「前に、君は僕に『なぜ探偵になったのか』と訊いたね。君とはじめて一緒に帰った夜、ポアロから駅に向かう暗くて細い路地の途中で」

 トウコの肩が、揺れた。

 彼はその日のことを鮮明に覚えていた。だったら、きっと彼女も同じはずだった。




Chapter.4 ゴースト・ハント

File.59 ねがはくは、花の下にて(Ⅴ)



「たとえば、こういう話がある。大勢の幸福のために、とあるひとりの幸福を差しだす。何かを守るため、別の何かが犠牲になる。事件や災害の裏側で起こった数えきれない出来事のように。佐神トウコが死んだ日のように。そしてまた、赤羽雪枝が死んだ日のように」

 トウコは何ら反応をみせなかった。こちらのほうにぼんやりと視線をやったまま、黙って話を聞いている。

「物事には優先順位がある。個人の感情や権利が全体の事情や利益を超えて優先されるようになれば、社会の秩序は失われる。

 個をないがしろにする、という意味じゃない。“個”を守るためにこそ、社会の秩序は保たれなければならないということだ」

 トウコの瞳は凪いでいた。諦観して、失望していた。

 そうだろう、彼女もまたそんなことくらい知っている。とっくの昔に。

 この世界は、あまりに未完成で不安定だ。

 対立、矛盾、葛藤。いつの時代のどの場所にも、ひずみは避けがたく、絶え間なく生まれつづける。

 放置すれば、それらはいずれ取りかえしのつかない巨大な亀裂へと成長し、世界自体を壊してしまう。

 だから誰かが修正しなければならない。

 表のひずみは、表の人間が、公平で公正なやり方で。

 裏のひずみは、裏の人間が、有無をいわさず、誰にも知られない方法で。

 彼女たちはきっとそのための存在だった。

 もちろんそれに関わっていた者たちは、いちいちそんなことを考えてはいなかっただろう。単に『売れる』からそうしただけで。

 だが、個々人の意思など、この際さして重要ではないのだ。

 世界が、それを必要としている。その事実に変わりはないのだから。

 たとえば、赤羽雪枝が死んだとき、それを家族に伝えた警察官がいた。

 彼女のが病院に運ばれたとき、それを調べた医師がいた。

 彼女が攫われたとき、それを見ていた老女がいた。

 彼らは知っていた。

 しかし彼らは、目撃者にはならなかった。

 なろうと、しなかったのだ。

 世界というシステムを安定的に運行させるため、対価として支払われる子どもたち。

 であれば、それはたとえば、彼らの愛する娘や息子でなくてもいい。

 どこか知らない国の、たまたま運悪くその場所に居合わせてしまった子どもが、運悪くその役を引きうけてくれたとしたら。

 彼らは、瞳を伏せて、見なかったことにする。死神の視線が、自分の大切なものに向かないように。

 仕方がない、とトウコは言った。

 そのとおりだ。望んでそうする者などいない。

 みんな、自分の『一番』が一番大事なだけで、その他の誰かの不幸を願っているわけじゃない。

 あのとき彼女をホテルから連れ出し、車に乗せた男ですら、そうだったかもしれない。

 自分のため。恋人のため。家族のため。

 金のため。名誉のため。生活のため。命のため。

 それがどんなものであろうとも、なくしたくない何かがあるかぎり、人は無意識に、自分を取り巻く世界の保存を望む。

 守りたい。

 だれもが、その一心で、目の前の小さな誰かを踏みつけにする。

「秩序は守られなければならない。“個”を最優先にすることが、“個”にとっての幸福とはかぎらない。どれだけ個人が自由でも、銃弾の飛びかう荒れ果てた世界で、いったい何が、誰が守られるって言うんだ」

 守られるべき秩序が守られてはじめて、守られるべき者が守られる。

 たとえその過程が、代償を欲するとしても。

「これは真理であり、俺にとっての正義でもある」

 びゅう、と風が吹く。

 桜が散る。散っていく。

 息を吸って、吐いた。

「だが、正義ではあっても、正解ではないのかもしれない」

 トウコの瞳がはっと彼を見た。

「そんなときに出会ったのさ。俺がどれだけ努力してもできなかったことををあっさり成してしまう存在にね。代償という言葉を笑いとばし、権力・暴力を歯牙にもかけず、ただ己の力のみを頼みに闇を解きあかす。人は彼らを『探偵』と呼ぶ」

