一〇八〇円。ピンク色に飾り付けられたショーケースを覗いて考え込んだ。
高いものである必要はない。所詮は社交辞令である。
隣の店のショーケースには少し高くてその分だけ上等な品が並んでいた。扶養家族がいるとは言え、贅沢とは縁のない慎ましやかな暮らしである。それほどお金に困っていない。わずかな出費で今後の人間関係がスムーズに流れるのなら価格を上げるのはやぶさかではなかった。
やっぱりもう一周見回って来ようと考えた時、一〇八〇円が五つまとめて持ち上げられた。私より少し年下くらいの美女が手当たり次第に同価格帯のものをカゴへ放り込んでいる。一、二と個数を数えては、形の良い眉を顰める彼女。足りないかな、というつぶやきが聞こえたので、私は慌てて残ったものに手を伸ばした。
「限定」や「残り○個」という消去法的PRに弱いのは日本人の性である。人気のあるものが必ずしも素晴らしいとは限らない。それぐらいのことはわかっているのに、悲しいかな、私もご多分に漏れない。
ラッピングしてもらいつつ、横目でさっきの女性を見ると、彼女はまだ悩んでいた。
「昔みたいに手作りしようかしら。でも、忙しくて時間がないのよね」
美しく生まれてしまうと社交辞令も大変である。
第十一話 社交辞令
「ねえ、結局いくらの買った?」
「色々迷ったんだけど千円ぐらいのにした。いくら上司でも義理チョコだし、それぐらいでいいかなって」
同期の彼女―― 名前を石坂という―― の質問に、私は昨日のことを思い出しつつ返事をした。彼女は「あたしも同じ」と答えて、うんざりしたように向こうの空席に目をやった。事務机の主は昼休みで外食に出かけている。
オフィスという響きが似つかわしくない、古びた事務所内には私たちの他にはだれもいなかった。コンビニ弁当をつつきながら、石坂は蓮っ葉な口調で愚痴をこぼした。
「なんでこんなに面倒くさい伝統があんだろうか。女性社員から半ば強制的にチョコレートを押収。そんなんだからいつまで経っても結婚のケの字もないんじゃんか。セ、ク、ハ、ラ」
セクハラおやじに見立てた卵焼きに荒々しく箸を突き刺した後、彼女は「あーあ」と珍しく恋する乙女っぽい吐息を漏らした。
「同じ男なのにどうしてこんなに違うんだろな……はあ、朝山さあん。イケメンだし、背高いし、親切だし」
彼女の言葉に、はて、どんな顔だったろうかと首をかしげた。社内のアイドルとしてしばしば名前が上がる彼のことを、私も何回か見かけたことはあるはずなのだが、いざ思い出そうとするとピンぼけの肖像しか浮かんでこない。
「あんたも朝山さんにチョコ渡すよね?」
「あげないよ。ほとんど面識ないし」
実は昨日慌てて買ったせいでひと箱余っているのだが、いくら社内の人気者でも、ろく知らない人に贈り物をするのは当然のごとく気がすすまない。
ところが、一方の彼女はお化けでも見たように箸を取り落とし、私の肩を揺さぶった。
「しゃ、社内に朝山派じゃない女がいた!貴様、何処の手の者よ!」
「企画課の者ですが……」
「おのれ、獅子身中の虫とは―― 」
時代劇スイッチが入りそうになったところで、階段を上がる足音が聞こえ、彼女はぴたりと口を閉ざした。マスカラを天まで伸ばす派手女の癖に、おじいちゃんの影響でかなりの時代劇マニア―― というそれはなんとしても隠れ属性にしておきたいらしい。
ドアを開けて入ってきたのは、渦中の人である課長と若い男性社員だった。爽やかな笑顔にぶら下がった社員証の名前は「朝山」。噂をすればなんとやらである。
面食いの彼女が熱烈に押すだけあって、朝山さんは確かに整った顔立ちをしていた。が、私にとっては一般の人々とそう大差ないように見えてしまう。
もちろん、すべてあの白い男のせいである。
こちらに気付いた朝山さんが丁寧な様子で会釈をしてきたので、慌ててこちらも頭を下げると、彼は明るく笑みを浮かべた。
「はああ、いいわあ」
うっとり、といった感じの彼女。こっちはこっちでなかなかフィルムの外れない昆布おにぎりに一生懸命になっていると、石坂に脇を小突かれた。
「あんたも早く『いいわあ』しなさいよ」
「待って、今昆布が」
「あのねえ。自分から捕まえに行かないと、そのうち『いいわあ』もできない年齢になるんだから。あっという間に」
渋い忠告に、私は黙って肩を竦めた。
最寄り駅からの坂道を家に向かってギコギコ登る。定時で退社できたため、外はまだうっすらと明るかった。
鶴丸さんが来て以来、できるだけ残業をしないで済むように仕事の方法を工夫していた。今となっては鶴丸さん一人で何でもできて特に困ることはないのだが、広い家に彼ひとりぼっちにしておくのはどうも嫌だった。というわけで仕事を終えた後、寄り道しないで帰るのがここ最近の習慣である。
あともう少しで頂上というところで、体重を乗せたペダルが、ぐりんと空回りした。バランスを崩しそうになり、慌てて足を地面に踏ん張る。振り向いて確認するとチェーンが外れていた。
「この前整備してもらったばっかりなのに。また押して帰らなきゃいけないのか……」
