第四話 みなしごたち(前)
シャワーの栓をひねって風呂場から出た。漏れ出した湯気と朝の空気が出会って、ガラス戸を白く曇らせた。
身体が軽い。たまっていた疲れが熱い湯と一緒に流れ出したようだった。
手早く身支度を整えて廊下に出ると、刺すような冷気が火照った肌に心地よかった。冬の朝風呂は特別に贅沢な感じがする。
少しだけ迷った後、ゆっくりと戸を開けた。
「おはようございます」
「おはよう」
男は昨日と同じ場所に、まったく同じ様子で座っていた。
「よく眠れたか」
ええ、と部屋には入らず、戸口に立ったまま返事をした。
毛布と布団は昨日運んだそのまま場所にある。使われた形跡はなかった。
「寝なかったんですか」
「必ずしもそうしなければならないわけじゃないのさ」
半分ほど開いた障子戸から朝の光が差し込み、男の銀色の髪をより一層明るく輝かせていた。陽の下で見れば、特異な容姿にも昨日ほどは浮世離れをした印象を感じない。
地毛、なのかな。
じっくり眺めていたい気持ちを抑えて本題を切り出した。
「私はこれから仕事に行きますから」
「精が出るなあ」
いってらっしゃい。当たり前のようにそう言われ、伝えようとしていた言葉が喉にひっこんだ。
「……いってきます」
ひらひらと片手を振る彼を後にして私は部屋を出た。
戸は、閉めないでおいた。
呼んでおいたタクシーで駅に向かう。
仕事の進み具合から言って、自転車の修理に行けるのは早くても土曜日だ。財布が軽くなるのを覚悟で、今日と明日はこうやって通勤するしかない。
窓の外をぼんやりと眺めていると、昨夜、考えることを放棄した諸々が一気に押し寄せてきた。
結局、「出て行って」も「さよなら」も言えずに出てきてしまった。これからどうしたらいいんだろう。
少しは寝たにも関わらず、やはり頭も理性もまともに仕事をしなかった。とりとめのない夢想が頭の中を巡った。自分で作り出したこの状況を、自分でもどうしていいのか分からない。
「必要ですか」
突然、タクシーの運転手に声をかけられてどきりとした。
「領収書」
外を見るといつの間にか車は駅舎前のロータリーに停止していた。頷いてお札を渡すと、小銭がたくさん戻ってきて、荷物がさらに重くなった気がした。
ぽろり、と黒い昆布が机に落ちた。ペン立ての隣からティッシュペーパーを引き出して慌てて拭き取る。
書類につかなくて良かった、と胸を撫で下ろした私は開きっぱなしだったファイルをノートパソコンの上に重ねて乗せた。
昼休みのオフィスに人影はない。昼食を取っているのは私ひとりだ。
いつもなら同じ課の同期と一緒に食べるのだが、彼女は珍しく出張に行っていた。見かねた他のグループの人たちが外食に誘ってくれたが、書類に目を通したいという本音半分建前半分の理由で、辞退することにした。
考えることが多すぎて、誰かと話せる状態じゃない。
コンビニのおにぎりを齧りながら、頭に渦巻く思いを整理していくと、最終的に複雑に絡み合いながらも結局はただひとつのことに考えているにすぎないということが結論に至った。毛糸玉をほどくようなものだ。
エレベーターの停まる音がして、オフィスの自動ドアが開いた。隣の課の同期が顔を覗かせる。
「あれ?一人?」
「あの子、今日は出張だから」
「へえ、それは残念。金曜日だし、仕事終わったら同期で飲みに行こうって言ってるんだけどさ、お前どうする?」
今日は早く帰りたいから、と言いかけて、首を振った。
「残業するから遅くなるかもしれないけど、それでも良かったら行く」
「分かった、予約しとく」
幹事役の彼は、携帯を開いて私の名前を打ち込むとそのまま部屋を出て行った。オフィス内には再び私一人が残された。
早く帰ったところでどうにもならない。再びあの男と顔を合わせたとして、なんと言えばいいのだろう。まだいたの?晩御飯は食べましたか?