「たん、てい?」

 冷えてかさついた唇が、息だけで言葉をなぞる。立ちつくし、目を見開き、呆然と目の前の男を見つめている。

 そんな彼女に向けて、彼は笑った。

「さて、僕がなぜ急にこんな話をしようと思ったのかというとだ。それはもちろん―― 君の注意をひくためさ」

 トウコがはっと我にかえった。その場で身をひるがえすも、すでに遅い。

 彼は迷いなく、手の中の拳銃を夜空に向かって放りなげた。

「な……っ!」

 トウコの目が否応なしに、宙に舞う爆弾それを追う。

 その一瞬の隙をついて、彼はトウコの手から黒いリボルバーを奪いとった。足をかけ、そのまま引きたおす。

 馬乗りになった彼は、その心臓に銃口を突きつけた。

「動くな」

 恥辱や怒りよりも先に、まず彼女の顔に浮かんだのは驚愕だった。

「どうして……!?」

 すこし離れた場所には、さっき投げた拳銃がそのままの形で落ちていた。

 、爆発しなかった。

「どうしても何も。その理由を誰よりもわかっているのは君だろう。それとも、そういう意味の『どうして』じゃないのかな?」

 彼女は目を見開いたあと、唸るように答えた。

「……何を言っているのかわかりませんね」

「ずいぶん強気だな。まあ、吠えられるうちに吠えておくといい。いずれ一から十まで話してもらうことになる」

「私に手錠をかけたあとに?」

 生意気な口を黙らせるように、彼はいっそう強く銃口を押しつけた。ギリ、と心臓に食いこむ冷たい脅迫に、トウコが顔を歪めた。

「君は犯罪者だろう」

「ええ、そのとおりです。だから―― こういうのもアリですよね?」

 腹にあたった硬質な感触に、彼は動きを止めた。ちらりと下に視線をやると、視界の端に銀色に光る何かが見えた。

 はっとして片手で上着を探るが、いつもの感触がない。

 内ポケットに入れてあったはずの、薄く小さい拳銃ベレッタ

 もみ合ったときに抜きとられたか。

「あいわらず、油断も隙もないな」

 呟くあいだにも銃口が腹からじりじりとずり上がってくる。

 着衣の上からでも感じとれる冷たく無感動な死の口づけ。

 何度経験しても慣れないそれを、あえてゆっくりと、思い知らせるように這わせてくる。

 その手つきはどこか楽しんでいるようでさえいて、だが、その白い顔には愉悦どころかひとかけらの感情も浮かんではいないのだった。

 凍てついた幽霊の手は、最終的に、彼の心臓の真上で止まった。

「これであなたの有利は崩れました。私は犯罪者、あなたは警察官。能力のうえでアドバンテージがあったとしても、あなたには制限が多すぎる。殺さなくていい人間であっても簡単に殺せる私と、殺したほうがいい人間ですら簡単に殺せないあなた。警察官あなたは、犯罪者わたしのように理由なく人を害することができない。殺し合いになったとき、どっちが有利かなんてことは考えるまでもありません」

「僕らは有利か不利かで相手を決めない」

「じゃあ、有意か無意かで決めるというのは?」

 黒い瞳が誘うような色を帯びた。

「私はこの国を出ていって、もう二度と戻ってくるつもりはありません。これまでやったことは身分の偽装や住居侵入のみ。犯罪といえば犯罪ですが、言ってしまえばその程度です。私はあなたの『管轄』じゃない。それなのに、殺してまで捕まえなければならない理由はなんですか?みんなのために使うべき大事な時間を割いて、国家転覆を目論むでもない、どうでもいい小悪党を追いまわして。いったい何の意味があるっていうんです?」

 喉をみずから眼前に晒すようにして、トウコは彼を見上げた。

「ひとりの幸福とみんなの幸福はつりあわない。だから、あなたは、みんなのためにひとりを生贄にする。それはつまり、そのひとりの犠牲には、みんなの幸福とつりあうだけの価値がなければならないということです。犠牲にするだけの理由が必要なんですよ、あなたたちには。正義が正義であるための、理由が。大義名分を失った犠牲は、もはや正義とは呼べません。

