まっすぐに廊下を行き、白いドアの前で立ち止まる。
腕時計に視線をやれば、時刻は八時十五分。
File.60 透きとおる朝に生まれる
寝ていたら叩きおこしてやろう、とノックもせずに個室のドアを開けた。
「おはようございます、降谷さん」
期待は外れ、明るい声に先を越された。あいかわらず丁寧なあいさつである。
「おはよう」
と、若干残念な思いとともに、片手をあげる。どれだけ急に訪問しても、彼女がぐうたら寝坊している現場はいまだに押さえられずにいる。
「これお見舞い」
持ってきた紙袋をサイドテーブルに置く。
「もしかして、梓さんですか?」
「『アールグレイのホットひとつ』っていう声が聞きたい、ってさ。本当にいい人だよな」
「悪いなあ。ただの検査入院なのに」
きれいに包装された見舞品を受けとりながら、トウコは申し訳なさそうに眉を下げた。
あの夜、彼と一緒に東京に戻った彼女は、帰りついた途端にひっくり返って、丸々三日間、目を覚まさなかった。
目立った外傷はなかったものの、呼んでも叩いてもぴくりともしない。さすがにぎょっとした彼は、そのままの足で彼女を病院に放りこんだのである。
場所はもちろん彼の目が最もよく届く、東都警察病院。
診断は、心身ともに極限状態が続いた結果の、重度の疲労だった。なるほど姿を消してからあの夜までの一週間、諸々の工作のため絶えず動きまわっていた彼女はほとんど一睡もしていなかったというわけだ。
ほかにもなんだかんだと無理を重ねていたせいか、目覚めたあとも衰弱が著しく、しばらくは検査もかねて入院ということになった。
それが四日前の話。
「わっ、うれしい。紅茶クッキーだ!……って、ちょっと待った、この包み紙ってまさか。も、ももももしかして、マ・リベルの店頭限定品!?」
紙袋を覗きこんで、トウコが悲鳴をあげた。
まあ、やつれてはいるものの、何か大きな異常があるわけではない。こうして彼が持ちこむ見舞品に尻尾をふって食いつく毎日である。
「こんなもの、もらっちゃっていいのかな。さ、さすがに申し訳ないような」
ちらっ、ちらっと横目で確認をとってくる。小箱ながらも素敵すぎる贈りものに、少々気後れしているようだ。
無償の好意に慣れない彼女に、免罪符をくれてやる。
「せっかくだから、ありがたくいただいておきなよ。梓さんのやさしさに心に打たれながらさ」
「そ、そうさせていただきます!ありがとうございます、梓さん」
「お礼なら、またそのうち―― 」
言いかけて、彼はその続きを飲みこんだ。
―― またそのうち、ポアロで会ったときにでも。
さいわい、トウコは贈り物を開けるのに夢中で、こちらの様子には気付かなかったようだった。
「ちょっとずつ大事に食べよう」
クッキーの缶を丁寧に袋へ戻しながら、彼女は垂れてきた黒髪を片手でさらりと耳にかけた。
痩せた手首にかかっているのは、入院患者用のタグと、黒い髪ゴムのふたつだけである。
今は、まだ。
彼は白いスツールに腰を下ろした。
「体調は?」
「見てのとおり上々です」
そうか、と答える。少しおいてから、彼は顔を上げた。
「君の処遇が決まった」
見舞品の袋を大事そうに抱え、顔を綻ばせていたトウコが、ちらりとこちらを見た。
たいした病状でもないのに、ずるずると延びる入院期間。ここに留めおかれている理由。
動揺はみられなかった。老いた賢人のごとく、その瞳は包みこむようなしずけさに満ちている。
むしろ彼のほうが、いまひとたびの猶予を欲してしまうほどに。
「聞く気はあるか?」
「はい」
即座にかえってくる返事。おもわず挟んだひと言分のクッションだったが、当人はにべもなかった。
彼は息を吸ってから、黒い瞳を見つめて告げた。
「結論からいうと、君が元の赤羽雪枝としてこの国で生きることは、できない。赤羽雪枝は十数年前に死んだ人間だ。死亡診断書もある。残念ながら、死人は生き返らない」
トウコはゆっくりと頷いた。
元気なしぐさではなかったが、落ちこんでいるふうでもなかった。彼女はきっとこの結論を知っていた。
そしてまた、これから何を告げられるのかも、わかっているのだ。
「そして、これまで名乗ってきた『赤羽トウコ』もまた君自身とは言えない。たしかに本物の赤羽トウコは生死不明、本人がふたたび社会に姿をあらわす可能性はかぎりなく低いだろう。しかし、だからといってそれを他人が私欲で利用するなどということはまかりならない。正式には、公正証書原本不実記載―― ほかにも、君がこの国で暮らすためにやったことには、多くの犯罪行為が含まれている」
「……はい」
「それに対して俺ができることは、そう多くない」
ほんのひとときの沈黙。
それから、トウコはやはり小さく頷いた。
入院着の膝に、そっと白い手が置かれる。入院患者用のタグ、黒い髪ゴム。それらがかかった手首に、『もうひとつ』を受けいれる覚悟を決めて。
「ひとつ、お願いがあるんです」
両手をそろえて差しだす前に、彼女は小さいながらも、はっきりとした声で言った。
「君の矛盾した行動についてかい」
「お気付きでしたか」
