男の肩ごしに夜空が見えた。

 銀か白か、長めの髪が月の光を受けて輝いている。地面に縫い止められた腕の痛みも忘れて、私はただ淡い金色の瞳を見上げた。

「さて、どうする。お嬢さん」

 面白くてたまらないといった風に、白い男は口角を上げた。



第一話 寒夜夢


 さく、さく、さく。
 夜道を進むたび、踏みつけにされた雪がパンプスの下で鳴いた。夜の公園に響いているのはそれだけで、あとは枯葉の動く音さえしない。さっきまでは嫌になるほど吹き付けてきた北風もいつの間にか止んでいた。

 物を粗末に扱うとろくな目に遭わない。
 重い自転車を手で押しながら、今日もう何度目になるか分からないため息をついた。なんで急にパンクなんか。

 終電にすべりこんで、いつもの駅で下りて、さあ帰ろうとまたがった時にはすでにこの状態だった。原因は分からない。朝の通勤時に釘かなにかを踏んでしまったのか、ただ単にタイヤが寿命を迎えただけなのか。普段からろくに手入れもせずに乗り回すだけの私に、自転車がとうとう愛想を尽かしたのかもしれなかった。

 さく、さく、さく。
 真夜中の森林公園には、他には生きたものの気配がなく、私は自然と足早になった。

 夜が更けてからここを通り抜けたことはなかった。仕事で遅くなった日は時間がかかっても大通りを回りこむことにしている。今日だって、自転車が壊れさえしなければそうするつもりだったのに。
 昔から暗いところは苦手だった。

 木々の枝が覆いかぶさり、道の両側は特に闇が深かった。ありきたりに喩えるなら、人ではない何かがこちらに向かって手指を伸ばしているようだ、とも。その間を縫うようにぽつん、ぽつんと灯った街灯の光は、消えかかった蝋燭のように心もとない。

 公園のメインストリートである遊歩道は線を引けば二車線道路にできるくらい幅の広い土道だった。
 左端だけが申し訳程度にコンクリートで固められ、自転車用のレーンとして利用されている。土の道は走りにくいから普段の行き来に使うのは決まってそこだった。

 田舎町とは言えど、大きな通りはあらかた舗装されているから、土でできた道は珍しい。静けさも相まってまるで神社の参道のようだった。

 さく、さく、さく。
 昼間に往来がなかったのだろうか、まだ誰にも踏み荒らされていない雪が道の中央にだけ帯状に残っていた。月のひかりに照らされてぼんやりと光るそこを、峡谷の吊橋を渡るようにそっと辿っていく。凍った雪が滑って歩きにくいが、それでも暗いところを歩くよりはましだった。

 どこまでも続く白い絨毯がヴァージンロードのように私を奥へ奥へと導いていた。
 普段は左端ばかり走っているから、見える景色が新鮮で、海の中の線路を辿っていくとしたらこんな感じなんだろうか、ととりとめもないことを考えた。頭を動かしていると少しは気が紛れる。
 両側の暗闇には決して視線をやらずに、ひたすら前ばかりを見て進んだ。

 一度でも視線を向ければ、向こうもこちらに気付いてしまう。
 昔、だれかにそう言われたことがある。祖母の言葉だっただろうか。彼女は「向こう」が何なのかは教えてくれなかった。

 さく、さく、さく。
 中央広場に出ると、黒々とした暗闇が眼前に広がった。思わず息をひゅっと吸い込む。

 中央広場の真ん中には、途方もなく巨大な樹が佇んでいる。
 大人が数人手を繋いでも回りきれないほどの幹をもった松の古樹。昼間見慣れているはずのそれが、月の光の下ではひどく異質なものに見えた。

 無数の枝葉が緻密なシルエットとなって、夜空を覆い隠すように広がっている。その上には白い雪化粧。隙間からこぼれ落ちた月光のみが古樹の姿を浮き上がらせていて、まるで作りこまれた一枚の切り絵のようだった。

 初めてみる夜の姿は不気味で恐ろしく、どこか神秘的だった。

 いつの間にか足が止まっていたことに気付いて、再び歩き出した。広場の半分を過ぎて、木の側にさしかかろうとした時、どん、と心臓がはねた。

 視界の端―― 木の枝に何かがゆらゆらとぶら下がっていた。

 とっさに目を逸らした。見てはいけないものだと思った。深呼吸をして、心を落ち着かせる。

 昼間、誰かがタオルか何かを忘れていったんだ。そうに決まってる。
 繰り返し言い聞かせても、視線を上げることができなかった。周囲の暗闇がこちらを見つめている、そんな気がした。
 緊張に耐えきれなくなった私は、俯くのをやめてゆっくりと顔を上げた。視線の先には―― 黒々とした木があるだけだった。

「え?」

 さっきは確かに動いていたのだ、何かが。見間違いのはずがない。背筋がぞっとした。
 物はひとりでに動かない。そんな当たり前のことが今はただ恐ろしかった。全身から冷や汗が吹き出てきて、頭が真っ白になった。
 力の入らない手足を叱咤し、いっぱいいっぱいになりながら自転車にまたがった。ところが、ペダルを踏み込こもうとして、今度はそれがぴくりとも動かないことに気付いた。

 すぐ後ろに、何かがいた。

 耳元で小さな笑い声がする。
 喉の奥から声にならない悲鳴が漏れた。


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