 だから、ねえ、おしえてください。あなたが今やっていることは、あなたの正義に適いますか?」

 組み敷かれながら、トウコは不遜に笑っていた。

 罪人として詭弁を弄しながらも、彼女は彼を断罪していた。

「大義があれば何でもできる。それはすなわち大義がなければ何もできないということです。目的のためなら法を犯すことさえ厭わないあなたも、自分の正義だけは裏切れない。それがあなたの強さのよりどころであり、同時に、限界でもある」

 答えられない彼に向かって、トウコは追いたてるような声で言った。

「降伏してください。邪魔をするなら今度こそ撃ちます。私なんかと相打ちになって死ぬなんて、それこそ『帳尻が合わない』でしょう?」

 銃口を心臓に突きつけあって、上と下から視線を交わす。ふたつの銃身をとおして、互いの心音だけが響きあう。

 ひとりでには終わることのない沈黙。尾を喰らいあう蛇のように、永遠につきることのない自己矛盾。

「そうか。だったら好きに撃て。その銃で殺せるものならね」

「……え?」

「目論見どおりにことが運んでいる、だなんて、君のほうこそ本気で思っていたのか?この場所を見た時点で、君の作戦にはある程度予想がついていたさ。あえて自分の不利を装い、相手の警戒心を鈍らせる―― じゃあ逆に訊くが、その程度のこと、この僕が思いつかないとでも?」

 トウコの唇が戦慄いた。

「僕との力関係をよく知る君は、僕に対して絶対に隙をみせないだろう。だからぼくもそういうやり方をすることにしたんだ。

 あえて自分の不利を装い、相手の警戒心を鈍らせる―― さて、君は今ここに僕を追いつめ、勝利を確信してわけだが。どうだい?よりにもよって『敵の用意した道具を使う』だなんてバカな真似をしている気分は」

 トウコは今度こそ息を飲んだ。

 銀色の銃身が、その手のうちでかすかに震える。

 まさか、とこぼしたトウコを見下ろし、彼は口角を上げた。

「その拳銃、まちがいなく本物だが、中に詰まっているのは弾丸ではなく、空包だ。引き金引いたとしても、相手は殺せない」

 そして、と今度は自身の右手に視線をやった。

「僕の手のうちには君から奪った銃がある。空包装填なんかじゃない、僕にとどめをさすために準備された本物が」

 トウコの手にある彼の銃オートマチックには空包。彼の手にある彼女の銃リボルバーには実包。

 彼がトリガーを引けば彼女は死ぬ。だが、彼女がトリガーを引いても彼は死なない。

 トウコの優位はもう、どこにもなかった。

 彼女の心中を代弁して、ベレッタの細いトリガーがカタカタと音を立てた。

「なん、で」

「君が僕を知るように、僕も君を知っている。思考の傾向、精神の構造、価値基準、趣味嗜好。君が僕を知るがゆえの方法で出しぬこうとしたのなら、僕だって同じことを考える。相手を知ろうとしていたのは君だけじゃない。良くも、悪くも―― だったっけ。学習しないな、君も」

