お内裏様とお雛様。ふたり並んですまし顔。

 店内に流れる幼い歌声のままに、緋色の毛氈の上、つんと白い面を上げて夫婦雛が座っていた。蛍光灯に照らされて、木でできた菱餅の表面がてかてかとツヤめく。小さな雪洞にはおそらく明かりが灯されているのだろうが、蛍光灯のまばゆい光の下では文字通り昼行灯である。

「ママ、うちにあるのと同じだね」

「そうね。でもエリちゃんのはお雛様の着物がピンク色よ」

 五歳ぐらいの女の子が母親に連れられて、間仕切りされた催し物会場を歩き回っている。午前だけ半勤しての帰り道、土曜日のお昼間にも関わらず、会場内には私と彼女たちの他には誰もいなかった。

 日付を考えると当然のことだった。雛祭りの当日に雛人形を買いにくる人間がどこにいるというのだ。

 お祭りが終わったら、お雛様はすぐにしまわなければならない

―― そうでなければ、お嫁に行けなくなってしまう。

 これだけのものならば片づけるのも大変だろう、と雛壇を飾るごちゃごちゃした小物に肩を竦めた。



第十二話 雛の宿(前)


 昔、遊びにいった友達の家に雛人形が飾られていた。少し離れなければ、小学生には上段がまともに見えないような立派な七段飾りだった。自分のお雛様というものを持ったことがなかった私は、初めて見る大きな雛壇にとても驚き、人形の白い顔やこまごまと彩色された小物に穴が空くほど見入ったものだった。

『お雛様ってこんなんなんだ』

『家にないの?』

『うん』

『ふうん。変わってるね』

 幼い彼女は、すべての女の子は雛人形を持っているものだと信じていて、私の言葉に心底不思議そうな顔をした。

「ねえ、ママ。早く帰ってお祭りの用意をしようよ」

「はいはい。エリちゃんが飲んでも大丈夫な甘酒、つくってあげるからね」 

 女の子はつんと佇むばかりの雛人形に飽きたらしく、母親の手を引いてエスカレーターの方に歩きはじめた。

『……ちゃん、お雛様ないんだって、ママ』

『最近はそういうおうちも多いのよ。さあ、二人ともジュースが入ったからこっちに来なさい』

『はあい』

 彼女の母はこちらにちらりと視線を寄越した。その瞳に浮かぶ哀れみ。

 まともな親がいないっていう噂は本当だったのね。

 人がいなくなった展示場の中で、私は人形から投げやりに視線を外した。女雛のすました顔がなんとも言えず気に入らなかった。

 
 ◇◇◇


 玄関に入るといろいろなものが混ざり合った匂いがふいと鼻孔に滑り込んできた。甘辛いような酸っぱいような不思議な香りである。

 お昼はとっくに過ぎているのに一体何を作っているんだろう。晩御飯には早すぎる。

 靴を脱ぎながらキッチンに立つ鶴丸さんの姿を思い浮かべた。最初は私が食事を用意して、留守の間は買い置きや作り置きを食べてもらうなどしていたのだが、ガスや電気の使い方を覚えて後は、炊事洗濯は彼の仕事になった。和食は元々それなりに心得ていたようで、とんでもないものが出てくることはなかった。元いた場所には料理当番があったのだ、と彼はそう説明した。

 勉強熱心な彼は日々テレビや雑誌で研究を重ね、最近ではこちらを唸らせるようなものまで作ってくる。

 リビングのドアを開けると、案の定、紺色のエプロンを付けた鶴丸さんがコンロの前で汁物の味見をしていた。

「ただいま」

「おかえり」

「一体、何を作ってくれているんです? 晩ごはんにはちょっと早すぎませんか」

「ふふん、今日は何の日だ?」

 鶴丸さんは得意げな顔で質問に質問を返した。

「……まさか」

 机に置かれた寿司桶を覗くと、中には彩りも豊かなちらし寿司が入っていた。

 鶴丸さんはいたずらっぽく囁いた。

「桃の節句」

「小さい女の子がいなくても、鶴丸さんのところではお祝いをするんですね」

「嫁入り前の大きな娘がいるからな」

 何気なく告げられた言葉に耳を疑った。なんだって?娘?

「もう一度お願いします」

「だから嫁入り前の娘がいるって」

「鶴丸さんって……お子さんがいるんですか」

 衝撃の告白に私は口を手で覆った。

 確かにありえない年齢ではない。が。

「しかも『大きな』って……おいくつなんですか、娘さん」

「十やそこらじゃないことは分かる」

「うそ」

 どんなに高く見積もっても決して三十には届かない見た目の彼。これだけの容姿ならば引く手は数多だろうが、さすがに少し早すぎないか。

 どうしよう。もし彼が既婚者なら大問題だ。不倫だ。訴訟だ。

 同居している当の私たちからすれば、いっそ小学生も顔負けの清純なルームシェアである。しかし周りはそうは捉えてくれまい。

「私……そんなこと考えたこともなくって。いや、これは単なるルームシェアですし、疚しいことは何もないんですけど」

 悪い想像がひっきりなしに思い浮かび、冷や汗が流れた。奥さんが押しかけて来たらどうしよう。私もついに泥棒猫、昼ドラデビューだろうか。

 血の気の引いた私を見て、鶴丸さんは突如口元を押さえてしゃがみこんだ。

 ただでさえ混乱の最中である、私の頭はここで完全にショートした。

「妊娠?」

「……やめてくれ。もうこれ以上追い討ちをかけないでくれ」

 鶴丸さんは手で顔を覆って身体を震わせていた。

「だめだ。息ができない」

 噎せはじめた彼の背中を撫でようと手を伸ばした時、目があった。

 失礼なことに、彼は私の顔を見て再び吹き出した。


 ◇◇◇

「ああいう反応が返ってくるとは思わなくてな。黙って聞いているとどんどん勝手に話を膨らませていって」

 再びせり上げてきたらしい笑いを、鶴丸さんはコップの水で喉に流し込んだ。

「退屈で死にそうになったことはあるが、笑いすぎて死にそうになったのは初めてかもしれん。家主殿は才能があるやも」

 褒められている気がしない。なんとかと天才は紙一重だと言いたいのだろうか。

「笑って悪かったって。そう怒るなよ」

「怒ってません。鶴丸さんにこういう俗っぽい話が通じるとは思わなかったので、ちょっとびっくりしているだけです」

「平日の昼番組で良く見るんだ」

「……理解しました」

 「妊娠」などという現代的な単語に即座に反応したのが不思議でならなかったが、なるほど昼ドラのせいか。

 昼食後ソファにもたれ姑と嫁のドロドロや人妻の不倫に見入っている鶴丸さんを思い浮べて、なんともいえない悲しさに襲われた。

 ということは、と顔を見上げると、彼は宥めるように言った。

「案ずるな、伴侶もなければ子もいない」

 これから先もないだろうな、と小さくつぶやいたのは聞かなかったことにした。そこにまで踏み込むことのはきっとまだ早い。

「じゃあ、さっき言った大きな娘というのは?」

「目の前の行き遅れに決まっているだろうが」

「黙っていると好青年なんですけどねえ」

 いつも通りの返しをして、はた、と思い至った。

 ということは、彼が準備してくれている雛祭りの主役は。

 え、と珍しく高い声が出た。

「私、祝ってもらえるような年齢は十数年前に過ぎ去っているんですが……」

「十年や二十年、俺からすれば昨日と変わらんさ」

 小娘は黙って祝われておけ、とあっさり言い放った後、鶴丸さんは再びキッチンに戻っていった。


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