第五話 みなしごたち(中)
戸を開けると、男と目があった。
「おはよう」
「おはようございます」
「といってももう昼過ぎだが」
呆れ顔の彼は縁側の方を顎でしゃくった。すでに太陽は中天を過ぎ、わずかに傾き始めていた。
「寝穢くてすみません」
申し訳程度に頭を下げると、彼は軽く笑って、許す、と言った。
障子戸と縁側のガラス戸を開け放って庭に降りた途端、北風がびゅうと吹きつけてきたが、日差しのおかげでそれほど冷たくは感じなかった。
「おい、閉めてくれ」
振り返ると、眉間に皺が寄せた男が白い着物にくるまるように身を縮めていた。
「そんなに着膨れているのに、何を言ってるんですか」
「俺は寒いのが苦手なんだ。温度の変化は体に堪える」
「一昨日は雪の中を元気そうに動いていたのに」
「顔合わせの印象は大切だからなあ……まあ、要するに頑張っていたんだ」
彼は側にあった刀を抱き寄せて、長い袖で労わるように覆った。
「ああ、こんなに冷えちまって。鋼は寒さに弱いんだぜ」
その様子があまりにも哀れっぽかったので、私は仕方なくガラス戸を閉めた。ウインドブレーカーのポケットから庭掃除のために用意した軍手とゴミ袋を取り出して、地べたにしゃがみこんだ。
「手入れをしたら、何を植えるんだ?」
ガラス越しのくぐもった声が聞こえた。振り返ると、寒そうに懐手をした男がいつのまにか縁側であぐらをかいている。
「まだ考え中です。とりあえず綺麗にだけはしておこうと思って」
ふうん、という返事を聞き流して、私は再び作業に戻った。
雑草を抜いてはゴミ袋に放りこむ。枯草を拾ってはゴミ袋に放りこむ。
黙々と作業をつづける間じゅう、背中に注がれつづける視線。落ち着かなくなった私は再び振り向いた。
「手伝ってくれてもいいんですよ」
「嫌だ。寒いし、汚れる」
男は当然といった顔で即答した。
「何日も着替えていない癖に何を今さら……」
「俺の出で立ちに文句でもあるのか。ほうら、美しいだろう」
見せつけるように袖をひらひらと振る。ガラスの向こうの白装束は確かに染みひとつなく輝いている。が、そういう問題ではない。
「はいはい。そうですね」
「分かればいいんだ」
夕焼け空が見える頃には、小さな庭は綺麗な更地に戻っていた。これはこれで寂しい気もするが、見るも無残だった以前に比べれば断然いい。道具を片づけて振り返ると男はやはり縁側からこちらを眺めていた。
後片付けが終わると、男は座ったまま手を伸ばしてガラス戸を開けてくれた。
「ご苦労だったな」
「有言実行の女ですから」
冗談交じりに答えると、彼は「そりゃあいい」と片手を上げた。
「そういえば、何も食べていないですね」
「起きてくるのが遅かったからな。朝餉も昼餉もとうに過ぎていた。この寝坊女め」
男が手を差し出してきたので、少しの逡巡の後、私は大きな手を掴み返した。冷えきった私のそれよりもほんの少しだけあたたかい手のひら。
縁側に足をかけると、身体はたやすく引き上げられた。
「晩御飯、何がいいですか」
「そうだなあ、退屈しないものがいい」
食事にまで驚きを求めるのか、と苦笑しながら、一生懸命夕食のメニューを思い浮かべた。
夜が過ぎて、日曜日の朝になった。
「おはよう」
「おはようございます」
「今日は寝坊しなかったな。早くもないが」
「早く寝れば、私だってちゃんと起きられます」
「さてさて、どうかな」
いつものにやにや顔を向けてくる。眉間に皺を寄せて見せると、彼は笑いながら謝った。良く笑う男だ。
「今から自転車の修理に行ってきます。休みのうちにやっておかないと週明けが大変ですから。それから、そのついでに買い物も」
彼は少し考えてから、そうか、と微笑んだ。そしてすっかり慣れた『いってらっしゃい』。
「いってきます」
そう言って、隙間のないようにそうっと戸を閉めた。
「こりゃあ踏んじまったね。ざっくり大穴が開いてるよ」
作業着を着た自転車屋がタイヤを触りながら白い息を吐いた。
「時間、かかりそうですか」
「パンク修理だけならそうでもないよ。ただタイヤもそうだけど他にもいろいろなパーツが古くなってるから、ついでに取り替えといた方がいいだろうなあ。どうします?」
自転車屋は患者を診る医者のように、あちこちを叩いたり引っ張ったりして、その結果をメモに書き取っている。
唯一で最速の通勤手段だ。迷う余地はない。
「そいじゃあ、ちょっと時間をもらうよ。今日は他にもお客さんが多くってね。そうだな、昼過ぎにはできあがってるかな」
おい、と呼びかけられて、奥から頼りなさそうな青年が走り寄ってきた。見かけない顔だが新人だろうか。
彼はこちらに会釈した後、よいしょと両腕で自転車を抱え上げた。腕まくりされた袖から隆起した筋肉がのぞいている。
そういえば彼はどうやって運んだんだろう。
大人の男と言っても、気絶した人間とパンクした自転車を同時に移動させるのは難しいはずだ。わざわざ取りに戻ってくれたのかもしれない。
その後、自転車屋から預り書を受け取った私は、しばらく悩んだ後、駅に向かうことにした。