 押しつぶすようにして、彼はトウコの身体にさらに強く銃口を押しつけた。

「はじめから、君にこの状況を導いてもらうことが僕の計画だった」

 耳朶をねぶるように、ささやく。

「いい子だ、よくできました」

 組み伏せた女の身体が、びくり、とひときわ強く震えた。体重をかけられ、肺をつぶされた彼女の、あえぐような浅い息。

 押しあてあった銃口を通じ、また密着した下腹部を通じ、震えが、呼吸が、鼓動が、感情が、じかに伝わってくる。

 息がかかるくらいの間近に、蒼白の顔があった。

 表情を隠すように伏せられたまつげ。夜の闇よりなお黒く、かたくななそれは、彼女の最後の抵抗だった。

 いじらしいまでに無意味な悪あがき。

 右手で心臓を狙いながら、彼は愛おしむように左手でその首を押さえた。

 汗で冷たくなりながらも、どくどくと狂ったように血を流す白い首筋。与えられた手の感触に怯え、震える生の鼓動。

 彼は黙って先を進めた。

 首筋を這いあがり、顎を通りすぎ、最後には頬へ。

 かさついた唇の端に親指の腹をひっかけると、まつげに隠された黒い瞳が耐えるように、わずかに潤んだ。

 愛撫にすら似た触れあい。月の光が、身体を重ねる男女のシルエットを浮かびあがらせる。

 ふたりのあいだにあるものは、しかし、体温そのままの劣情ではなく、刃に触れるような冷たい緊張感だけだった。

「投降しろ。これ以上は無意味なことだ。君にとっても、僕にとっても」

 銃口で心臓を抉るように、迫る。

 トウコは、ついにゆっくりと息を吐いた。

「さすが、としかいいようがありませんね」

 呟くように言う。

「あなたの言うとおりです。私にはもう何の手立てもありません。こんなに準備して頑張ったのに、はじめから手の上だったなんて。本当に、優秀で有能で合理的で、こわいひと」

 伏せられていたまつげがふたたび、彼を見上げた。

 その瞬間、彼の背にぞくりとしたものが這いあがった。

 彼女は震えていた。怯えていた。

 だが、哀れなほど青白くなった唇で、屈辱に歪んだ瞳で、それでもなお、不敵に笑っているのだった。

「でも、そんなに優秀で有能で合理的なあなたが、この程度で満足しているなんて、なんだか妙な気もするんですよね。

 ほら、あなたって性格的に、敵は徹底的に叩きつぶしたいタイプでしょう。本当にこの状況になることを予測していたのなら、私が泣いて縋って諦めるしかないような決定的な何かを準備して、これ見よがしに突きつけてきそうなものですけど」