「気付くも何も、途中からはそれが一番の謎だったからね」
彼はスツールの上で身体をずらし、彼女と向きあう姿勢を取った。
「実際のところ、今回の件には不可解な点が数多く存在した。そのなかでもことさらに奇妙だったのが、君の言動だ」
トウコはその人物像や目的とはまるで矛盾する、本来ならばありえないものを彼に向けて残していっていたのである。
それは、『手がかり』だ。
「『一週間、実家に帰る』『花見に行く』云々、行き先にまつわる有力な情報を、君はあろうことか僕の前で口にしていた。足どりを隠しながらも一方でヒントをぶらさげる、刑事ドラマの犯人みたいに。とはいえ君は、『本当は追いかけてきて、止めてほしかった』だなんて可愛げのあることを言うタイプじゃない」
受ける印象はむしろ正反対だ。
彼女は、感傷的な撞着や愉快犯的な非合理を好まない。忌避しているといってもいい。
逃げると決めたら影も形も残さず、徹底的に。
知られて困る情報ははじめから知られないようにする。彼らの世界の鉄則を、トウコは体現し続けてきた。
「『嘘をつかない』という制約が君の言動を縛った、と考えることもできなくはない。だが、それにしたってサービスが過ぎる。本当のことなんて、わざわざ口にする必要はなかったんだから」
秘密と嘘は表裏一体の関係にある。
何かを隠したいとき、人は往々にして嘘をつく。だが、嘘をついた時点でその行為自体が新たな秘密となる。『嘘つきは泥棒のはじまり』であるのと同時に『泥棒は嘘つきのはじまり』でもあるのだ。
しかし、ごくまれにそうならない人間が存在する。
「生まれもったまっすぐな本質といびつな生い立ち。有機的な心と機械的な処理中枢。多くの人間においてダブル・スタンダードを引きおこすはずのそれらが、君のなかでは矛盾することなく同居している。ある意味、奇跡的なかたちで」
彼女はいつわらない。装わない。無色無臭、無辜で無垢な大衆のひとり。
意図的にそうしているわけではない。生まれながらに人の目を惹きつけてやまない者が存在するとすれば、彼女はある意味、その対極の存在だと言える。
のぞきこんでもそこには何もない。いや、正確には『皆と同じもの』しかない。それが彼女のあるがまま。
透きとおる意思―― “学校”の人間が『才能』と呼んだそれ。
「君はその気になれば、嘘をつくことなく情報を隠しきることができた。にもかかわらず、そうしなかったということは、そこには何らかの作為があったとみるべきだ」
彼はポケットに入れてあったものをつまみ出し、トウコの目の前にぶらさげた。
「見覚えあるな?」
「……まあ」
もとは私のものですから、とトウコは肩をすくめた。
指先で鈍く光るのは、鎌倉で譲りうけた『トウコちゃんからの預かりもの』。
ハイツ・アサヒ、二〇四号室の鍵だった。
そう、どんなものにも鍵がある。そしてそれは意外なところから転がり出てくるものだ。
「今回の件、謎を解く鍵は―― 湯守さんだ。正確には、湯守さんの鎌倉旅行」
彼は鍵をカチャリと白いサイドテーブルのうえに置いた。
「『湯守さんが旅行で留守にしていたのは偶然じゃない』だなんて今さらすぎる説明は割愛するよ。君はあの一週間、湯守さんをハイツ・アサヒから遠ざけたかった。万が一にも、僕と接触してしまうことがないように」
一週間。
それはトウコがあらかじめ定めていたタイムリミットだった。あらゆる活動の痕跡を消し、国外へと逃亡するための最終刻限である。
「亡命の準備が整うまで、君は僕らふたりの遭遇を阻止しなければならなかった。なぜなら、君が湯守さんに言伝ていた内容は、僕に会ったら鍵を渡すように、というものだったからだ」
むしろ湯守はそれしか知らされていなかったといっていい。
トウコの現状、安室との関係、諸々の説明はいっさいなしに、『安室を名乗る人と会ったらこの鍵を渡してください』とたったそれだけ。
「逆にいえば、僕と彼女が出会わないかぎり、鍵は守りとおせるはずだった。だが、実際には僕は湯守さんに会いにいき、一週間以内に鍵を手に入れてしまった。鎌倉なんかじゃなく、もっと遠い場所へ送り出していたら話は違っていたろうに」
「大丈夫なはず、だったんですよ」
ずっと黙っていたトウコが口を開いた。白いシーツを眺めながら、思い出を語るように言う。
「一週間のあいだにあなたが私の失踪に気付く―― それ自体がそもそも、ありえない話だったんですから」
一週間、実家に帰る。
その言葉だけで彼がトウコの失踪を察することができたかというと、まちがいなくノーだ。
空っぽのマンションという明らかな物証があったとはいえ、実際のところ、トウコの留守中に彼が自発的にあのマンションを訪問する可能性はかぎりなく低かった。
「それどころか、万が一失踪がバレたとしても問題はありませんでした。すこし調べれば、私があなたの情報に手をつけていなかったことは知れる。危険分子でないとわかれば、あなたは私を追うという『無駄』を省きます。それにかかる手間と時間、労力。それに見合うものがなければあなたは動かない」
