業じゃありませんから」
「それで、花の下にて春死なむ、って?たいしたロマンチストだな」
冷えた声で皮肉られ、黒い眉がわずかに震えた。
しかしそれも一瞬のことだった。
それこそ夢から覚めたようにさっきまでの真摯さをかき消したトウコは、人指し指を振りながらごく軽い口調で言った。
「ノンノン、とんでもない。はじめに言ったじゃないですか。私はお花見に来ただけだって。ここを見たあと、すぐ近くにある『AI:BO』の伝説のロケ地を巡礼して、左京さァん!って心おきなく叫んでからこの国を出ていきます。『トウコ』は死んでも、『私』は死にません。安室透が死んでも、降谷零が死なないのと同じように。そもそも、あなたたちと違って、私にはこんな立派な桜の下に眠る資格なんてありませんもん」
決定的な一言を吐きながらも、その表情は道化のように軽やかなままだった。
答えない彼を放って、彼女は飄々と続けた。
「あなたにかぎって気付いていないということはないでしょう?たしかにこの国でやった悪いことと言えば、公正証書原本不実記載と住居侵入エトセトラ程度ですが、人生を振りかえれば私はかなり立派な犯罪者ですよ。たぶん。だから映画やドラマでやっているように、犯罪者は犯罪者らしく海外にぽーんと高跳びします。怖いお巡りさんに捕まる前にね」
「……させると思うのか?」
言うが速いか、彼は目の前の相手めがけて踏みこんだ。びゅっ、という風切り音とともに、最短距離で拳が飛ぶ。
勝負は一瞬―― のはずだったが、トウコは意外にも機敏な動きを見せた。ぎりぎりのところで身体を反らして、回避する。
掠めた拳圧で、頬にかかっていた黒髪の端がわずかに切れ飛んだ。
「あっ、あっ、あぶなー!」
転げるようにして距離を取ったあと、彼女は心底怯えた様子で安室を見上げた。
「い、いきなり顔面狙いですか!?お忘れかもしれませんが、私これでも女の子なんですよ!?」
「価値観が古いな。今は何でも男女平等だ」
「ちょ、待っ―― 」
最後まで言わせず、今度はえぐり込むようなブロー。
しかし、それもまた、当たらない。
彼は舌打ちをした。
トウコの運動能力は、実際のところ、そうたいしたものではない。
この一年、彼はトウコのことを、比喩ではなく至近距離で観察してきた。
筋肉のつき方・量、体力、反射速度など、基本的なスペックは手にとるようにわかる。
トウコの場合、同年代の女性よりは多少動ける、という程度だ。
成人男性、そのなかでも体格・運動能力の両面で頭ひとつ抜けている彼との性能差は、もはや比べることすら馬鹿らしい。
本来なら開幕を待たずに終わっていたはずの、ありえないカード。
しかし、手抜きも容赦もないはずの攻撃を、トウコは紙一重で避けつづけている。
読まれている。
短く息を吐いて、彼は一旦距離を取った。
相手はと言えば、あいかわらず猫のようにこちらの様子を窺っている。
指先をわずかに動かしただけでも、黒い目がぴくりと過敏に反応する。フェイントにはまず応じてこない。
『君が僕を知るがゆえの方法で出しぬこうとしたのなら、僕だって同じことを考える』
相手を知ろうとしていたのは自分だけではなかった、ということだ。良くも、悪くも。
研究されている。され尽くしている。
それこそ、筋肉のつき方・量、体力、反射速度まで徹底的に。
彼の身体のどの部分がどう動けばどんな攻撃がくるかをくまなくシュミレートし、反射的に動けるまで徹底的に訓練を積む。
なんのことはない、トウコがフィジカルの不利を補うために用意したのは、膨大な計算に基づく『反復練習』だったというわけだ。
ド素人でも、ひとりの選手に絞って百万回バットを振れば、一球二球は当たるようになるだろう。
汎用性も効率性もそっちのけ、たったひとりを抑えるためだけに、途方もない時間と手間を費やす。
そんな馬鹿げたことをやる人間が実際にいるとは思わなかったが。
彼はわずかに汗のにじんた髪をかき上げた。
「ちょこまかと鬱陶しいな。おとなしく殴り倒されろ」
「警察官とは思えないセリフですね。ゴリ―― 失礼、あなたみたいなのに殴られたら、冗談抜きで致命傷だと思うんですけど」
息は上がっているものの、余計なひと言をつけ加えてくるあたり、まだ余裕があるらしい。
「そう思うなら、命がけで避けるんだな」