 トウコは例のまっすぐな視線で、彼の瞳を覗きこんだ。

「中身は空包、でしたっけ。自信満々の切り札ジョーカーですけど……実際には思いつきのハッタリだったりして」

 ぴくりとこめかみが震えた。

「想像力たくましいね。でもその発言にこそ、何の根拠もないんじゃないか?」

「あはは、たしかに。じゃあ、こういうのはどうですか。今あなたが持っている私のリボルバー、見た目と違って実銃じゃないんです。撃っても人は殺せない、ただの麻酔銃」

 トウコは苦しそうに息を継ぎながらも、いたずらっぽく笑ってみせた。

 それはこの状況においては、すべてを覆す決定的なひと言だった。

 今度こそ、ひやりと冷たいものが背に降りた。

 今ふたりの武器は入れかわっている状態だ。トウコは彼のベレッタを持ち、彼はトウコのリボルバーを手にしている。

 彼の言うとおり、ベレッタの中身が本当に空包であった場合、トウコは彼を殺せない。だが、彼の言葉がブラフであれば、ベレッタはそのまま彼を殺す。

 彼女の言うとおり、リボルバーが本当に麻酔銃だったら、彼はトウコを殺せない。だが、彼女の言葉がブラフであれば、リボルバーはそのままトウコを殺す。

 口にした言葉が真実ならば生きのこり、嘘であれば自分の武器に殺されて死ぬ。

 彼にも彼女にももはや手札を確認する手段はなく、弾倉に何が詰まっているかは、元の持ち主にしかわからない。

 腹を探りあい、読みあい、予想を外せば死ぬ。

 とっさに組みあげたにしては、たいそうよくできたポーカーだった。

 笑みを浮かべるトウコに、彼は内心、舌を巻いていた。

 ここまで追いつめられているというのに、胆力、知力ともにいっさいの低下を見せない。

 元いたところでだったというのも、大げさな話ではないらしい。

 しかし、そんなことはおくびにもださず、彼は笑った。

「へえ、見た目によらないね。案外、カードのやり方がわかってるじゃないか」

「こんなときくらい素直に褒めてくださいよ。こう見えて、ゲームの類は得手中の得手なんです」

 やっぱりな、と彼は笑った。

「だったらゲームで決めようか。ロシアンルーレット。同時に撃って死んだほうが負け。シンプルでいいだろ?」

「……両方死ぬ可能性もあるのに?」

「うーん。じゃあ、順番にしよう。そうだな、君が先に撃て。長い間ただ働きさせた詫びだ」

 トウコは急に口を噤んだ。

 置きざりにされた子どものような心もとない表情で、息苦しそうに眉を歪めている。

 耐えがたい何かに耐えるように瞳を伏せたあと、彼女はそのすべてを飲みくだした。

「いいでしょう」

 次に彼を見上げたとき、その瞳には刃の意志が宿っていた。

 ぐい、と心臓への圧迫感が強まった。銃口を通じて、さらにはっきりと手の震えが伝わってくる。

 彼は左手をのばし、添えた。たっぷりひとまわりは小さな手は、溺れた死体のように凍えきっていた。

「よく狙って引き金を引け。ここで死ぬようなら君も僕も先は知れてる」

 冷えた手ごと包みこむ。弾が逸れないように、肋骨と肋骨の間に銃口を滑りこませる。

 カシリ、と白い指先がトリガーのあそびを殺した。

 あと数ミリ。あと数ミリ引けば、銀色のベレッタはその本性にたちかえる。

 黒い瞳は、銃口の先ではなく、真上にある彼の瞳を見つめていた。

 ささくれ、切れて、いつしか血の滲んだ唇が、何かの形をつくった。

 声を出さずに、何ごとかを呟くトウコ

「……、……い……」

 彼女の瞳は苛烈な衝動に駆られていた。あとすこしで、その指は確実に引き金を引く。

「……わ、……ない……」

 魘されるように呟いたのを最後に、トウコの指に力が入った。

 強く銃把を握りしめた彼女は、それをそのまま―― 地面に叩きつけた。

「……できるわけ、ないじゃないですか!」

 それは、聞いたこともないような怒号だった。もはや絶叫に近かった。

「ふざけるのもいい加減にしてくださいよ!もしも空包だっていうのがその場しのぎの嘘だったら……あなた本当に死んじゃうんですよ!」

 拳銃を投げだしたトウコは、自身にもまた銃口を向いているのにもかまわず、両手で激しく彼の胸を叩いた。

「どうしてそう自分から危ないことばっかり!さっきの爆弾だって、本当に爆発していたら、腕くらいは簡単に吹きとんでたっていうのに!」

「でも、実際はそうならなかった。手を離しても爆発は起こらなかったし、君は僕を撃たなかった」

「そんなの……そんなのたまたまです!よくもそんな不確かなものに命を賭けられますね!」

 今にも喉元に噛みついてきそうなトウコに、彼は首を振った。

「いいや、不確かなものなんかじゃない。だからこそ、僕は命を賭けた」

 トウコがぴたりと手を止めた。

 潤んで、うさぎのように真っ赤になった目が、とまどいを隠さずに見上げてくる。

 彼は黙って彼女の胸から銃口を外した。

 もみ合いのなかで彼女から奪いとった黒いリボルバー。

 彼は目の前で弾倉を開いた。

「えっ、ちょっ、何を……」

 慌てるトウコを無視して、シリンダーを揺らす。バラバラと手のひらに落ちてきたのは―― 実弾とは似ても似つかない、麻酔弾だった。

「ほらな。君はやっぱり嘘をつかない」

 彼女は最初から本当のことだけを口にしていた。

 中身は麻酔弾。

 もしもあのとき撃ちあっていたとしても、彼女が死ぬことはなかった。

 彼が死ぬことはあっても。

「当然、君はそのことをわかっていた。わかっていたのに、撃とうとしなかった」

「……あなたは?」

 話を逸らすように、彼女は小さな声をあげた。

 彼は何も言わず、さっき彼女が投げだした銀色の拳銃を拾いあげ、弾倉をひらいた。

 ゴト、と長方形の黒いマガジンが地面に落ちる。

 トウコが息を飲んだ。

「……本物」

「降谷零は中途半端なことはしない。撃たねばならないときには、撃つ。相手が誰であっても。だから、実弾を入れて、ここに来た。そして、だからこそ、もしもあのとき撃ちあっていたら、俺は死んでいた」

 どうして、と黒い目が痛ましげに伏せられた。

 どうして。

 見知った相手に殺意を向けられる悲しみ、そんな己への哀れみ。

 ではない。

 その問いの背後にあるのは、そんなものではない。

 たとえば、いつか見た泥だらけの笑顔。

 彼女はいつだって自分のことなど、まるで考えてはいないのだ。

 彼は拳銃に視線を落とした。

 内ポケットに収まってしまうほどの、薄く小さなそれ。

 それでも、人ひとりの息の根を止めるには十分だ。

「俺は撃つ。相手がたとえ自分自身であっても。それが力を振りかざす代償だからだ」

 ただの人間が、同じ価値を持った人間を、おこがましくも裁くための。

 だが、と彼はここで瞳を伏せた。

「その銃が君の手に渡ることを予想していなかった、とは言わない」

「……え?」

「君が俺の銃を俺に向けて撃つ。君の手によって俺が死ぬ。その可能性は常に頭のなかにあった。そしてそれは、俺にとって許容できないリスクだ。物事には優先順位がある。俺が君と相打ちになることは許されない。君のために死ぬことはできない。全体のために生きる俺が、君ひとりのために死ぬことは、俺の正義に反する」

