大掃除というものは往々にして誘惑が多い。
 ファッション誌誌をぺらぺらと捲っていた私は、はっと手をとめた。

 ―― ダメだ、さっきから全く進んでいない。

 小さな頃から引越を繰り返してきた私は、同年代の女性に比べれば物持ちではない、と思う。
 整理の対象になるのは主に、最近手に入れたものの、使いはせず、かと言って捨てるのもどうかと思う物である。サイズは合うけれど流行遅れになった服、大学の時の論文、お土産にもらったあまりセンスの良くない置物、などなど。
 懐かしくなってうっかり眺めてしまったが、なんとしても今日中に終わらせなければ。

「これはゴミ……いや、うーん、やっぱりゴミ」

 ダイエット特集が気になって衝動買いした雑誌をえいやと古紙の山に分類して、再び整理にとりかかった。



第九話 煤払い


「よし、あとは隣の和室だけ」

 朝からせっせと励んだおかげで、寝室にしている洋室はすっかり綺麗になっていた。昨日買ったマットレスもじきに届くだろうし、これでひとまずは快適な睡眠環境が確保できる。
 ということで我が家で長らく手が入っていないのは、隣の和室だけになった。

 隣室に移動し、押入れの戸を軋ませながら開けると、年月を経た漆喰壁には茶色いシミが広がっていた。
 押入れの中にはみかん箱がひとつ。

 この貸家に引っ越してきたのは二年前のことである。就職先が決まって、どこに住もうか迷っていた時にたまたま紹介された物件だった。

『やっぱりあの人のお孫さんなのか。道理で面影があると思ったよ』

 都心の一角にこじんまりと店を構える不動産屋にて、赤ら顔の老人は納得したように頷いた。顔と名前を見て、知人の孫だと気付いたらしい。彼は私が、他界した祖母の若い頃にそっくりだと言った。

『実は昔、君に会ったことがあるんだよ。僕がおばあさんのお宅にお邪魔した時にさ。君がうんと小さい頃のことだ』

 素直に頷く私に、不動産屋は懐かしそうな顔で苦笑した。もう十数年は前のことである。さすがに記憶はない。

『そうだ、ちょうどいい物件があってね。君とおばあさんが暮らしていた町に貸家が一軒空いてるんだ。お孫さんなら安くしとくよ。君のおばあさんにはとてもお世話になったから』

 暮らしていた、とは言うものの、祖母の元にいたのはほんの数か月の間だけである。祖母なき今、町自体に大した思い入れはなかったのだが、破格の家賃と一人住まいにしては広い空間、職場まで電車一本で行けるアクセスの良さから入居を決めた。

 だがいざ移り住んでみれば、会社の新人研修などで時間を取られ、整理は進まず。とりあえずの生活スペースだけでも確保しようと、頻繁に使う荷物だけ取り出して、残りはこの二階の部屋に詰め込んでおいたのだった。

 そのままあっという間に二年。
 元々一人暮らしには広すぎる家である。せいぜい「散らかった部屋があるのは気持ち悪いなあ」と思う程度で、二階が使えなくても特に問題はなかったのだ。
 彼がやって来るまでは。

 押入れのダンボール箱を畳におろそうとして、それが見た目よりもずいぶんと軽いことに気付いた。厳重に封がされたダンボール箱はみかんのマークが大きく入っている他は何の表書きもなく、また中身の心当たりもない。
 劣化してねばつく布テープをはがして箱を開けると、ふわりと懐かしいにおいが鼻をくすぐった。

 そうか、ここにあったのか、と私はひとり手を打った。
 箱の中にあったのは古いアルバムと小さな巾着だった。巾着を取り出して、慎重に埃を払う。逆さにすると、予想通りのものが手の上に転がり落ちてきた。

 それは、桜色の布で作られた古いお守りだった。

 私がまだこの町にいた時分に祖母がくれたものだ。いつ、どのようにもらったのかは今となっては思い出せないが、とても大切なものであるのには違いなく、失くす前までは肌身離さず身に付けていた。

 引越の時に間違えて捨ててしまったと思っていたのに。
 ぼろぼろになったそれを、指先で撫でていると、祖母と過ごした日々が少しずつ蘇ってきた。

「なんで忘れてたんだろう」

 お守りの存在も、祖母との記憶も。
 六歳の時、私は確かに彼女とこの街で暮らしていたのだ。

 幼さの故か、記憶の輪郭は曖昧だった。暮らした家や祖母の顔は思い出せるのだが、どんなことをして遊んでいたのか、どんな話をしていたのか、そういったことはほとんど記憶に残っていない。まるで――

―― と、いけないいけない。掃除中だった」

 思い出に浸っていたい気持ちに蓋をして、再び巾着袋に片付けた。まんまと大掃除の魔にやられてしまった。後から通勤鞄の内ポケットにでも入れておこう。
 そうして巾着袋から視線を上げた時、事件は起こった。視界の端に素早く動く何かが見えたのである。