素人が素手でチェーンを直すのは難しい。頻発する自転車トラブルにうんざりしていると、後ろから声をかけられた。
「ちょっと見せてもらってもいいですか?」
振り返ると若い男が自転車から降りたところだった。年は十八、九、自分で声をかけておきながら戸惑ったように眉毛を下げている。
どこかで見たような顔だ。誰だったろうか。
「あ、えっと、駅前の自転車屋です。この前修理させてもらった」
そうだ、あの気弱そうな新人だ。
「僕が修理させてもらったんですが、もしかしたら行き届いてないところがあったのかも……すみません。もし良かったら今見せてもらえませんか」
心底申し訳なさそうに頭を下げた青年。ありがたく申し出に甘えると、彼は鞄から商売道具を取り出し、道端にしゃがみこんでチェーン部をいじり始めた。
「新人さんですか」
「はい。去年あそこに雇ってもらったばかりで。本当にすみません」
「お仕事中でもないのに、こちらこそ申し訳ないです。普段からちゃんと手入れをしないからこういう目に合うんですよね。物というのは人の愛情に敏感なんだって、祖母が昔言ってました」
時を経た物は魂と心を得ていつしか付喪神になる。だから決して物を粗末にしてはいけないよ。恨まれては大変だから。それが祖母の口癖だった。
「きちんとお手入れされている方ですよ。この前のタイヤにしてもこのチェーンにしても経年劣化していただけです。整備の時に気付かなくてすみません」
取りなすようにそんなことを言った青年の愛車は、ぴかぴかに磨き上げられて歩道の端に止められていた。いい主人の手に渡ってこの子はきっと幸せに違いない。
一方、並ぶように停められた自分の自転車のみすぼらしさに、なんだか申し訳ない気持ちになった。
ひとしきりガチャガチャと音を鳴らした後、彼はふう、と息を吐いて立ち上がった。
「とりあえず今日は乗って帰れると思います。申し訳ないんですが、あまり遅くならないうちにチェーンの取り替えに来ていただけるとありがたいです。お手数をおかけしてすみません」
「こちらこそありがとうございました」
タダ働きで直してくれたのに、すみませんを連発する青年が不憫になって、鞄の中をごそごそと漁る。少し迷ってから目的の物を取り出した。
「会社の同僚に渡した余り物で悪いんですが、もし良かったら」
手渡したのは、余ったチョコレートの箱だった。手持ちの中で、お礼の品にできそうなものはこれぐらいしかなかった。
「え?」
「他にお礼にできそうな物、持ってなくって」
大柄な青年は箱を眺めてぽかんとしている。良く知らない相手から食べ物をもらうのはやはり気持ちが悪かっただろうか。
「すみません、無理にというわけじゃないですから別に……」
そう言って引っ込めようとすると、また青年が「え」と短く声を上げた。
お互いに「あ」「え」と意味のない言葉を何度か応酬した後、彼は頭を掻きながらこう言った。
「じゃあ、お言葉に甘えます」
この前見たのと同じ仕草で、青年はへこりと頭を下げた。
「ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
お礼言って立ち去った後、曲がり角まで来て振り返ると、青年はいまだに見送りをしてくれていた。
リビングの戸を開くと、鶴丸さんはソファで読書をしていた。
「おかえり」
「ただいま」
「今日は中途半端な時間だな。何かあったのか」
「自転車の調子が悪くなってしまって。運よく親切な人が助けてくれたんですけど」
「物は大切にしろよ。俺が言っちゃあなんだが、怖いぜ」
冗談にも本音にも取れるような口調で彼は嘯いた。
「そうだ、鶴丸さんに渡す物があるんです」
戸棚に閉まっておいたチョコレートの箱を取り出して、ぽんと手渡す。課長のものとは別に買った、一応は心のこもったチョコである。
「もしかして“バレンタインデー”ってやつか? 最近テレビの特集でやってて気になってたんだ」
「上司に渡したのに、同居人に渡さないのもどうかと思って。安物ですけどね」
読んでいた本を横に置き、しげしげと箱を眺める鶴丸さん。
今日の服装は白いワイシャツの上に生成りのカーディガン、下には鼠色のスラックス。コーディネートも板についてきたものだ。プラチナブロンドがまぶしい彼がロイヤル・スクールの学生を自称したなら、信じない者はいないだろう。
といっても黄色味の入らない髪色は正確にはプラチナブロンドではなく、もっと硬質な銀色である。白銀色とでもいうのだろうか。
ひとしきり観察を終えた彼は、にやりと笑った。
「本命ということでいいか?」
情報収集に熱心なのはありがたいが、妙な語彙まで一緒に覚えてきているのは困りものだ。
「軽すぎるのはマイナスですよ、鶴丸さん」
「ちぇっ」
彼はぺろりと舌を出した。
「それにしても、女が男に贈り物とはなかなか不思議な感じがする」
「鶴丸さんのいたところでは、そうではなかったんですか」
彼は赤色の箱の封を切って、ぽんと口の中に一粒放り込んだ。箱を手の平でもてあそびながら、鶴丸さんはこの世の女を片っ端から腰砕けにしてしまいそうな微笑みを浮かべた。
「物を贈るということは、お前が欲しいという意味だから」