ずいぶんと勝手なことを考えているな、と思った。自分の都合しか考えていない。
いくら探しても糸口は見つからない。
それならもうどっちでもいいや、と私は判断を放棄した。ついでにおにぎりの包みもゴミ箱に放りこむ。
彼が居たいと思うなら居ればいいし、帰りたいと思ったなら勝手に帰ればいい。
何もかも、必ずしも必要ではない。
男はやはり朝と同じ姿勢で、同じところに座っていた。
障子戸を開けて雑草だらけの庭を眺めていた彼は、私に気付いてさらりと言った。
「おかえり」
「……ただいま」
「今日もずいぶんと遅かったな。よく働く」
「いえ」
酒気を帯びた息が急に恥ずかしくなって私は下を向いた。
月の光が昨夜と同じように古畳を照らしている。室内の電球は相変わらず切れたままだったが、それほど暗くは感じなかった。
「どんな勤めをしているんだ」
「小さなメーカーの人事課で。子供向けの文具なんかを作っているところなんですけど」
「面白そうだな。もう長いのか」
「二年目です。大学を卒業してそのまま就職しましたから」
「へえ。学があるんだな」
他の人が口にすれば厭味に聞こえるような言葉も、そういう風には聞こえなかった。不思議な魅力の持ち主だった。
彼の斜め前、少し離れたところに腰を下ろした。
「勤めは楽しいか」
「楽しい、と言われると少し違う気も……生活のために仕方なくやっている感じです」
茶化すように笑ってみせると、彼は「いつの時代も変わらないものだなあ」と言って笑った。
しばらく経って、ぶうん、と鞄の中で携帯電話が振動した。昼も夜もない、通販のダイレクトメールだった。
画面を消して視線を上げると、男が物欲しげな顔で私を見つめていた。思わず身をひきそうになったが、視線の先を良く観察するとなるほど得心がいった。
彼が熱っぽく見つめていたのは私のひざの上だった。ただしくはそこに乗った携帯電話。
「なあ、ちょっと頼みがあるんだが」
おずおずと切り出した男は、すぐにでも掴みとりたい衝動に耐えているといった風情で、手指をそわそわさせていた。
名前、電話番号、メールアドレス。守るべきさまざまなものが頭をよぎったが、すぐにどうでも良くなった。今さら何を隠すというのだ。
ぽん、と宙に舞った携帯電話を男の手のひらがなんなく受け止めた。
液晶の光に照らされて闇の中に浮き上がった男の顔は、少年のように生き生きとしていた。白くて長い指が、愛しげにそうっと画面を撫でる。
「綺麗なもんだなあ。話には聞いていたが、実物を触ったことはなくてな。なるほど、こんなものだったのか」
せっかくだからもっと驚かせてやろう、そう思った私は腕を伸ばしてボタンを触った。けたたましい音楽が部屋中に鳴り響いて、男がぱっと手を引っ込めた。ワンフレーズを奏でた後、携帯電話は再び静かになった。
「……こいつあ、驚きだぜ」
目を白黒させながらもそう言ってみせた彼に、私は吹き出してしまった。修学旅行の夜みたいだ。
「気に入ってもらえたようで良かったです」
「意気やよし。俺は驚きがないと退屈で死ぬんだ」
「普通の生活って、そんなに刺激がないですかねえ」
「俺たちと君たちでは流れる時間もその感じ方も、根本的に違うのさ」
画面から目を離した彼は、ふっと外を視線をやった。長らく手を入れていない庭は枯れた雑草に覆われて、物寂しい姿を晒していた。
「人とともに在らなければ、物は朽ちてしまう。体ではなく、魂が」
彼は庭を見つめながら言った言葉が、私にはとても良く理解できた。それはきっと物に限ったことではない。
「明日、庭の手入れをします」
「ああ、そうしてやってくれ」
男は安心したような声を出したが、表情は寂しそうなままだった。
私と彼はその後もぽつぽつと会話をして、黙り込んで、笑って、を繰り返した。もしかすると黙っている時間が一番長かったかもしれない。しかし決して退屈ではなかった。
気が付くと、空が白み始めていた。
「じゃあ、そろそろ寝ます」
「ああ」
「……おやすみなさい」
「おやすみ」
慣れない感覚が相変わらずくすぐったいが、やはり悪くはなかった。