 彼という存在は、とっくの昔に彼自身のものではなくなっている。

 彼女の言ったとおり、降谷零は自分の正義だけは裏切れない。

 でも、もしも。

「ここにいるのが、俺じゃない誰かだったら?」

 彼はほほえんで、空に浮かぶ月を見上げた。星に向かって伸びをするように、穏やかな声で言う。

「君が引き金を引く可能性、そのリスクを負いながらも、最後まで抗いつづけた男がいた。正義ではなく、正解を―― たったひとつの真実を手に入れるために」

 対価を求める正義の槌が振りおろされる前に、もうひとつの道を探す。

 人の目に映らない彼女が、別の可能性としての『トウコ』を生みだしたように、人の目に映らない“ゼロ”もまた別の可能性を追う存在を欲した。

にはできないことをするためのもうひとりの誰か。

 さて、じゃあ最後のタネあかしといこう。俺の制止を振りきって好き放題わがまま放題、理屈も道理も足蹴にして、君をここまで追ってきたその大馬鹿者の正体とは?」

 彼はちょっと笑って、自分の胸を指した。

「それこそが今ここにいる僕―― 探偵・安室透だよ」

 ぽかんと目を見開く彼女を見下ろし、彼はいたずらっぽく笑った。

「探偵という立場を利用して、降谷零を全面的にバックアップする。安室透に課された使命はそういうものだ。

 でもまあ、警察のいうことなんて聞きやしないのが、探偵ってやつでね。自信満々で自分勝手で、呼ばれてもいないのに現れて、気になったことに片っ端から首を突っこむ。古今東西、探偵はそういうものだと相場が決まってる」

 彼は肩をすくめた。

「たしかに、ちっぽけな存在さ。降谷零なら指先ひとつ、電話一本で済むことも、一生懸命駆けずりまわって調べなきゃならない。どんなに危険な相手でも銃弾の一発も撃てやしない。

