エピローグ

八時十五分


 彼には守りたいものがたくさんある。

 ビル街を一生懸命に早足で歩く会社員、ベランダで布団をパタパタやるお母さん、ねむい目をこすりながら登校する小学生、のんきにあくびをする犬、道いっぱいに花を散らす桜並木。

 動機はわかっていても、気持ちはずっと理解できなかった。
 だから結論としては、どっちでもよかったといえばどっちでもよかったし、興味があったかなかったかと言えば、多分なかった。

 幽霊は現実にはさわれない。
 当事者にはなれない。
 テレビを見るように、ひとつ外の世界から観察するだけだ。
 存在するのに、存在しない。
 零であって、零でない。
 透きとおって、誰にも見えない私たち。
 そのくせ、彼の目はいつだって恋するように現実を見つめている。
 私と彼は、似ているようでやっぱり違うものだったのだろう。

 でも、授業が始まる少し前、ポアロの片隅で紅茶をのみながら、課題のレポートに頭を悩ませる私には、不思議と彼と同じものが見えている。

 ビル街を一生懸命に早足で歩く会社員、ベランダで布団をパタパタやるお母さん、ねむい目を―― ああもう、とにかくそんな感じのものばかりだ。めぼしいものは何もない。

 おそらくはどこにでもある、何の変哲もない朝だ。
 でも彼は、そんなものを見せるためだけに、このしみったれた幽霊を追いかけまわして、ボコボコにして、もう一度生まれなおさせたのだ。

 しずかなピアノ・ジャズが流れる空間。
 隣の席のOLが、カップをひとくちぶん傾けて、おいしい、と息を吐き出す。

 小さな誰かの、小さな吐息。
 そんな小さな何かのために、彼は今日も今日とて存在するのに存在しない安室透たんていになって、休むことなく現実を駆けずりまわっている。
 びゅうびゅうと吹きつける春疾風のように、目を輝かせて、行く先々でいそがしく冬を吹きとばしながら。

 生者と死者の仮面を持つひと。
 此岸と彼岸によって立つ者。
 だから、彼には私が見えた。彼の手は私をすり抜けなかった。
 届いたのは、彼だけ。
 彼だけが、私を見つけてくれたのだ。

 きらり、と視界の隅でオレンジ・ブラウンの水面が光る。
 つられるようにペンを置き、レポート用紙から顔を上げる。

 ありふれた朝を背景にして、男がひとり立っている。
 ウインドウの向こう側、一生懸命に箒を動かす後ろ姿。
 しばらくして彼がふと視線を上げた。
 待ちに待ったその横顔ときたら―― ああ、ここから先は、写真に撮るのももったいない、私だけの秘密。

 だから、カメラのシャッターを切る代わり、最後の一滴を飲みほして、ウインドウをノックする。
 そして、弾かれたように振りむいた彼に向かって、いつものように口をパクパクさせるのだ。

『おかわりください』

 ビル街を一生懸命に早足で歩く会社員、ベランダで布団をパタパタやるお母さん、ねむい目をこすりながら登校する小学生、のんきにあくびをする犬、道いっぱいに花を散らす桜並木―― それから、すこし慌てて鳴るドアベル。

 彼にはやらなければならないことが山ほどある。

 だから、安室透の朝は早い。


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