彼は拳を構えたまま息を吸い、ふたたび攻撃を始めた。
追う男。逃げる女。
しかしさっきのカーチェイスとは反対に、時間が経てば不利になるのは彼女のほうだった。
いくら攻撃を受けないとしても、所詮はそれだけ。
トウコにこの勝負を終わらせる力はない。持久戦になれば、体力で圧倒的に勝る彼に軍配が上がるのは必至だった。
そして、その瞬間はそう遠からずやってきた。
避けつづけていたトウコが、急によろりと足をもつれさせた。
目を見開き、ひどく焦ったような表情になる。
その顔を見るか見ないか、彼はトウコに肉薄し、思いきり右腕を振った。
肩口を狙った拳は、だがしかし、寸前で体勢を整えた彼女にあと数ミリの差で届かなかった。
空振りした指先が女物のジャケットの裾を掠める。
いきおい余って地面に転がったトウコの身体から、がちゃり、と重い音とともに何かが滑りおちた。
次の瞬間には、彼の右手は『それ』を拾いあげていた。
「動くな」
三メートルほど離れた場所で立ち上がろうとしていたトウコが、ぴたり、と動きを止めた。
彼の手元から女の眉間をまっすぐに狙うのは、鈍く光る銃口だった。
「君ごときが僕に敵うとでも思ったのか?両手をあげて地面に伏せろ。でなければ容赦なく発砲する」
奪った拳銃を構え、投降を迫る。
トウコは油断なく彼を見つめたまま、己の緊張をなだめるように唇を舐めた。
そして、ふう、と浅い息を吐いたのだった。
「それはこちらのセリフです。あなたこそ、死にたくなければそこから動かないでください」
「……何?」
今度は彼が動きを止める番だった。
「私ごときがあなたに徒手格闘を挑む、だなんて本気で思ったんですか?あなたの運動性能を知っている私が、それを計算に入れないわけはないでしょう。その拳銃、まちがいなく本物ですが、中に詰まっているのは弾丸ではなく―― 小型爆弾です」
ぴくりと反応した彼の目の前で、トウコは荒い息を整えながら立ちあがった。
汗を拭って、動くな、というふうに片手を上げる。
「おっと、手は離さないでくださいね。グリップ・セーフティを利用したセンサーを内蔵してます。銃把から手を離した途端、コンマ数秒以内に爆発しますよ。もちろんトリガーを引いた場合も同様の結果になりますから―― 『職業病』のおかげで命拾いしましたね、降谷さん。問答無用で発砲していたら、あなたは今ごろミロのヴィーナスでした」
トウコが抜け目なく笑う。
手のなかの拳銃が、急に重さを増した気がした。
トリガーを引くことができないのなら、もはや飛び道具としては意味を成さない。
であれば、このまま相手を巻きこむ至近距離まで突っこんで解除を余儀なくさせる、と突撃の体勢に移りかけた彼だったが、そこでまたぴたりと動きを止めた。
トウコはわざわざ『そこから』動くなと言ったのだ。
その姿に、トウコは「へえ」と感心したように眉を上げた。
「さすが、いいカンしてますね。気づきましたか」
「最近学習したことのなかに『君は無駄なことを言わない』っていうのがある」
「話がはやくて嬉しいです。あなたの立っているそこなんですが、じつは期間限定で地雷原になってます」
彼女は彼の足元を指し、あっさりと言ってのけた。
「その拳銃にはグリップのセンサーと連動するGPSを内蔵してあります。センサーの作動と同時に位置が計測され、以後はすこしでも位置情報に変化があれば、地下に埋まった爆弾がドカン。誰にでもわかりやすいシンプル設計です。いくらアスリート並の脚力があったとしても肝心の足がなくなってしまえば、さすがに逃げられないですよね?」
「……へえ」
今度は彼のほうが感心する番だった。
あえて相手に有利なフィールドを与え、主導権を握っていると思わせる。それによって『敵の用意したものを使う』という危険行為に対する警戒心を弱め、まんまとトラップだらけの銃をつかませたのだ。
一撃で昏倒させられるリスクを知りながら接近戦に持ちこんだのは、それに見あうリターンがあればこそ。
単身で彼の動きを完全に封じる、考えぬかれた一手だった。
―― が。
「この至近距離で爆薬を使うからには、自分が巻きこまれない程度に威力は抑えてあるはずだ。急所を庇えば無理やりにでも突破できないことはない―― とかって考えてます?」
図星を指されて、彼はぴくりと眉を寄せた。