 でも、だからといって、決して無力じゃない。権力も武力もないかわりに、安室透は降谷零には成せないことが成せる。降谷零には届かないものに手が届く。

 それこそが、安室透の生まれた意味であり―― 僕が探偵になった理由だよ」

 言葉を失っている彼女に向けて、彼はほほえんだ。

「さて、話をもとに戻そう。僕が命を賭けたのは僕自身のだ。不確かなものなんかじゃない。君と出会ってからのあらゆる事実を考慮し、ひとつの結論を導きだした。

 いいかい、よく聞いて。ここが一番大事なところだから」

 彼はゆっくりと人さし指を彼女の心臓につきつけた。

 すべての探偵が、いちばん大切な場面で、そろってそうするように。

 そして、安室は宣告でもなく、糾弾でもなく、審判でもなく、ただ事実だけを述べた。

「君が誰かを傷つけようとすることは絶対に、ない」

 彼は目じりをゆるやかに下げた。

 それは、つくり笑いでもなく、冷笑でもなく、苦笑でもなく、気づいたらそうなっていたというような、とても自然なものだった。

「だって君は、とてもやさしい子だから」

 それが探偵・安室透の最終推理にして、『トウコ』という謎に対するたったひとつの真実だった。

 そこからは映画のスローモーションのように、すべてがゆっくりと動いていった。

 まず花がひらくように、黒いまつげが上を向いた。

 黒曜の瞳がこぼれおちそうなほどに見ひらかれていく。

 ひゅっ、と息を吸いこむ音はあとから聞こえて、彼女はそれっきり呼吸をやめた。

 時間というものがなくなってしまったかのように、彼と彼女はすべての動きをとめた。

 桜の花びらが、ひらり、ひらりと舞いおちてくる。水紋のように広がる黒髪のうえで、薄紅色がもういちど花ひらく。

 そして、ついにそのときがきた。

 今に至るまでついぞ零れおちたことのなかったものが―― ぽろりと、白い頬に光った。

 あとにも、さきにも、ほんの、ひとつぶだけ。

 月の光を受けながら、しずかにつたう、ひとしずくのなみだ。

 それはきっとこの世でいちばんうつくしく、とうとい何かだった。

 おもわず目元へ指先を近づけて、彼は結局手を止めた。ぬぐいとってしまうのは、なんだかもったいない気がして。

 かわりにその眉をそっとなでて、彼はすこし困った顔で笑った。

「そんなにおどろいた?」

 それに対しトウコはいつものようにバカみたいな冗談でごまかそうとはせず、濡れたような声で問うた。

「どうして……?」

「そうだな。謎の答えを開示したあとは、きちんと解説するっていうのがミステリーのセオリーだからね」

 もうしばらく眺めていたい、という気持ちを押しやって、身を起こした彼は、最初に放りなげた爆弾入りの拳銃を拾いあげた。

「まずひとつめ。これは本物の爆弾だけど、実際には

 トウコの身体を引き起こしてやったあと、彼は目の前にそれをぶら下げてみせた。

「安全対策を重ね、よほどのことでは爆発しないようになっている、というのが正しい表現かな。どうして―― そう、まさに『どうして』だ。

 君は爆弾が爆発しなかったときも、とっさに『どうして』と口にした。その本意は『どうして爆発しないのか』ではなく、『どうしてそんな危険なことをするのか』だったんだ。だって君ははじめから、これが爆発しないのを知っていたんだから。

 とはいえ、爆発物は爆発物。君は実際のところ、僕がこれを爆発させるような無茶なマネをしでかさないかヒヤヒヤしながら見守っていた。ちがう?」

「そんなの、何の証拠も……」

「この期に及んで意固地だね。証拠っていうなら、ほら」

 と、彼は爆弾入りの拳銃を真上に向かって無造作に放りなげた。その途端、なんともいえない顔でうつむいていたトウコが目を剥いて「ちょっ、あああ!」と飛びつくように空中で受けとめた。

「な、なんてことを!万が一の衝撃吸収機構は備えてますけど、そう何度も保ちませんからね!さっきも一度落としたし――

「ほらね」

 うっと口をつぐんだトウコに、彼は肩をすくめた。

「地雷についても似たようなものだ。『位置情報を受信して爆発する』―― でも、位置情報で爆発するとは言っていない。爆発させるには、位置情報に加えてほかにも複数の条件をクリアする必要がある、おそらくはそんなところだろう。

 身につけて持ちこめる拳銃とちがって地雷はあらかじめ仕掛けておく必要があるからね。普通の地雷をしかけておいて、もしも無関係な人間がここに踏みこんでしまったら?と君はそんなふうに考えたわけだ」

 トウコはふてくされたように下を向いて、さっきキャッチした爆弾拳銃をいじっていた。グリップのあたりから導線のようなもの引っぱりだして、八つ当たりのようにぶちぶちと抜いていっている。さすが製作者本人、解体の仕方がワイルドだ。

 解体作業が終わった時点で、彼は彼女から拳銃の本体を取りあげた。

「これに内蔵されてるっていうGPSだってどうせサービスの一環だろ。僕が何らかの事情で助けを呼べずここから動けなくなった場合に、自動で最寄りの警察署に位置情報が送られるように。

 自分を逮捕しようと追ってくる相手の遭難対策までしてくれるなんて、どこまでも親切な爆弾魔だよ」

 考えれば考えるほど、何もかもがなのだった。

 爆弾としてはもう用をなさなくなったそれを今度こそ遠くに放りなげ、安室はトウコに向きあった。

「君は結局、僕を傷つけるようなものを何ひとつ、この場に持ちこんではいなかった。君はそういう人間だ」

 ところが、トウコの表情は暗いままだった。

 彼女はしばらくして、ちがいます、と消えいりそうな声で答えた。

「ちがうんです。それは、私が『トウコ』だったからです」

 彼女は瞳を伏せ、うつむくように言った。

「『トウコ』ならそうなんです。トウコ―― トウコさんなら。明るくて親切で、やさしくて。自分のことはあとまわしで、いつも人のことばっかり。『トウコ』じゃない私はそんな良いものじゃありません。本当の私は――