彼女は無意識に手を握りしめた。
ポアロの帰り、用もないのにハイツ・アサヒに寄る。少しの疑問のために彼女の故郷に足を運ぶ。湯守の帰りを待たずにわざわざ出向く。
気まぐれと無駄の積みかさね。
他の誰かならありえても、彼にかぎっては絶対にありえなかった選択の連なり。
トウコの読みはある意味、ぞっとするほど正確だった。
「帳尻が合えばそれでいい。逆に言えば、何があろうとそうなるようにする。あなたは、あなたの心や身体を自分の好きなようには使わない。そういう人です」
複雑な表情で窓のほうを眺めていたトウコだったが、じきに気を取りなおし話を戻した。
「だから、行き先は鎌倉でよかったんです。あなたと湯守さんが偶発的に出会ってしまう可能性さえ排除できれば、私の目的には十分でした」
もしも彼が鎌倉まで行かずに、ツアースケジュールのとおりに湯守が東京へ帰ってくる日を待っていたら、トウコに追いつくことはできなかった。
湯守の持っていたあの鍵は、直接の手がかりにこそならなかったものの、トウコを捕まえるにあたっては必須のものだったからだ。
―― ただし。
カチャリと鍵を指先で押さえて、彼はトウコを見た。
「ただし、それは一週間のあいだにかぎり、だ。そう、一週間経ったあとなら、僕の手に鍵が渡ってもよかった。いや、むしろそれを望んですらいたんだ、君は」
トウコは何も答えなかった。
彼は立ちあがり、窓の外を見ながら口を開いた。
「今回の件にはとにかく不可解な点が多い。追われることをおそれながらも、必要十分な情報を残していく逃亡者。合理性と相反する奇妙な行動。だが実際のところ、矛盾しているといえば、そもそもが、矛盾している」
むしろ、あらゆる矛盾はそこから生じているといっていい。
トウコにまつわる謎のなかで、いまだ解きあかされない最大のもの。
トウコの瞳を見て、彼は言った。
「君はあの日、どうして僕に近づいたんだ?」
それは本来、一番最初に問われるべきだったにもかかわらず、いまだかつて問われたことのない問いだった。
ふたりのあいだに起こったさまざまな出来事によって薄められ、もはや今さら問うこと自体が不自然になってしまったくらいのそれ。
「僕という人間が持つ、情報やコネ、それから能力。そのあたりの模範解答なら話は早いが。残念なことに、ことはそうシンプルじゃない」
彼の知るかぎり、彼女が『安室透』を通して『降谷零』を覗きこもうとしたことは一度もなかった。
近づく者がそろって垂涎のそれらも、トウコにはたぶん、どうでもよかった。
「君が日本に来た目的は、『トウコ』になること。君の願いはそれだけだった。だからこそ危険をかえりみず元いた組織を抜けだし、戸籍を偽ってまで『トウコ』になった。なのに結局バレて追いつめられて、今となってはこんなところに放りこまれている」
おかしいだろう、と彼は入院着の女を見た。
「ずっと『トウコ』でいたかったのなら、僕はむしろ近づいてはいけない相手だったはずだ」
彼がどういう類の人間であるか、最初に出会ったときからトウコはおおよそ勘付いていた。
彼女の身辺にはとにかく後ろ暗いことが多い。いくら偽装に力を入れていても、調べられればボロが出る。身分を偽って入りこんできた以上、鼻の利く相手にあえて近づくメリットは皆無である。
にもかかわらず、トウコはみずからそれを選んだ。
「『受けるかどうかは、自分で決めろ』―― 僕から離れる機会は幾度となくあった。逃げたら警察に突きだすだなんて脅し、君は実際のところ気にも留めていなかっただろう。自分ごときが逃げだしたところで追手はかからない。そう確信していたんだから」
わざわざリスクを負って彼のもとに残った理由。
それはたとえば、いつか聞いた彼女の言葉だ。
『あなたはいつでも何かを一生懸命に見つめていました。だから私もそれに興味が湧いたんです』
しかし彼は首を横に振り、みずからそれを否定した。
「君が僕のそばにいることを選んだ理由は、情報やコネや能力じゃない。だが僕に対する純粋な興味だったかというと、それもまた違う。正確には、それだけじゃなかったんだ」
彼はトウコの瞳をまっすぐに射抜いた。
トウコは彼に強い興味をもっていた。それはたしかだ。彼の行動を観察し、思考を理解しようとしていた。それもまちがいない。
彼の生き方を見ていたい。その言葉にもまた本心から出たものだろう。
しかし、忘れてはならないことがある。
「君は絶対に嘘を言わない。だが同時に、本当のことも、言わない」
トウコは何か反応をみせるでもなく、ただ黙って彼の話を聞いていた。
沈黙は肯定。彼女の場合はとくに。
テーブルの上にあった鍵に視線をやる。
トウコがあの二冊の日記を彼に向けて残した意図は、彼へのヒントでまちがいない。だが、それが彼の手に渡る時期は、トウコが去ったあとでなければならなかった。
であれば、答えはひとつ。
「君が僕に残したかったものは、君を追うための手がかりじゃない―― それとは別の『何か』を追うための手がかりだ」
彼は病室の白壁を眺めた。
