第六話 みなしごたち(後)
週末のショッピングモールはごったがえしていた。
押し合い圧し合いしながら人ごみの中を歩いていく。カップル、子供連れ、学生と思しきグループ。冬のセールにはまだ早いが、通路も店舗内も人でいっぱいだった。このあたりで若者がまともに身の回りのものを揃えようとすれば、この複合施設に来るほかない。
急行にのって約三十分。田舎の買い物事情は厳しかった。
何度かエスカレーターを乗り継いで、ようやく目当てのフロアにたどり着いた。すぐそばの店に入りめぼしいものを何着か手にとったが、いざカゴに入れようとすると、手が止まってしまう。
広い店内には雰囲気に合ったゆったりとしたテンポのBGMが流れている。女一人で買い物をしている客は私だけだった。
「お客様、何かお探しですか」
服を持ったまま動かない私を見咎めて、若い店員が近づいてきた。人の好さそうな笑みを浮かべたまま、私の表情と手の中の服に隙なく視線をやっている。
「冬物が全然なくて。シャツとパンツ、あとジャケット」
買い物はこうやって元気のある休日にまとめてするのが常である。今の仕事は忙しい時は本当に忙しい。気が付けば季節が変わって着るものがない、という事態はすでに何度か直面している。
店員はまとめ買いの上客を引き当てたと知って目を細めた。
「ジャケットでしたら、こちらなどは再入荷したばかりの人気商品ですよ。ええと、お色とサイズは……」
目分量で図ったサイズを伝えると、店員は「少々お待ちください」と言って向こうの棚へ歩いていった。
二拍子の音楽に合わせるように、心が右へ左へ揺れていた。
感情と行動が噛み合わない。どうしてこんなことをしているのか、自分でもよくわからなかった。ただひとつはっきりわかるのは、幼い頃より求めてやまなかった何かを、あの不思議な男が与えてくれたということだった。
「おやすみ」という一言が耳から離れない。
それらしいものを一揃い抱えて再び店員が戻ってきた。
長居をしている暇はない。昼過ぎには自転車の修理が終わるから、それまでには戻らなくては。
残りは店員に任せるつもりでとりあえず簡単なイメージだけを告げ、私はまた思索に戻った。
スイッチを押して、薄暗い玄関に明かりを灯す。すでに夕方だった。
急いで戻ってくるつもりだったのに、すっかり遅くなってしまった。
帰ってきた時、玄関の鍵は閉まっていた。そのことにどこか安堵している自分がいて、ますます落ち着かない気持ちになる。
急ぎ足で廊下を渡り、和室の戸をそうっと開けると、そこには朝と変わらない姿があった。
「おかえり」
「ただいま」
縁側のガラスを通して、室内には夕日の帯が広がり、白い男を夕暮れ色に染め上げている。
両手いっぱいの買い物袋をどさんと畳におろすと、男は興味深げに視線をくれた。
「大荷物じゃないか。なんだなんだ?」
「服を買いました。いっぱい。こんなに散財したのは久しぶりです」
「やれやれ、女の買い物ってのはいつの時代も大変だな。昔に比べれば布の量はずいぶん少なくなったようだが」
ちらりと私を見たあとに、彼はいつもの仕草で肩を竦めた。爺くさいことを言っているわりには仕草が子供じみていて、なんともいえない茶目っ気がある。
「留守中、何もありませんでしたか」
「特に何も。ここは平和な場所だからな」
彼は瞳を細めてじっと私を見つめた後、―― さて、と言った。世間話でも始めるような、あっさりとした軽さだった。
「頃合いだな。そろそろ暇を乞うとしようか」
予想の範疇内の言葉だった。だが、今ここで聞くことになるとは思っていなかった言葉だった。
呆気に取られる私の前で、男は全身を朱色に染めあげながら静かに立ち上がった。白装束の裾が炎のように揺らめく。
どうして。
できることなら目も耳もふさいでしまいたかった。だが、続く言葉がそれを許さなかった。
「久しぶりに愉快だった。礼を言う」
顔を上げると、ぴんと視線が通じた。
こちらを見つめる彼の目は常とは違う色をしていた。金と朱とそれからいろいろなものが混ざり合った瞳。それはやはりあの時の瞳だった。枯れた庭を見下ろしていた時の瞳。届かない何かに焦がれ、流す涙さえ枯れきったようなそれ。
迷うこと自体がおかしいと分かってはいても、ずっと迷っていた。
でも、そんな顔をされたら、もう黙っていられないよ。
買い物をしながら、自転車をこぎながら、考え続けてきたことがぽろりと唇から溢れた。
「本当は行くところ、ないんでしょう」
刀を腰に提げようとしていた男が動きをとめた。
会った日の晩に分かっていたことだった。これからどうするの、と聞いて彼が口ごもった時、まるで昔の自分を見たように思ったのだ。彼は私と同じ、行くところも帰るところもない子供。
「部屋が余ってるから―― それだけ。帰りたくなったらいつでも帰ってくれていいですから」