「本当の自分?」

 はあ、と彼は盛大にため息をついた。

「いい年して思春期に退行かい。どうでもいいことはいくらでも覚えているくせに、いちばん肝心なところは忘れるんだね」

 な、と憮然とした顔になった彼女に、彼は言った。

「言っただろ。実際のところ、でもかまわないんだって。それぞれの人格なんて、そのときどの面がいちばん外に出ているかの違いにすぎない。安室透だろうが、バーボンだろうが、降谷零だろうが。本当の自分?自分さがし?どこに何をさがすっていうんだ。自分は今ここにしかいないのに」

 あっけにとられるトウコを前に、彼は自らが用意していた銀色のベレッタを指した。

「たとえば。もし今日ここにいたのが降谷零だけだったなら、あらゆる危険を取りのぞいたうえで、君を確保していただろう。それこそ手足の一本くらいはダメにして。もしかすると君の命すら、かえりみはしなかったかもしれない。安室透がいたからこそ、君と僕は今揃ってここにいる」

 だが、と彼は続けた。

「降谷零がいたからこそ、安室透はここに間に合った。それもまた事実なんだ。降谷零がいなければ君に追いつけず、安室透がいなければ君を生かすことはできなかった。僕という人間にはどちらも必要で、等価で、意味がある」

 仮面からなる多面体。

 彼だけじゃない。誰もがそうだ。

 裏も表も、主も副もない。本当の自分なんて決められはしないし、決めるつもりもない。そんなものは昨日の天気よりもどうでもいい。

 大切なのは点でも線でも面でもない。点と線と面をつなぎ合わせた空間の、その真ん中にあるものだ。

「僕は、僕だ。どんな面が表にあっても、どれだけ仮面が増えようとも、いつかそのすべてを失うことがあろうとも、僕という人間の中心にあるものは変わらない」

 名を変えようが、姿を変えようが、変わることのないもの。

 重くて苦しくて、捨ててしまいたくなっても、変えることのできないもの。

 変えたくても変えられない、自分自身にすらどうにもできないそれこそが、名もなき己に残された、たったひとつの真実なのだとしたら。

 身にまとうすべてを取りさった先。

「最後に残るのは、信念だ」

 ほとばしる青い雷光。

 弾けるように強く燃えるその火のありか。

 びゅう、と風が花びらを散らしていく。

「そして、それは君だって変わらない」

 舞い散る花の中にあり、トウコはただただ呆然とその場に立ちつくしていた。驚いているようでもあったし、今にも吹き消えてしまいそうな、途方に暮れた顔にも見えた。

「銃把を握らされても、それを人に向けることをどこまでも拒絶しつづけた。名前、家族、故郷、過去、あらゆるものを奪われ、人としての尊厳すら踏みにじられても、正しくありつづけようとした。重くて苦しくて、捨ててしまいたくなっても変えることのできない、君自身にすらどうにもできないそれこそが、名もなき君に残されたたったひとつの真実だとしたら、君は『トウコ』に出会う前から、とっくの昔に『トウコ』だった」

 目を見開く彼女に、彼は告げる。

「人を傷つけることを厭い、嘘を嫌い、平和を尊び、日々良くあろうと一生懸命に生きる、どこにでもいる普通の女の子。

 そんな君を見捨てるならば、僕らのやっていることに意味はなくなる。僕の持つすべての仮面は、そのたったひとつのためだけに存在するんだから」

 彼はほほえんだ。彼女は、かつて零れおちたこの国のかけら。

「君もまた、僕が守るもののひとつだよ」

 彼は手を伸ばして、迷うことなくその手を取った。今度こそどんなことがあってもこぼれおちていかないよう、痛いくらいに握りしめて。

 仄明かりのなか、トウコは眩しそうに彼を見ていた。

 手を取って立ちあがろうとしたとき、こちらを見上げる瞳の中にうっすらと光の筋が浮かびあがった。

 あ、とどちらともなく感嘆の声を上げる。

 月はいつしか薄くなっていた。山の端から、空に向かって光が伸びてくる。

 長い夜を越え、ようやくおとずれたその瞬間。

「夜明けだ」

 青くうつくしい朝日が、彼岸の桜に新しい光を投げかける。

 朝の風がさわやかに頬をなでては、吹きさっていった。やがて立ちあがった彼女に、彼は視線を合わせて笑った。

「さあ、帰ろうか」


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