「昨日といい今日といい、なかなか楽しませてもらった」

 男は畳に腰を下ろしてゆったりと武者あぐらをかいていた。
 一部の装飾品を除けば装束は上から下まで白一色で、脚周りには草摺と脛当だけを身に付けている。礼儀に則ったのか、はたまた単純に邪魔だっただけか、佩いていた太刀は近くの柱に立てかけてあった。

「無口だな。まだ夢だと疑ってるのか?」
「いえ、そういうわけでは」

 眉根を寄せる男に私は慌てて姿勢を正した。



第三話 月の庭(後)


 やすやすと私を捕えた後、急に男は「話をしないか」と問うてきた。問いの形をしていたもののそれはどちらかと言えば強制に近く、独特の威圧感に抑え込まれた私は、普段ならありえないことだが、つい首を縦に振ってしまった。

「ならいい。手間をかけて驚かせたのが夢だと思われてはつまらんからなあ。びっくりして気を失う体験なんぞそうそうできないぜ」

 男はそう言って嬉しそうに私の顔をのぞきこんだのだった。

 そして、部屋に上がり込んだ男は口を開くなり、私のことを知っている、と言った。昨晩あの広場で会っただろう、と。
 夢の内容を言い当てられてどきりとしたのも束の間、彼はさらに信じがたい言葉を口にした。

「驚かせたところまでは良かったんだが、気絶した君を見て正直俺も困ってな。冷える季節だし、さすがに外に放っておくわけにはいかんと思って家まで運んだんだ。結構大変だったんだぜ」
「そして昨晩からずっとこの部屋に隠れていたというわけですか」
「その通り」

 昨夜のことは夢ではない、目覚めた時に家にいたのは自分が連れてきたからだと、数十分前、男は真面目な顔で私に告げた。あまりに突拍子のない話だったので、この男はいったい何を言っているのだと正直、驚愕するよりも先に困惑してしまった。
 だが誰にも話していない夢の内容―― 男に言わせれば昨日実際に起こったこと―― を知っていたのと、鍵が閉まっていたにも関わらず家の中にいたのを考え合わせれば、頭から否定することもできずに今に至る。

「若い女の家に勝手に居座るのは気がひけたが、袖触れ合うも他生の縁、せめて一言ぐらいは声をかけていこうと思ってな」

 彼は叱られたイタズラっ子のように肩を竦めた。初対面のあの威圧的な雰囲気はとうの昔に霧散しており、今となっては目の前の青年が月下のあの男と同一人物だとはとても思えなかった

「私の家の場所、ご存知だったんですか」
「それに答えるのは難しいな。目的地が分からなくても辿り着く、そういうことは往々にしてあるもんだ」

 はぐらかしたというよりも、本当にそう思っているようだった。少年のように無邪気に笑ったかと思えば、齢を経た老人のような応えをする。この男がどういう人間なのか、いくら話しても掴めない。

「そんなことよりも君がさっき振り回していた傘、あれを見せてくれ。竹じゃなくて鉄の骨なんだろ?人が使っているのは見たことがあるが、実際触ったことはなくてな」

 ただひとつはっきりしているのは、この男が他人の警戒心を削ぐ天才だとということだった。繰りかえされる不思議な発言に、真面目に応対していることが馬鹿らしくなってくる。
 私はため息を吐いて藍色のジャンプ傘を手渡した。男はそれを嬉しそうに受け取り、感触を味わうように撥水加工された表面を撫でた。

「なあ、ここを押すとどうなる……わっ」

 私が答えるより早く、男は傘のボタンを押した。ばさっと勢いよく開いたコウモリの翼に顔を掠められて、彼は声を上げた。

「あっはっは、こりゃあ便利だな。普段から良く使うのか」
「まあ、そうですね」
「武器としても?」

 にやりとして尋ねてきた彼に、慌てて首を横に振る。男は再び、あっはっは、と笑った。

「得物としては不十分だわな。道具にはそれぞれ正しい使い道がある」

 俺を叩きのめそうとした度胸と発想は評価するが、と言う男。
 彼の言動はちぐはぐで常識を逸していた。だが何か妙に惹きつけられるものがあり、それが私から正常な判断力を奪っているように思えた。おかげで深夜に見知らぬ男を家に上げて語り合う異常性を理解していながらも、騒ぎ立てたり警察に通報したりといった現実的な行動をとる気になれないでいる。

「これからどうするつもりなんですか」
「ふむ、そうだな」

 それまで軽快に返答を続けてきた男はここにきて答えにくそうに口を閉ざした。傘を熱心にいじっていた手も止まっている。
 また変な返事が返ってくるのだろう、と密かに期待していた私は、予想外の反応に、自ら尋ねておきながら返す言葉に困ってしまった。二人揃って押し黙る。

 冬の風がざざあと庭の木を揺らしていった。廊下では掛時計がメトロノームのように時を刻んでいた。手首の時計を確認すると、もう二時近い時刻だった。
 とうとう待ちきれなくなって、私は声をかけた。

「この部屋だったら今晩は居てくれても構わないですよ。もう遅いですし」

 自分でもとんでもないことを言っていると思ったが、私の方もそろそろ限界だった。緊張が解けた身体には一週間の疲れと眠気がこれでもかとのしかかってきていた。続きは明日考えよう。
 私の言葉に男は目を丸くしていた。驚いた驚いたと言いながら余裕たっぷりだった男の、初めてのびっくり顔だった。

「おいおい、一人住まいの若い女が会ったばかりの男を泊まらせるなんて正気の沙汰じゃないぜ」
「昨日からすでに居たんでしょう。それなら同じじゃないですか」
「無断で上がり込むのと許可を得て滞在するのは違う。女だろう?もうちょっと慎みをもってくれ」

 どうして不法侵入の張本人にそんなことを言われなければならないのか。本当に妙な男である。

「分かりました。それじゃあ私は二階の部屋で鍵をかけて寝ます」

 本人の言う通り、見知らぬ男を家に泊まらせるなんて普通ならありえない。だが今さらこの寒空の下に追い出すのは気が引けたし、そもそもそれだけの体力はもう残っていなかった。
 それに―― 彼なら大丈夫だろうという根拠のない確信があった。

「毛布かお布団、取ってきますね」

 今にも眠気に負けそうになっていた私は返事を待たずに部屋を出た。隣の押入れから来客用の寝具を引っ張りだして戻ってくる。

「これ、適当に使ってください」

 半ば強引に押し付けると、招かれざる客は「すまん、助かる」と申し訳なさそうな様子で礼を言った。
 再び壁にもたれた男に、脳裏に浮かんだ言葉をふと投げかけてみた。

「おやすみなさい」

 男の目がわずかに見開かれ、それからふっと細められる。一呼吸おいて、ゆっくりと応えが返ってきた。

「おやすみ」

 穏やかな声がそうっと私の心を撫ぜる。
 繰り返されてきた一方通行は今宵、破られた。


error: