『―― 駅です。お待たせいたしました。お降りの際はお忘れ物なさいませんようにご注意下さい』
耳慣れたアナウンスに目を覚ました。
いつの間にか寝てしまっていたようだ。
ドアが閉まる前に急いで電車から降りる。人混みに揉まれて階段を下っていく途中で、また頭痛が蘇ってきた。睡眠不足の溜まった朝にはお馴染みのそれも今日は特にひどい。
原因は今朝見た、あまり気持ちの良くない夢だった。
夜の公園でお化けに追いかけられる夢。字面だけだと絵本の話みたいだが、実際はそんなに可愛らしいものではなかった。悲鳴をあげて飛び起きて、ほとんど休んだ気がしない。
改札機にパスケースをかざすと、電子音とともにゲートが開いた。
夢は心を映す鏡だという。文明が発達して夜の闇も薄くなった今どき、お化けだなんて。私という人間は腹の底ではずいぶんとつまらないことを恐れているらしい。
群れる人々の頭上をまたぐようにして大きな歩道橋が見えてきた。あれを渡ればすぐに会社につく。今日はまだ木曜日だ。余計なことを考えずにしっかり働かなければ。
痛む頭を振って思考を切り替えた。
第二話 月の庭(前)
駅から自転車で二十分ほど、森林公園の裏の住宅街に我が家はあった。就職に際して、知人からタダ同然で借りた古い一軒家である。
鍵穴を回して戸を引き開けると、嗅ぎ慣れた古臭い匂いが鼻にすべりこんできた。
「ただいま」
帰りを告げた声は廊下の暗闇に消えていった。おかえり、という言葉には昔からあまり縁がない。おはよう、おやすみ、も同じ。それでも私は呼びかける。幼い頃からの習慣だった。
手探りでスイッチを押すと、頼りない光が玄関に灯った。
荷物を置いた後、振り返って黒いパンプスを揃えた。くたびれきった双子は黒皮を鈍く艶めかせて素直に整列し、その様子がなんとも健気に映った。
「いつもお疲れさま。今度磨いてあげるからね」
表面を一撫でして下駄箱に片づけた時、ふとあることに気が付いた。
目の前の姿見に、ずうっと奥まっていくように一本道の廊下が映っている。つきあたりには小さな和室。これ自体は普段と同じだ。
ただ今日はその戸が三分の一ほど開いていた。
今朝の状態は覚えていないが、私は基本的に戸を開けっ放しにすることがないので、おそらく閉まっていたははずだ。そもそも、引越して来た日に掃除をして以来、もう長いこと使った記憶なければ入った記憶もないのだ。閉め忘れる以前に、開けてすらいない。
狸かなにかが入りこんだのだろうか、と考えて、すぐに自分でその考えを否定した。
元から動物が鼻先で開けられるほど軽い戸ではない。使われなくなって長い敷居にはたっぷりと埃がつまって、今ごろは余計に開きにくくなっているだろうから。ましてや風や振動で勝手に開くことなど考えられない。
誰かが開けた?
留守の間に私ではない誰かがこの家に入りこんでいたとしたら。空き巣。強盗。不審者。もしくは―― 。
頭に浮かびそうになった想像を慌ててかき消した。夢と現実は違う。引きずられてどうする。
警察に通報しようかと携帯電話を取り出したが、結局そのままスーツのポケットに戻した。「帰宅したら、いつもは開いていない戸が開いていました」―― 「はあ?」が関の山だろう。
確認が先、と私はかばんを玄関に置いた。誰があの戸を開けたのか。人が開けたとして、その人物はまだ家にいるのか、すでに立ち去ったあとなのか。
得体の知れない何者かが家の中を徘徊している様を思い浮かべて、気持ちが悪くなった。こんな時、一人暮らしはつらい。頼れる者は自分しかいないのである。
覚悟を決めて、靴箱の横に立ててあった厚手の傘を手に取った。石づきが金属製なのを確認して両手で握る。万が一、何かあっても振り回せば逃げる時間ぐらいは稼げるだろう。
誰もいませんように。誰にも遭いませんように。そう祈りつつ、音をたてないように靴下を滑らせて、一歩一歩進んでいった。
部屋まであと一メートルというところで耳を澄ませてみたが、自分の鼓動と息遣い以外は何も聞こえなかったので、そうっと近づいて戸の隙間から中を覗いてみた。