「うっ……」

 みかん箱のすぐ後ろに居たのは、手のひらほどもある大きな蜘蛛だった。それも二匹。日常生活における、私の最大の天敵だった。
 刺激しないように、あらんかぎりの慎重さで後ろにさがった。この狭い室内で近寄って来られては即座にジ・エンドだ。

 なんとか戸口にたどり着いた私は和室にそうっと背中を向け、小声で絶叫するという器用な真似をしながら階段を駆け下りた。

「鶴丸さん鶴丸さん」

 リビングに滑り込むと、鶴丸さんは棚の上の埃を払っているところだった。私の形相にぎょっと身を引こうとするのを引き留めて、声なき声で訴えた。

「二階に、あれが、二匹も」
「はあ?」
「と、とにかく何か武器を」

 ソファに立てかけてあった箒を鶴丸さんに押し付け、自分は棚の一番下段においてあった毒々しいラベルのスプレー缶で武装を整える。
 訝しげな鶴丸さんを半ば引きずるようにして、現場に急行した。

「この上です。この上に奴らが……戸、開けっ放しだった!」

 階段の上を指し示そうとして、自分の失態に気がついた。部屋から解き放たれた蜘蛛たちはすでに階段の横壁に張り付いていた。

「なんだ、蜘蛛か」
「二匹もいるんですよ。それもあんなに大きいのが!冷静すぎやしませんか」
「そう言われてもなあ。俺が昔いたところでは結構見かけたぜ」
「とにかく何とかお願いします。虫は意外と大丈夫なんですが、あれだけは無理です」

 仕方ないな、とため息をついて鶴丸さんは階段に足をかけた。
 が、すぐに弾かれたようにひっこめた。

「どうしたんですか」

 彼は眉間に皺を寄せて、二階の方向を睨み付けていた。何かを警戒して唸る獣のように、険しく不穏な顔で。見たことのない目の色に背中が冷えた。
 しばらくして、鶴丸さんは急に力を抜いた。

「すまん。やっぱり勘弁してくれ」
「え?」

 心なしか顔色が悪い。彼はこちらを見ようともせず、そのまま廊下の方へ歩いていってしまった。
 いったい何だというのだろう。本当は嫌いなのに無理をしていた、とか。
 でも、それにしては何か変だ。あの時の彼は壁の蜘蛛ではなくもっと別のところ―― そう、二階の和室を見つめていたようだったから。

「和室に何か……うわ!」

 ふと横を見ると、蜘蛛がいつの間にかすぐ横にまで降りてきていた。慌てて殺虫剤を吹き付けたが、スカスカと気の抜ける音がするばかり。

「うそ、空っぽ」

 その後、鶴丸さんの置いていった箒で半時間にわたり孤独な戦いを繰り広げ、ようやく追い出せた頃にはさっきまでのあれこれは頭の中から綺麗さっぱり消えてしまっていた。

◇◇◇

「やっと終わった。疲れた」

 ふう、と息をついて、私はすっかり片付いた和室を見回した。元々が古家、ピカピカにとはいかないが、座卓と座布団を置けば小奇麗な客室ぐらいには化けそうだ。

 鶴丸さんの方もそろそろ終わった頃だろうか。
 青い顔をして自室に戻った彼だったが、少し経つと何事もなかったかのように元気になって戻ってきた。もしかしたら本当に虫が嫌いだっただけかもしれない。

「お疲れ様です。さっきはすみませんでした……あれ?」

 リビングに彼の姿はなかった。 

「まだ終わってないのかな」

 隣の和室に行くと、予想通り探し人の姿があった。部屋の隅っこに座った彼は、心奪われたように何かに読みふけっていた。

「どうしたんですか、それ」
「掃除をしていたら押入れの中から出てきてな」

 こよりで綴じられた古い和装本。
 彼が指先でとんとんと指し示すそれは、私がはじめて見るものだった。買った記憶ももらった記憶もない。

「前の住人か家主さんが忘れていったんでしょうね。それにしても、本当に古い……」

 元は萌黄色だったのだろう色褪せた表紙は、埃にまみれ、触っただけでも崩れていきそうな風合いだった。鶴丸さんから本を受け取り、慎重に埃を払ってページをめくっていくと、紙の上には現代人にはとても読めない異体仮名がびっしりと書き連ねられていた。

「なあ、読めるか?」

 鶴丸さんが、唐突にそんなことを聞いてきた。

「いいえ、昔の文字は……」
「そうか、ならいい」
「何が書いてあるんですか」

 本を閉じた彼は、それをそっと畳の上に置いた。

「哀れな男の昔語りだ」


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