第十五話 春のこころは(二)
「何があったの?なんていうか……すごく萎れてるけど」
昼休憩中の、人気のないオフィス。事務机にべたりと伏せた私を見て、石坂が眉を寄せた。
「……なんでもない」
「明らかになんでもあるじゃん。彼氏と喧嘩?」
「実在しない彼氏とどうやって喧嘩するの」
“彼氏”という点を除けば、その通りではあるのだが。
石塚の勧めでようやくおむすびの封を切り、一口かじった。なかなか喉を通らない。
何にせよ珍しい、と石坂は私の目をのぞきこんだ。
「あんたって、怒ったり泣いたりしないイメージだったから」
「そうかな?」
「真面目なせいか知らないけど、どこかサイボーグっぽいところがあったんだよね。鋼の心臓!鉄面皮!みたいな。でも、最近はちょっと変わってきてる気がする。今日もまさかの遅刻未遂だったし」
昨夜悶々として寝付きが悪かったせいか、自分でも信じられないことだが―― 会社に遅刻しそうになった。寝坊して電車に乗り遅れるなんて生まれてこの方はじめてのことである。
当然のことながら、朝起きてから彼とはろくに話していない。
「言わないで。すごく反省してるから」
遅刻じゃなきゃノーカンよ、と遅刻常習犯の彼女は胸を張った。
「ま、そうやって人間らしく落ち込んでる姿を見て安心したわ。しっかりべっこりヘコむとよろしい」
「ひどい」
ストレートな言葉に苦笑が漏れた。他人の心に物怖じせず踏み込んでいく石坂は、敵を作りやすいタイプである。だが、私はむしろ彼女のそういう性質を好ましく思っていた。心の中にぐずぐずと閉じ込めていたものを、引きずり出し、洗濯して、日の下に気持よく晒してくれる。まだそれほど長い間柄ではないが、今や「気の合う同期の女性社員」というだけではない存在だった。
「相談だったらいつでも乗るから。恋の相談なら尚良し」
私の肩をぽんぽんと叩いて、石坂は自分の席に帰って行った。事務所にはちらほらと人が戻ってきている。食べ残していたおにぎりを慌てて口に放り込んだ。
休憩が終わって午後の仕事が始まると、石坂のおかげで一時は鳴りを潜めていた例の憂鬱が、またもやもやと頭をもたげてきた。仕事の間は忘れていようと努めるも、時を経れば経るほど、忘れるどころかますます募っていくようだった。
どうしてあんな下らないことで怒ったりしたんだろう。いつもなら笑って流せることなのに。
作りかけの書類の上にボールペンを転がした。
鶴丸さんが来てから、どうもおかしいのだ。感情のコントロールがうまくいかない。簡単に泣いたり怒ったりしてしまう。
石坂は「人間らしくていい」というが、本当にそうだろうか。だだをこねて泣き喚く子は外に放り出されてしまう。心を揺らさずに、静かに息を潜めているのが最も賢いやり方なのではないか。
指先で弾くと、ボールペンは容易くコロコロと机の上を転がった。
あの金の瞳を見ていると、抑えてきた何かがどんどん勝手にあふれ出してくる。特別な感情―― いわゆる恋だの愛だのといったもの―― がそうさせているのだろうか、と考えてみたこともある。中身にも外見にもあれだけの力を備えた人だから、無意識のうちにそういう気持ちが芽生えていたとしても不思議ではない。
だが自分の心を何度透かしてみても、どうも違うような気がした。好意は好意でも、もっと別の何かなのだ。
―― 放っておいてください、かあ。
自分が吐いた言葉を思い出して、みぞおちのあたりが重くなった。自責の念が真綿のように喉元を締め付ける。
衣食住のすべてにおいて、彼は私の「お世話」になっている。援助・保護の矢印は私から彼に向かって伸びるばかりで、その逆は多くない。しかし内面的な話をするならば、私たちのベクトルはすでに一方通行ではなくなっていた。
私は鶴丸さんから、形のないものをたくさんもらっていた。それは、きっと私が彼にあげている以上の何かである。
……本当になんてことしちゃったんだろう。
出て行こうとしていた彼を引き留めたのは私だ。「行かないで」と言っておいて、今度は「放っておいてくれ」?
なんとも勝手な話である。
今日は早く帰ろう。彼の好きなのり塩味のポテトチップスをいっぱい買って、全力で自転車をこいで、それから必死に謝るのだ。
覚悟が決まると、憂鬱の代わりにじれったい気持ちが湧き上がってきた。今すぐにでも飛んで帰りたい気持ちを抑えてボールペンを拾い上げる。
午後はのろのろと進んだ。
◇◇◇
気が逸った私は玄関に入るや否や、パンプスをぽいと脱ぎ捨てた。
―― が、習慣はそう簡単に脱ぎ切れないもので、結局いつも通りに靴を揃えてから廊下を走った。ストッキングのせいでグリップが効かず、何度も滑りそうになる。
「鶴丸さん!」
リビングは真っ暗だった。
冷たい手でぐっと心臓を掴まれたような気がした。買い物袋が手から滑り落ちた、どさりという粗雑な音がどこか遠くの方から聞こえてくるようだった。
手探りで電気のスイッチを入れる。明るくなった部屋の中には―― もう何も残っていなかった。テレビの音も、夕食の残り香も、「おかえり」という優しい声も。
昨日までは当たり前にそこにあったはずのものがどこにもない。現実が急速に色褪せ、現実味を失っていく。
自分のいる場所が良く分からなくなって、震える手でテーブルの天板を撫でた。滑らかに冷えた木の感触。小さな食卓を挟みイスが二つ。そこには誰が座っていたのだったか。
今度は隣の和室に行った。彼が住み着いてからも生活感を帯びずにいた部屋だった。部屋の主がとあるひとつを除き、私物を置きたがらなかったからだ。唯一の私物―― 彼の刀は、いつでも床の間に大切そうに立掛けられていた。
ただ今日は、それだけがなかった。
縁側、庭、二階、トイレ、洗面所、お風呂。どこを探しても同じだった。
「うそ」
呆気ない声はがらんどうの部屋に吸い込まれ、虚しく霧散した。