室内は暗い。しかし破れた障子紙から差し込む薄明かりのおかげで、おおまかな状態は確認できた。
誰もいないみたいだ。
電気のスイッチをいじってみたが、電球が切れているらしく、明かりはつかなかった。
諦めた私はぼんやりと浮かび上がる室内に目を凝らした。
小さな和室。正面には閉じられた障子戸が並んでいる。その向こうに縁側があることは引っ越してきた日に見知っていた。右奥の床の間は飾られるものなく床板を晒している。
すべてが記憶にある姿のままだった。
やはり私の勘違いだったんだろうか。
他の部屋を回ろうと身体を動かした時、月の光が障子戸を通じて部屋の中に染みわたりはじめた。左奥が他の場所よりも明るいのに気付いて顔を向けると、障子戸がひとつだけ開いていた。
どくん、とひとつ大鐘を打った後、鼓動が早まっていく。
勘違いじゃない。
淡い光の中にぼうっと影が浮かび上がった。畳に映しだされたそれは―― 人の形をしていた。縁側に手をついて夜空を見上げている、そんな感じのシルエットに見えた。
妙な話だが、相手が生きた人間だと分かった途端、恐怖は急速に和らいでいった。
今度こそ通報しようとポケットに手をやったものの、今度もやはりそのまま手を元に戻した。
電話している間に逃げられたら?
誰がどうやって侵入したのか分からなくなるのは困る。帰宅時に鍵が閉まっていたことを考えると合鍵を作られている可能性だってあった。一人暮らしの女にとってはどちらも致命的だ。
こうなったら、なんとしてでも犯人の正体を突き止めてやる。
今更ながら勇気の湧いてきた私は、音をたてないように戸の隙間から室内に入りこんだ。得物を握り直すと、撥水加工された柄が手元でにゅるりと滑った。
作戦は至ってシンプルだ。ゆっくりと近づいて、後ろから殴って気絶させる。少々乱暴ではあるが、人の留守に上がり込むような無礼者はそれぐらいの制裁を受けても仕方がないだろう。
もちろん、失敗したら顔だけ確認してすぐに逃げる。
あとから考えれば、どうしてそうなった、と言いたくなる内容だが、とにかくこの時の私は混乱していたのだ。
並んだ障子を右手に見ながら、そっと押入れの方に近づいていく。冬用の分厚い靴下が足音を消してくれたので、忍び寄るのは思ったより難しくなかった。
月明かりの中へ足を進めると、ようやく縁側の前庭に何者かがこちらに背中を向けて立っているのが見えた。
逆光で黒い影にしか見えないが、おそらくは男だ。
一歩、二歩。大丈夫、気付かれていない。
三歩、四歩。脇を締めて、神経を集中させる。
最後の一歩。畳を抜けて、縁側に出た。
左足で木の床を蹴って庭へ飛び出す。男の後頭部に向かって、あらんかぎりの力で腕を振り下ろした。
ところが、そこで予想外のことが起こった。
影がゆっくりとこちらを向いたのだ。
ほんの一瞬の出来事なのに、その動きはスローモーションで再生されているかのように、いやにゆっくりと感じられた。
「まったく、とんだお転婆娘だな」
勢いよく振り下ろした傘を軽々と受け止めた男は、反対の手で私の腕を掴んで強い力で引き寄せた。
夜空が見える。
そう思った一瞬後、背中に強い衝撃が走った。
「何をするかと見ていれば、まさか後ろから殴りかかってくるとはな。いやあ予想外だった」
私の身体を地面に押さえつけた男は、軽い調子でそう言った。位置取りが変わったせいで、月下にくっきりと男の姿が浮かび上がる。思わず息をのんだ。
若い男だ。それは元々予想のついていたことだったが、問題は、その身にまとう色だった。
銀か白か、長めの髪が月の光を受けて輝いている。それに、真っ白な着物。よく見れば瞳は淡い金色だった。
私の真上に陣取る男は、金縛りのように私の心身の自由を奪っていた。近づくことさえ躊躇わせるような威圧感。それなのに、今にも消えてしまいそうな薄い気配。
もし私が学者のように物知りで、難しい言葉をたくさん知っていたとしても、今肌に感じているものを正しく表現することはできなかっただろう。
何もかもが常人とはかけ離れていた。
「さて、どうする?お嬢さん」
面白くてたまらないといった風に、白い男は口角を上げた。