「おもえば最初からそういう傾向はあった。あの一週間にかぎったことじゃない。ポストの件にはじまり、一年前に僕と出会ってから、君はさまざまなヒントを、まるで足あとのように僕の前に並べてきた。僕と出会ったあのときに、いや、それよりもずっと前に君の計画ははじまっていたんだ」
その『何か』を追うために、トウコはずっとひとりで準備を重ねていた。そしてついにあの日、すべてを終えて姿を消すに至ったのである。
トウコは白いベッドの上で、やはりしずかに座っていた。前よりかいくぶん薄くなった肩は、海底の貝のように無色の沈黙を守っている。
その様子をしばらく眺めたあと、彼はポケットから一枚の紙を取りだした。
「君の口座、調べさせてもらったよ」
トウコが生活のため、ネット関連のアルバイトをしていたのは知っていた。
しかし実際に調査してみれば、その規模は彼が予想していたよりもはるかに大きく、内容も多岐にわたっていた。ネットショップの運営にはじまり、各種システムの設計制作、サイバーセキュリティのアドバイザーなど。
どれも小遣い稼ぎのアルバイト、といった範囲には収まらない。
「君の口座には毎月かなりの金額が流れこんでいた。しかし、それだけの収入があるにもかかわらず、平均残高はここ数年ほとんど変化していない。毎月決まった日になると、入ったものがそっくりそのまま出ていくからだ。不思議に思って調べたところ、行き先は個人ではなく団体だった」
彼はさっき取りだした入出金明細を指さした。増えては減りを繰りかえす、口座の残高。欠かすことなく支払われつづける大金。
「資金の流入先は、身寄りをなくした子どもを支援するNPOだ」
トウコは貧乏な大学生だった。たかだか数万の家賃すら払えないとゴネるくらいに。
他人に泣きついて乞食のようにすがりながら、一円でも多くの金を欲しがった。
だから、そんな彼女の本当の“願い”は、考えるまでもないことだったのだ。
「子どもの誘拐・人身売買ルートの断絶。および関係組織の崩壊。一連の出来事の目的、いや君の人生の目的こそがそれだった」
トウコの黒いまつげが一度だけ震えた。
たとえわかってはいても、目の前に突きつけられるとどうしていいかわからない。トウコはそういう顔をして、居心地悪そうに視線を床に投げた。
「君は、それを追うどこかの地点で自分が死ぬことを知っていた。死ぬような方法でしか、証拠をつかめないと知っていた。だからたとえ自分が死んだとしても、なかったことにならないように僕に日記を託した」
普通の人間が見れば、ただの日記にすぎないそれも、彼であれば何かを感じとることができるはず。トウコはそう信じて、彼に二冊の日記を残そうとした。
「日記はどちらも、ただ読んだだけでは何もわからないようになっている。だから君は、その秘密を解くための鍵を、一年もの時間を費やし、僕との日常の中に自然なかたちで配置してきた。君が消えたあと、いずれ僕が真実に辿りつくように。それが君の矛盾の正体だ」
己の身を犠牲に、何かを残す。何かを守る。
彼女は真実、『トウコ』として生きようとした。
トウコはぼんやりと聞いていたが、しばらくして一度だけぎゅっと目をつむり、言った。
そのとおりです、と。
そして彼女はぽつりぽつりと語りはじめた。
「誰が見てもわかるような情報を残して、万が一、一般の人の目に触れてしまえば、その人にも危害がおよびます。かといって、私にしかわからないかたちにすれば、それこそ誰にも気づいてもらえないまま埋もれていってしまう。その点、あなたは情報を託すのに理想的な相手でした。数少ない手がかりからも正解を導きだすことができ、知ってしまったがゆえの危険にも対処できる」
「……警察には?」
立場上、一応は訊ねてみたが、彼女は案の定「わかってるくせに」というふうにほほえんだ。
「何をどこに持ちこんだとしても、まともに取りあってはもらえませんよ。普通の人間ならまだしも、私はただの幽霊ですから。そんなものに誰が耳を傾けますか」
彼女はあえて言葉をにごした。
まともに取りあってはもらえない―― ちがう。本当はそんなに可愛らしいものではないのだ。
内部にいるからこそ、見えるものがある。強い光の後ろには、かならずそれだけの濃い影ができる。
彼女が命を賭して調べた情報がかならずしも、正しい場所までたどり着くとはかぎらない。たどり着いたとしても、正しいかたちで正しい目的のために使われるとはかぎらない。
「はじめて会ったときに、わかったんです。この人だ、って。もちろんあなたも知ってのとおり、そこから確信に至るまではそれなりに時間が必要でしたけどね」
トウコは冗談めかして続けた。
「私のような人間が降谷さんと知り合うのは本来とても難しいことです。近づくだけでも警戒されるし、話を聞いてもらうどころか、最悪捕まっちゃうかもしれない。でも、安室さんとならいつでもポアロで会えました。どうでもいい、他愛のない話をして。何もかも知りあったうえでのことではなくても、それは決して薄っぺらな時間じゃなかった。『あなた』は私にとっては奇跡のような人だったんです」
