ちらし寿司、蛤のお吸い物、菱餅、甘酒、ひなあられ―― テーブルの上には、雛祭りの縁起物がところせましと並んでいた。白を基調にピンク・緑・黄などを彩り良く合わせたそれらは、話には聞けど今まで縁のなかった品ばかりである。

 見た目の美しさはもちろんのこと、漂ってくる美味しそうな匂いに私の心はますます弾んだ。食事の時間が待ちきれない。

「今やっているので終わりだから、もう少しだけ待ってくれ」

「はい!」

 私は今やすっかり素直な子供に戻っていた。さっきまで雛祭りなんて嫌いだなどと思っていたくせに、我ながら驚くくらいの手のひら返しである。

 元気よく返事をすると、鶴丸さんは目を細めて微笑んだ。



第十三話 雛の宿(後)


 言葉通り、準備はじきに整った。

「さあ、家主殿のための祭りだぜ。存分に楽しめ」

「いただきます!」

 ゴーサインが出るや否や、ご馳走に飛びついた。手のこんだちらし寿司に舌鼓を打ち、甘酒のまろやかな香りにうっとりとする。アルコールがほとんど含まれていないにも関わらず、鶴丸さん特製の甘酒はまるで魔法の飲み物のように心地よく身体を温めてくれた。

「売っている物よりずっと美味しいです。作るの大変だったでしょう?」

「ところがどっこい、そうでもない。白酒しろきと違ってあまざけは米があれば一晩で作れる。“一夜酒ひとよざけ”と言ってな、酒盛りの前に飲むと悪酔せぬということで、昔から貴賎を問わず皆好んだものさ」

「白酒と甘酒って違うものなんですか?」

 器に注がれた濁り酒を見つつ首をかしげると、鶴丸さんは『これだから最近の若者は』とでも言いたそうな顔をした。

「酒気をほとんど含まない醴に対して、白酒は祭や神事で供されるれっきとした酒だ。本来桃の節句には白酒の方を飲むもんだが、近頃はどうやら混同されているようだから便乗してみた」

 酒に弱そうな家主殿のために、と彼はいたずらっぽく言った。

「相変わらず、良くご存知ですね」

「これでも昔は神事に使われていたもんでな……」

 柄じゃあないが仕方なく、と鶴丸さんは頬杖をついたまま、照れたような、うんざりしたような複雑な顔した。

 神事と聞いて、神主の恰好をした彼を思い浮かべてみた。

 ―― なかなか悪くない。

 目の色といい髪の色といい、大和男子とはかけ離れた見た目なのに、和的なものに似合うオーラがある。眩しく輝く太陽よりも朧ろに光る月が、大輪の薔薇よりも散りゆく桜が良く似合う。明るく開放的な言動の底に、人を寄せ付けない静謐な何かが横たわっているのだ。本来の装いの、あの白い着物―― 今はタンスの奥にしまってあるけれど―― をまとえば尚更。