「いつもの君だったら、そうだからな」
「そうしたかったのはやまやまですけど、残念ながら」
トウコは言葉どおり、本当に残念そうに肩をすくめた。
「今回にかぎってはいつものビビリは封印してます。私だってもうあとがないんです。捕まったが最後、お先は真っ暗。生きてても死んでても変わらない人生が待ってるなら―― 」
トウコはあえて最後まで言わずに、口を閉じた。
切羽詰まった、そして同時に覚悟を決めた瞳が、続く言葉の真正性を語る。
彼女は、命を賭けている。
「爆弾は爆弾、起爆すればどう足掻いたところで手か足はオシャカになるわけだ」
「はい。私だってそういうスプラッタなシーンは見たくないですし、悪あがきはやめてくださいね。お仲間を連れずにひとりでのこのこやって来たのは、あなたには似合わない失策でした。今からでも助けを呼んで、さっさと迎えに来てもらうんですね。まあ、そのころにはもう私はこの国にいないと思いますが」
「……殺さないのか」
トウコはひどく驚いたような顔になり、それから慎重に眉を顰めた。
「まさか、殺して口封じだなんて。それも現役の警官を相手に。後始末がどれだけ面倒か、考えただけでもぞっとします」
彼女はいかにもげっそりとした様子で答えた。
「知られたから殺すだの殺さないだの、そんなことを言っているのは三流でしょう。知られて困るなら、はじめから知られないようにする。私たちの業界の鉄則じゃないですか。あなたがここから帰ったあと、誰に何を話したところで、今後の私には何ら影響が出ないようにしてあります。今ここで捕まってしまうことさえ回避できれば問題ありません」
彼女は当たり前のようにそう言って、一段高い桜の下から彼を見下ろした。
「というわけで今回は見逃して差しあげます。ちなみに手切れ金は用意してませんからね。むしろ今までの労働分をお支払いいただきたいくらいですよ」
立ち去りかけたトウコだったが、「ああ、でも」と思いだしたように上着のポケットに手をやった。
そして飴玉でも取りだすような気安さで、二挺目のそれをひっぱり出す。
漆黒のリボルバーを手にした彼女は、冗談のように手慣れた様子で、彼の眉間に照準を合わせた。
「万が一、手足を犠牲にしてでも私をここで捕まえようというのなら、そのときは本当に死んでもらいます」
一度も聞いたことのない、空っぽな声だった。
口元はなるほど微笑みのかたちをつくっていたが、感情と呼べるようなものはひとかけらも浮かんでいない。
喉にナイフを押しあてられているような、明確な“死”の感触。
しばらくして、トウコはあっさりとリボルバーを下ろした。
「ここまでですね」
彼がその場を動かないのを確認してから、彼女はひらりと片手を振った。
「それじゃ、さよなら。お元気で」
無防備に向けられた背を、彼はもう追うことができない。それを知っているからこそ、彼女はためらいなく去っていく。
だから、彼は呼びとめた。
身体は動かせなくても、口は動く。
「なかなか見事じゃないか」
トウコの肩が、わずかに反応した。
「この仕掛けならたしかに、ずっと見張っていなくていい。応援が駆けつけたころにはもう君はあとかたもなく消えている。あいかわらず才能の無駄遣いだな」
「皮肉ですか」
「とんでもない。褒めてるのさ」
「そう。お褒めにあずかり光栄です」
トウコは足を動かしながらも返事を返した。無視すればいいのに、それができない。
彼女はやはり、どうしようもなく真面目で律儀な女なのだった。
彼はとっくの昔に照準を外していた拳銃を肩に乗せ、楽な体勢をとった。空の星に語りかけるような感じで言う。
「話をしようか」
今度こそ、足が止まった。
彼女はつぶやくように答えた。
「話すことはもう何もありません」
「君のほうはね」
「今さら、そんなこと」
「今さらだからこそ、かな。せっかくだから土産代わりに聞いていきなよ。僕が進んで自分のことを話すなんて、それこそ、死人が大学に通うよりもずっと珍しいことなんだから。写真なんかより、ずっと良い値で買いとってもらえるはずさ」
そうして、彼は返事を待たずに勝手に話を始めた。
「前に君は僕に『なぜ探偵になったのか』と訊いたね。君とはじめて一緒に帰った夜、ポアロから駅に向かう暗くて細い路地の途中で」