だから、あなたでなければいけませんでした。
と、トウコはそう言ってちょっと笑った。
あたためて彼を見たトウコは、かすれた声で言った。
「解決してくれ、と言ってるわけじゃないんです。組織の母体は海外にあり、現時点では日本への影響はそう強くありません。わかっています、この件があなたの管轄じゃないことくらい。だから、せめて『なかったこと』にだけはならないようにしてほしいんです。『なかったこと』になった子どもたちがいたこと、そして今もなお増えつづけていること、その事実だけは、どうか」
しばらくして、彼は息を吐いた。
「それが君の“お願い”ってやつか」
「はい。私にはもうそのための、時間も自由もありませんから」
そう言って、彼女は、最後の猶予にみずから終止符を打った。
瞳を伏せたあと、今度こそ手首をそろえて彼の前に差しだす。すでに覚悟は決まっているのか、目をつぶり、おとなしくそのときを待っている。
彼は上着のポケットから、もう見飽きて、使い古した『それ』を取りだした。鈍く光る金属のチェーンがかすかな音を立てて揺れる。
カチャリと鳴る音に、薄い肩が子どものように震えた。
彼はそれを、そろえられた手の上に持っていき―― 置いた。
「……え?」
まぶたを開けたトウコは、目をぱちぱちさせてから、もう一度「へ?」と言った。
手の上に乗っていたのは、あの桜のストラップだった。
「結論から言うと、君の願いは全面的に却下だ」
見ている前で、トウコの口がぽかんと開く。
「きゃ、却下?」
「あたりまえだろ。どうして僕がただで君の願いをきいてやらなきゃならない」
「い、いや、ここは内心どう思ってても『俺に任せろ。君の意志はかならずや』くらいのリップサービスがあってもいい場面では―― 」
「顔がうるさいぞ。君の意見はきいてない」
「ま、また新しい横暴ワードが……」
彼はベッドの端にどさりと無造作に腰を下ろした。スプリングのあおりを受けて、端のトウコがびよんびよんと弾む。
「いいか。赤羽雪枝は生きかえらない。赤羽トウコも君じゃない。つまり君は今、戸籍という身体から追いだされた魂みたいなものだ」
名前も国も何もなく、人としての証明を持たない浮遊体。
誰にも見えない透明な幽霊。
「ちょうどひとつ、空いている戸籍がある」
トウコの瞳がぐるりと彼のほうを向いた。
「早くに身寄りをなくしている人物で、家族はいない。未婚。年齢はまあ多少違うが、ぎりぎり問題にならない差だ。あ、そうそう不動産もいくつか持っている。犯罪歴は、もちろんなし」
「……まさか」
「行方不明で退職状態にはなっているものの、元の職業は警察官。名前は―― 佐神トウコ」
トウコはベッドの上で、完全に動きを止めていた。口と舌をどこかに落としてきたように、完膚なきまでに言葉を失っている。『おどろき』というタイトルの彫刻があったら、だいたいこんな出来になるにちがいない。
固まってしまった眉間に向かって、彼は撃ちぬくような仕草で人さし指をつきつけた。
「だから、そうだな。取引をしよう」
とりひき、と彼女はかろうじてオウムがえしに唇を動かした。
「君は今後、その特殊なスキルを職務の遂行以外では決して使用しない。君の身元にかかわる情報及び今ここで交わされている内容について、いっさいの他言をしない。いかなるときでも、佐神トウコとして振るまい、佐神トウコとして生きる。以上の全てを完全に守りとおすかぎりにおいて、僕は君に一国民としての生を約束する」
取引の内容を聞いても、トウコは呆然としたままだった。白いベッドの上で、時を止めたように固まっている。
しばらくして、ぽつりとつぶやきが聞こえた。
「私がトウコさんのかわりに……?」
うなずくと、トウコは目に見えて狼狽した。
口を開けたり閉じたりして、あちらこちらに視線を彷徨わせる。
だが、最終的にはどうしようもなくなって、ストラップを握りしめる自分の手元に逃げこんだ。
そして本当に小さな声で、できません、とこぼしたのだった。
「理由は?」
彼女の手は震えていた。
「わ、私は……そんな立派な人の人生を預けてもらえるような人間じゃありません」
かろうじて絞りだした声もまた、ひどく震え、かすれていた。
「売られて本格的に使われる前に逃げだしはしたものの、実際のところ、そんなの今さらだったんです。訓練という名目でやったことのなかには、ただの訓練ではないものも―― 現実に誰かを不幸にするようなものもあったにちがいありません。記録がなくても、誰もその事実を知らなくても、私は犯罪者なんです。それなのに警察官、だなんて。トウコさん……だなんて」
唇が嚙みきれる、痛々しい音がした。
「私だって、一緒なんです。わかっていたのに、見て見ぬふりをしてきた。ほかの子どもが売られていくのを、当たり前に見過ごしてきたんです。私にあの人になる資格なんてあるわけない。トウコさんは、この世界のルールに、たったひとりで挑んだ人だった。あの人だけが……あの人だけが、目の前にいる小さな私を選んでくれた……!私ひとりなんかのためじゃなく、これからいくらでも、皆のために生きられる人だったのに……!」