 はじめて会った時のことを思い出しかけて、頭を軽く振った。今日はそういうことを考える日じゃない。

 手に持っていた甘酒をぐぐっと飲み干して、もう一度「美味しい」と伝えると、彼は満たされたような穏やかな表情を浮かべた。

「ちょっと待っててくれ。すぐ戻ってくるから」

 ごちそうを平らげて、宴も終わりに近づいた時、鶴丸さんはそう言って席を立った。隣の和室から何やらごそごそと探るような音がする。

 彼はすぐに小さな箱を手に戻ってきて、首をかしげる私の前で、得意気に箱を開いた。

 中を覗き込んで、思わず声が漏れた。

 箱の内にちょこんと鎮座していたのは、一対の雛人形だった。二つ合わせても片手の平に乗ってしまうほどの、小さな小さなお雛様。

「庭木の手入れをしていたら隣家の御内儀に会ってな。あられを買ったら付いてきたと言うので、ありがたく頂戴したんだ。少し早いが如月の礼も兼ねて」

「……私に?」

「他に誰がいる」

 彼は指先で雛人形をつまみ上げた。

 ところがさあ手を出せ、という段になって、身体の具合が言うことを聞かなくなった。手足が硬直して、口の中がいやに乾く。

「どうした?気に入らないか?」

 急に動かなくなった私の目を覗き込み、鶴丸さんが不安げな顔で尋ねてきた。

 ―― そんなわけない。

 早く笑え、と自分に命令したが、金の瞳に見つめられれば見つめられるほど、頬はますます強張っていった。声が上手く出せなくて、何度も首を横に振った。

「どこか身体に辛いところがあるなら――

「……ちがうんです」

 引き攣る喉からやっと一言を絞り出すと、私の額に添えられようとしていた手がぴたりと止まった。

「初めてなんです……誰かに何かを祝ってもらうなんて」

 どんなお祭りもイベントも、目には見えども決して届かない対岸の出来事だった。引越を繰り返す私には決まった家族も友達もおらず、自分の誕生日ですら特別な日ではなかった。

 私のための、私のためだけのお祝い。

 そう思った途端、こぼれてしまった。

 眼の奥にたった一滴残っていたそれは、昔流しそびれた涙の化石だった。心の底で乾いてこびりついて、もう二度と出てこないと思っていた。つんとする鼻の痛みと目頭の熱さ。

「……すみません。いくら鶴丸さんでもびっくりしてしまいますよね」

 いい大人が人の前で泣くなんて。分かっているのに、涙は止まらない。

「おかしいな。『絶対に泣かない、鉄みたいな子』っていうのがウリだったのに」

 鶴丸さんは私の言葉を聞いて瞳を伏せた。優しく腕を引かれる。

「子供の仕事はなんだ?」

 雛人形が可愛らしく掌の上に収まった。私の前髪を掻き分けて、彼は穏やかに「良く遊び、良く笑い、良く泣くこと」と言った。

「……それはどちらかと言うと赤ちゃんの仕事ですよ」

「減らず口を叩くな。言ったろ、俺にとっちゃ同じようなもんだって」


◇◇◇


「明日、目腫れちゃうかな」

 鏡を覗き込んで人差し指で目元を押さえた。じんわりと熱をもったまぶたは、いまだに幸福の余韻に浸っているかのようだった。

 あんなに泣いたのはいつぶりだろう。

 テーブルの上に座ったお雛様がマスコットのようなくりくりの瞳で見つめてくる。目が合うとまた泣いてしまいそうになり、無理矢理にまぶたを閉じた。最近の私はどうもおかしい。

 大泣きのせいで気が昂ぶっているのか、布団に入った後もなかなか寝付けなかった。羊を数える代わりに今日起こったいろいろなことを振り返る。

 その途中で、鶴丸さんのあの言葉がふと脳裏に蘇った。

『伴侶もなければ子もいない』

 彼が淡々とそう告げた時、本当は咄嗟に飲み込んだ一言があったのだ。

 ―― 恋人は?

 鶴丸さんは嘘をつかない。尋ねれば本当のことを教えてくれただろう。

 だから、訊かなくて良かったのだ。

 知ってしまえば今のままではいられない。私は器用な人間ではないから、決まった相手がいると分かれば、きっともう近づけなくなる。貞淑さや義理堅さとは違う、一種の臆病さによって。

 私はこの奇妙なルームシェアを案外気に入っていた。あいさつをして、一緒に食事をして、たわいのない話をするだけの毎日。

 だがその平凡さの裏側には、細糸の上の綱渡りのような危うさが存在する。二人の間にはルールも約束も愛もない。互いに境界線を踏み越えないギリギリの位置で成り立っているこの関係は、小さな綻びでいとも容易く崩れてしまうだろう。

 ぱたん、と棚の中で本の倒れる音がして、私は手を握りしめた。

 たとえいつか終わりを迎えるのだとしても、どうか今だけはこのままで。


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