闇の中、身体のすぐ側から音が聞こえる。

 いや、音というほどはっきりしたものではない。じりじり、ちりちり。音になる一歩手前の揺らぎ、そんな感じだった。

 何かがそこにあることは分かる。しかし見えるのは暗闇だけだった。光という光が失われた完全な黒の世界。闇の中にいるのではなく、目が潰れてしまっただけかもしれない。

 揺らぎがまた少し大きくなった。

 ちりちりと空気の縮れるような音だ。とても不快な音だと思った。聞きたくない。
 耳を覆っても手のひらから染み通ってくる空気の嘆きに、しゃがみこんで、ひたすら耐えた。



第七話 休日(前)


 じりりりり、と黒電話調の音をたてて目覚ましが鳴った。

 右手でうるさい塊を持ち上げて確認すると、時刻は九時半。壁のカレンダーに目をやって今日が土曜日であることを確認する。時計をとめて、五分後に設定してあった携帯の予備アラームもオフにした。目覚ましの二重がけは習慣だ。

 枕元に用意してあった服に着替える途中で、窓の桟に埃がぎっしり詰まっているのに気付いた。天井の隅にもよく見ると小さな蜘蛛の巣が張られている。ほとんど物置だった部屋を寝室として使い始めたのはごく最近のことで、フローリングに直接に布団をひいただけの簡素な寝室にはまったく掃除が行き届いていない。

 今日こそ掃除をして、必要なものを買いにいこう。マットレスがないと背中が辛くてたまらない。

 二階の間取りは洋室と和室がそれぞれ一部屋ずつという形になっていて、私はもう一週間ほどそのうちの洋室で寝起きしていた。洋室を選んだのは鍵がかかるという理由だったが、今となっては必要があるのかどうか分からない。
 彼は決して二階には上がってこないから。

 布団から起き上がって大きく伸びをした後、身支度を整えて階段を下りた。
 リビングのドアを開けると、テレビの音が流れ出し、ニュースキャスターのお姉さんと目が合った。

「おはようございます」
「おはよう。相変わらず遅いお目覚めだな」

 お姉さんの代わりに返事をしたのは鶴丸さんだった。足を組んでソファに深く腰掛けている。

「社会人の休日なんてこんなものです。鶴丸さんが早起きすぎるんですよ」
「何言ってるんだ。寝ているだけなんて退屈だろう?」

 鶴丸さんは呆れたといわんばかりの表情で私を見上げた。白いシャツと細身のスラックスというシンプルな出で立ちだったが、うんざりするほど似合っていて、見た目の印象だけで言えば文句なしの好青年だった。
 ”見た目の印象だけで言えば”、というのは口を開けば色々と思うところがあるからである。

「家主殿、起きて早々すまないが、そろそろ腹が減った」
「はいはい、遅くなってすみません。急いで用意いたします」

 

◇◇◇

 湯気の立つ味噌汁をすすり、白米を箸で掬った。
 こうして休日の朝にまともな食事を摂るようになったのは鶴丸さんと暮らすようになってからだ。一人でいる時はついつい簡単に済ませてしまっていた。
 鶴丸さんはテーブルの向かいに座って行儀よくお浸しを摘んでいた。彼は箸の扱いがとてもうまい。

「毎度のことだが、飯が食えるというのはいいもんだな」

 ほうれん草を飲み下した彼は、しみじみとそう言った。

「お代わりが必要だったら言ってください。お味噌汁とご飯ならまだありますから」

「ふむ、好意に甘えようか」

 お椀を差し出す彼の後ろでは、ポップな音楽とともに、テレビが週末の気象情報を伝えていた。

「今日は一日晴れるみたいですね」
「だが、昨日より少し冷え込むな」

 テレビに目をやった鶴丸さんは、ニュースキャスターが指し示すパネルをあっさりと読み取り、ふむ、と頷いた。
 成長が早すぎる、と思う。来週ぐらいには私よりもお天気事情に詳しくなっているのではないか。
 というのも、そもそもがとんでもない話なのだが、一週間前の鶴丸さんは天気予報が全く理解できなかった。いや、理解できなかったというよりも、お天気マークと算用数字、それから大半の気象用語を知らなかったと言う方が正確かもしれない。『寒冷前線が……』という言葉に『また戦か』と真面目な顔で返した時には、思わず箸を取り落としたものである。
 出会いの顛末からして訳有りであろうことはわかっていても、まさかこういうベクトルの問題が発生するとは一体誰が予想できただろう。

 だがその後、電気、テレビ、コンロ、水道の使い方、挙句の果てには洋服の着方すらも覚束ないことが次々と判明し、天気予報のことなどは氷山の一角に過ぎないということを思い知ったのだった。
 分からないことが見つかる度に一から丁寧に説明するよう努めたが、慣れ親しんだ身近なものを解説するという作業は想像以上に難しかった。『どういう仕組だ』と訊かれても、わからないものの方が多いのだから。さらにそこにカタカナ語を封印するという条件がつけば(鶴丸さんはカタカナ語も少々苦手なのである)、難易度は極端に跳ね上がり、先週は睡眠不足でふらふらになりながら会社に向かう毎日を送った。

 鶴丸さんは外見も言葉も知識もすべてがちぐはぐな人物だった。
 見た目はまるきり外国人でも、妙に日本人くさい言動をする。今までどこでどうやって生きてきたのか。気にならならないはずはないのだが、訊き始めれば終わりがないように思えて、結局そのまま受け入れている。

 天気予報を一通り確認した鶴丸さんはリモコンをいじってチャンネルを替え、「冬の温泉特集」のところで変局を止めた。ほう、と感心したような声をあげて、画面に見入っている。

 たった一週間でここまで生活に馴染むことができたのは、私の指導が良かったというわけではもちろんなく、ひとえに本人の並外れた好奇心による。私が会社に行っている間、ひたすらテレビから知識を吸収しているという話を聞いて、勉強熱心な人で助かったと胸を撫で下ろしたものである。

「今日は昨日言ってあった通り、買い物に行こうと思います。服、絶対に買わないと」

 こちらを向いた拍子に、シャツの襟ぐりがずれ、白い鎖骨が顕になった。あ、と声を出しそうになった口を慌てて押さえる。目の毒、目の毒。

 先週買ってきた彼の服はほとんどサイズが合わなかった。目算で買ったのだから当然である。なんとか着られているのはこの上下だけで、今のところまともな着替えがひとつもないのだ。
 ところが、当の本人は、

「次々に装束を変える習慣はないんだがなあ」

 と味噌汁をすすりながらのん気な様子。行きますよ、とせっつくと銀髪頭はようやく頷いた。

「まあこれもまたひとつの楽しみとしよう。退屈しないんだったらなんだっていいさ」


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