彼女の心が、叫びが、手にとるようだった。
血を吐くような、爪を立てて身体をかきむしるようなそれ。
絶叫して、のたうちまわって、彼女は自分を焼いている。今にはじまったことではない。息をしているあいだじゅう、彼女はずっと焼きつづけてきた。
消したくても消せない、捨てたくても捨てられない、変えたくても変えられない青い炎で、自分自身を。
トウコという人間の奥に、たったひとつ残ったそれは、彼女をみちびく灯火でありながら、その身を苛む熾火だった。
もはや血すら流れでないほど、痛みきった心に向かって、彼は言った。
「君はかつて僕の秘密を知り、バーボンをつけまわした。そのリスクがどれほどのものかわからない君じゃない。だが、たとえどれだけ危険だったとしても、君は僕の正体を確かめたかった。たくさんの顔を持った僕の中身が、何に拠ったものなのか。僕という人間を的確に利用するために、じゃない。もっと単純な動機だ。バカみたいに考えなしで、打算や計算とは無縁の」
以前は口にしなかった答えを、彼はようやく言葉に変えた。
「君はただ、見過ごせなかった。誰かを傷つけるかもしれない僕を。そして、傷つけられるかもしれない誰かを」
古くて傷だらけ、それでも清潔な白壁。眺めながら言う。
「僕は目も耳も鼻もいい。だから、確信をもって言える。僕の目の前にいたのはいつだって、ありのままの君だった」
どんなに見るによく、聞くによく、嗅げばかぐわしいものだったとしても、そばに立てば手にとるようにわかる。そうでなければ、つとまらない。
彼女を疑わなかったのは、見えなかったからではない。
すべて、透けて、見えていたから―― 彼は彼女をそばに置いたのだ。
彼はベッドのうえでトウコに向きあった。
「血だらけの凶器を握らされても、おぞましく凄惨なものを直視させられても、今なお、透きとおって輝く強靭な意志。あらゆるものを剥ぎとられ、たったひとり闇のなかに放りこまれても、残りつづけたものがあったとしたら。それこそが、君の核―― 君の信念だ」
知っているか、と彼は問うた。
「深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを見ている。汚れた場所に浸り、汚れたものを見続けると、人の魂は汚れていく。そうやって堕ちていった人間を僕は山ほど知っている。汚れたことのないものに価値があるんじゃない」
汚れても、汚されても、汚れなかったもの―― もしもこの世に『本物』が存在するなら、それはきっと。
彼はまっすぐにトウコを見て、言った。
「この仕事、君にはむしろ天職だと思うけど」
「天、職……?」
トウコはひどく困惑して、途方にくれたように彼を見あげた。
「佐神トウコになれば、たしかに君の犯罪歴は白紙になる。だが、やったことがなくなるわけじゃない。言うまでもないことだが、不当に社会のルールを破り他人に危害を加えた人間に、本来、選択肢はない」
「だったら、私だって!」
いつかの言葉を、もう一度くりかえす。
「勘違いするな。君のために選択肢を用意したんじゃない。いちばん『プラスになる』判断をしたら、そういう選択肢が生まれただけだ。戸籍を取りかえても、犯罪として立証されなくても、やったことはやったこと、それに変わりはない。償えなんかしない。なくなってしまったものは、もう二度とは戻ってこない」
彼は射抜くようにトウコを見つめた。
「だからこそ、だ。君はこの世で息をするかぎり、大勢のために尽くしつづける。それがどんなに苦しいものであっても。人生をかけて」
助かりたいがために、逃げ道としてすがる―― これはそんな救いにはなりえない。彼女に、諸手を挙げて笑顔で受けとれるような、大団円はない。
トウコがトウコであるかぎり、彼女を苛む炎は消えない。それこそ、ここまでの人生が証明してきたように、たとえすべてを失おうが、トウコはそれだけは捨てられない。どんなに捨てたくても、捨てることができないのだ。
この道を行くかぎり、青い炎はさらに苛烈に彼女自身を焼くだろう。
目を逸らすことも忘れることも許されず、他人の罪を通して、自分の罪を見つめつづける。罪人を焼きながら、自分を焼く。
トウコは懇願するように言った。
「もし、受けられない、といったら?」
「君の身柄と証拠のいっさいを最寄りの警察署に持ちこむ―― と、言いたいところだけど」
彼はそこではじめて視線を逸した。
「正直、受けてくれないと困る」
虚をつかれて、トウコが「え?」と目をまたたかせた。
「わかってるよ。これが僕の自己満足だってことくらい。君に言ったとおりさ。名前も、家族も、故郷も、自分も。君が失ったものは何ひとつ戻ってはこない。君ひとりを生きかえらせたところで、君のような子どもがいなくなるわけじゃない。佐神トウコが帰ってくるわけでもない。でも、僕が今、君たちにできることはこれくらいしかないんだ」
『皆のための彼』。だが彼の手は、実際のところ、笑ってしまうくらいちっぽけなのだった。