おいおい本気か、といういつもの軽い返事は返ってこなかった。男は一瞬、目を見開いた後、瞳を伏せた。
「君が考えるほど簡単なものじゃない」
疲れの滲んだ、いっそ痛ましい表情だった。
夕方の空気がひやりと喉元を撫でて、息がつまったようになった。何を言えばいいのかわからない。言葉が出てこない。
「でも―― 」
「言っただろ。所詮は袖が触れ合っただけ。面白そうだから、ちょっと顔でも見てやろうと思っただけさ。そこにある綺麗な衣なんか、ちょうどいいじゃないか。ひらひら纏って遊び回るうちに、すぐにどうでも良くなるだろうよ」
畳に置かれた買い物袋に目をやって、それこそ投げやりに言い放った彼の前に、自分が途方もなく無様に思えた。悲しさと恥ずかしさが入り混じって俯きそうになる。たった数日過ごしただけの相手にこんな言葉を吐くことがどれほどおかしなことか、そんなこと自分が一番良く分かっている。
でも、もう止められなかった。
「今更……今更なに勝手なこと言ってるんですか」
理性も常識も、重たい衣服を片端から脱ぎ捨てて、私は八つ当たりのように叩きつけた。
「あの袋の中の服、いつ私のものだって言いました?あれ全部、あなたのですからね。何日も着替えてない人が哀れになってわざわざ買ってきてやったんですよ。責任とってください」
返事を待たずに畳みかけるように言った。彼がさっき私にやった通りに。
「自分がありえないことしてることぐらい分かってます。人を驚かして気絶させたあげく勝手に家まで上がり込んできた見知らぬ変人を引き止めるなんて」
帰りたくないのか、帰るところがないのか、本当のところは分からない。どんな事情を持っているかも知らない。私は彼のことを何にも知らない。ただ彼は間違いなく寂しがっていた。私との別れなどという小さなものではなく、もっと根本的な何かに対して。
―― おかえり。
その一言に何か報えるものがあれば。
だが思いも虚しく、彼は首を横に振った。
「人間ならば知性に従え。それが一番賢い生き方だ」
諭すように言う彼に、手を握りしめた。
ずるい。ずるい。出て行きたいのなら、どうしてそんな言い方をする。どうしてそんな顔を見せる。
もう我慢の限界だった。背を向けようとした彼の腕を思いきり掴み、力いっぱい引っ張った。
「人の気も知らないで、知った風な口をきかないでください。人間だからこうするんです!身勝手なあなたに身勝手なことを押し付けて何が悪いんですか!」
叫んだ私の見下ろして、男は出会って以来、二度目のびっくり顔をした。
私も彼も動かない。
しばらく立ち尽くしていた男は幾度か瞬きをした後、一度だけ瞳を伏せて、それからすべての息を吐き出すように言った。
「ああ、驚いた。君はそんな風に怒るんだな」
それから可笑しそうに笑いだした。
「身勝手な俺に身勝手なことを押し付けて何が悪い、ねえ……」
くっくっくと喉を鳴らしていたのが、次第に大きくなって腹から響く笑い声になった。
「確かにそうだ。言い返しようもないな、これは!あっはっは、面白い!」
笑われることを言ったつもりはなかったのに、いつまでも笑いつづける彼に、私は振り上げた拳の降ろしどころがわからなくなり、ぽかんと呆気に取られてしまった。
「わ、笑う場面じゃ……」
「あはは、笑う意外にどうしろって言うんだ!あっはは、ぶ……ぶふっ、ごほっ、ごふ」
笑いすぎて最後には咳き込み始めたので、思わず慌てて背中を擦る。
「だ、大丈夫ですか?」
「大丈夫じゃなっ、いっ」
そんな彼を見ているうちに、次第にこちらまでなんだか妙な気分になってきてしまった。
何をやっているんだ私は、とか。あの一世一代のシリアスな雰囲気はどこへ、とか。いつになく声を張り上げてしまった恥ずかしさ、笑われている滑稽さ、そんなものまで一緒くたになったよくわからない衝動が腹の底からこみあげてくる。
そしてとうとう思わず―― くすりとやってしまった。
すると彼は、そんな私を見てまた噴き出した。
「笑わないでください……!」
「自分だって笑ってるじゃないか」
そうなるともう、自分が笑っていることも、相手が笑っていることも何もかもがおかしかった。おかしいと思うともっとおかしい。箸が転がっても面白いというのはきっとこういう状態を言うに違いない。
笑いすぎて涙が出るまで、私たちは隣に並んで笑いつづけた。
ティッシュペーパーで目元を拭いながら、そういえば、と彼の顔を見上げた。
「まだあなたの名前を聞いていませんでした」
彼は虚をつかれた様子でこちらを見、ぶ、とまた噴き出した。
「名前も知らない相手を居候させようと思っていたのか。驚くというかなんというか……呆れた奴」
「それを言うなら、名乗りもせずに居候しようとしていたあなたもね」
違いない、と白い男はまた笑った。
それが心の底からの笑顔に見えたのは、私の欲目か、それとも部屋を染める穏やかな夕日のおかげか。