皆を救うどころか、すぐ前にいるたったひとりの手すら、ろくにつかめたためしがない。何もかも取りこぼして、それでも今なお生きながらえている、死人も同然の人間。
だから。
だからこそ。
「一度くらいは、許してくれないか。そんな、らしくないことも」
苦笑しながら続ける。
「君の大好きなトウコさんみたいに、上手にはできないかもしれないけど」
トウコの黒い瞳が今にもこぼれおちそうなほど見ひらかれた。
らしくない。本当にらしくない。
でも、そんなことを考えていること自体が、きっとらしくない。
「もちろん、佐神トウコという人間として生まれなおし、何を負うでもないただの女性として生きていく選択肢もある。もちろん、この国以外のところで、ということにはなるが。あるいはそれこそが君の、そして佐神トウコの切望したことだったのかもしれない。だから―― 受けるかどうかは、自分で決めろ。君には君の人生と未来がある」
私の、人生と、未来。
トウコはゆっくりと、たどたどしく彼の言葉をなぞった。黒板に書かれた知らない字を、おそるおそる読みあげる小学生のように。
そう、子どもだ、と彼は思い出した。
無邪気で、まだ何も知らない子どもだから。
『あーあ。トウコねえちゃん、早く帰ってこないかなあ!』
彼は心底弱って頭を掻いた。安室透は嘘つきだ。いつだって嘘だらけで、皆を騙して生きている。
でも、嘘をつきたくない相手だって、ちゃんといるのだ。
「困るんだよ、本当に。だって、一週間たったら帰ってくるって、あの子たちに言っちゃったからさ」
「……そんなの、ダメじゃないですか」
小さなつぶやきが聞こえた。うつむいて、黒髪の奥に表情をかくしたまま、トウコは言った。
「おまわりさんが子どもにウソをつくなんて、そんなの」
「ダメ、ゼッタイ?」
覗きこむようにして訊ねた彼に、トウコは奥歯を食いしばった。
そしてみずから黒髪に手を突っこんだかと思うと、「ああもう!」と馬鹿みたいな声で叫んだ。
「そういうところですよ、そういうところ!卑怯ですよう!そんなこと言われたら、それこそ、選択肢なんてないじゃないですか」
トウコがゆっくりと顔を上げる。
そこには―― あの困ったような情けないような、でもそれでいてとても懐かしい、あの眉毛があった。
彼女はその顔のまま、息を吸いこみ、ついに言った。
「そのお話、受けさせてください。私に、どうか、佐神トウコの人生を生きさせてください」
意を決した言葉のあと、引きむすばれていた唇が、にっ、と笑みの形をつくる。
困っているのか笑っているのかわからない、そのぐしゃぐしゃとした笑みは、きっと今、彼女にできる精一杯の顔だった。
「成立だな」
どちらからともなく腕がのびる。
中間地点の手前で、それぞれの指先が止まる。彼らはちらりと相手を見やったあと、ちょっとばかり眉を下げて、まるでそうすることを示しあわせていたように―― そっと手を重ねた。
冷たくてちょっと湿った、ふたつの手のひら。
握手よりもあいまいで、たどたどしく、それでいて、力強いそれ。
「どんな仕事も疑問なく了承し、逆らわず、詮索しない。そんな約束は今後の君には必要ない」
腰を上げた彼は、そのまま手を引き、彼女をベッドから引きずりだした。白い裸足がリノリウムに着地する。
「僕からはあらためてひとつだけだ」
少し距離をおいて向かいあったトウコに、彼は声を張った。
「命じられた内容の如何にかかわらず、常に己の正義に殉じろ。これをもって、君、佐神トウコの復職を許可する」
ぽかん、とするトウコに向かって、彼はまなじりを吊り上げた。
「返事ッ!」
「は、はい!」
「声が小さい!もう一回!」
「はいッ!!!」
おどろいて慌てながらも、トウコも負けじと声を張りあげた―― 今度こそ、二本の足で、しっかりと地面を踏みしめて。
そして彼らは誰に言われるでもなく、その場でしずかに敬礼を交わしたのだった。
見よう見まねのぎこちないそれに、彼は「全然なってない」と苦笑した。
「やりなおしだな、いちから」
◇◇◇
それにしても、とトウコはクッキーの袋を開けながら、呆れたように口を開いた。
「この話、よく許可が出ましたね」
「かなりのレアケースだよ。君じゃなければたぶん通らなかった」
「と、いうと?」
「使える資源はリサイクルだろ」
ブッ、とトウコが、今まさに口に入れた見舞品をふきだしそうになった。
「し、資源。人的資源っていうふうに脳内補完しておきますね」
「しなくていい。それより人の話の途中で勝手に物を食いはじめるな」
じろりと視線を送ると、トウコは手元の高級クッキーと彼の顔を交互に見たあと、しぶしぶといった様子でワイロを一枚わたしてきた。
ふむ、交渉の基礎はわかっているらしい。とりあえずは及第点である。
「実際、君のような特殊な―― ん、うまいなこれ。さすが梓さんが選んだだけある。今度マネしてつくってみるか」
参考品に、とまたひとつクッキーの個包装を取りあげる。貴重な高級品が目の前でパクパクやられるのを、トウコは「ああ……」と壮絶な顔で凝視していた。
「病人に見舞品を供出させる上司……パワハラ……」
「何か飲むもの。しゃべって喉がかわいた」
「しかもわがまま……」
「喉」
肩をすくめたトウコは、おとなしくティーバッグの入った紙コップを並べ、ポットからとぽとぽ湯を注いだ。アールグレイの色と香りが水面下に広がる。近ごろはインスタントといえども馬鹿にできない。
しばらく蒸らしたあと、彼女は「へい、お待ちどう」とコップを示した。
「お好きなほうをどうぞ。アールグレイのホットになります」
「ミルクは?」
「セルフです。どうしても欲しければ売店で牛乳を買ってきてください」
「やる気のない喫茶店員だな」
彼は並んだままの紙コップを見て、「言っておくが」と声を低めた。
「今後いっさい、こういう気づかいは不要だ」
「……いいんですか」
「くどい。さっさと選べ」
急かされて、トウコはそっと手前の紙コップを手にとった。残りを持ちあげた彼は、トウコより先に口をつけた。喉仏が動くのを見てポカンとしつつも、彼女もまた慌ててひと口のんだ。
ふう、とどちらともなく、息が漏れる。
「なんだか不思議な感じだなあ」
「何が?」
「何って、まあ、いろいろです」
有名どころのクッキーをせんべいのようにぱりんと歯で割りながら、彼は話をもどした。
「実際、君のような特殊人材の育成は簡単じゃない。金もかかれば時間もかかる。そのくせ、仕上がりは本人の資質に大きく左右されるときた」
国民の血税を費やして檻の中でタダ飯喰らいをさせるのと、多少のリスクは覚悟のうえでこき使うのと、どちらのほうが全体にとってよりプラスになるか、上は上で天秤にかけたというわけだ。
「その結果、君には手縄より首輪のほうが似合うだろうって話になったのさ。もちろん当分のあいだは厳重監視っていう条件つきだけど。嫌か?」
トウコは苦笑して言った。
「残念なことにちっとも。監視くらいで済ませてもらえるなんて、むしろちょっとびっくりしてますよ。寛大な処置に感謝します」
「そうか、それはよかった。じゃあさっそく仕事だ」
ぎょっとして、トウコが咳きこむ。
「げほっ、えほっ、な、流れるような誘導尋問……お、お見事です。プロフェッショナル版?」
「いいや?そっちのほうはまたいずれ」
うげえ、と半目になっているトウコを放って、彼は『仕事』を告げた。
「君には当分のあいだ、とある男の補佐を命じる」
「とある男?」
「僕の知りあいでね。助手がひとりいたんだが、最近になって失踪してな。ただでさえ忙しいのに人探しまでするはめになって閉口しているそうだ」
「そ、それは大変ですね」
「というわけでしばらくは前任の分まで存分に使いたおされろ。異論はあるか?ないな?」
承知しました、とトウコは大人しく首を縦に振った。
「ま、降谷さんにぴったりくっついていても、あんまりやることなさそうですしね」
「ん?」
「だって降谷さんにはもう、優秀な部下がたくさんいらっしゃいますもん。風見さんとか」
飲んでいた紅茶を噴きだしそうになった。
「……なんで知ってる」
「以前ちょっと―― じゃなくて。そりゃあ、素養のある人間が、十五年近くにわたって命がけで磨きつづけてきたスキルですからね。自分でいうのはアレですが、『調べもの』についてはそこそこ自信ありますよ」
はにかむようにして答えたトウコに、彼はいつかの会話を思い出して言った。
「『良いハッカーになれそうだね』だっけ」
「……私の子供のころの夢、ご存知ですか」
窓のほうを見たまま、トウコは小さな声でそんなことを言った。
「知らないけど、知ってる」
トウコが彼の前でついた嘘は、あとにもさきにも『それ』だけだったから。
「ゆめ、だったんですよ。ずっと」
夢はまぼろし。夢の国はどこにもない場所。
叶わないから、夢をみる。
窓のほうを向いたまま動かないトウコに向かって、彼はため息をついた。あいかわらず妙なところで意地を張る。
「監視カメラは止めてきた。しばらくは巡回もない。もちろん盗聴器も。君が仕掛けてさえいなければ、だけど」
「……そんなこと、しませんよう」
「わかったわかった。もういいだろ」
すぐ隣に腰かけた彼は、ほほえんで、手招いた。
「おかえり、君の国へ」
許された腕のなかに小さな身体が飛びこんでくる。
トウコは彼の胸に顔を押しつけ、そしておそらくは、十数年のあいだ流せなかったものを流した。
白いシャツに染みこんでいく、あたたかなしずく。
小さな背中に手をまわし、ゆっくりと撫でてやると、押し殺していた声が漏れた。彼女は子どものようにしがみつき、ただ不器用に泣きじゃくった。
わずかに開いていた窓から、びゅう、と風が吹きこんでくる。
春疾風。
冬から春へと季節が交代するときに吹く、強い春風。春の嵐を繰りかえしながら、季節は次第にうつろっていく。
冬が終わり、春が来る。
彼は腕の中の彼女に向かって、もう一度、言った。
「おかえり」
「……ただいま」
どこからか舞い戻ってきた薄紅の花びらが、はらりと一枚、震える白い背に落ちた。
透きとおる朝のことだった。