門の前にも街灯の下にも裏の空き地にも、見知った銀色はなかった。締め付けられ痛みさえ感じる心臓を抱えて、自転車で夜道を走り出した。

 彼が行ったことのある場所をひとつずつ見てまわり、その度に泣き出しそうになった。

 最後にたどりついたのはあの公園だった。

 遊歩道を抜け、中央広場でペダルを止めた。本来は人のいない時間帯だが季節柄か、今日は夜桜を楽しむ人々の姿があった。平日なので人数はそう多くない。ひとりひとりの顔を確認せずとも探し人の不在は明らかだった。

 自転車から降りてふらふらと広場の中央に進んだ。そしてそびえ立つ松の巨木を見上げた。

 ―― この場所で、あの日鶴丸さんと出会ったのだ。

 盛りに咲く華やかな桜木とは対照的に、重々しく闇に枝を浸した古樹はまるで身勝手な私をたしなめているかのようだった。



第十六話 春のこころは(三)


 家に戻ってきて、そのまま畳にへたりこんだ。春の夜の肌寒さに身体が震える。風邪を引いたように頭がぼんやりとしていた。

 つまり、そういうことなのだ。

 こういう日が来ることを、想像していなかった訳ではない。けれども、その枕詞はいつだって「いつかそのうち」だった。

 自分の愚かしさに吐き気がした。

 家に帰れば、明るいリビングからテレビの音と夕食の匂いが漏れてくる。続いて聞こえる、おかえり、という声。それがどれほど得難いものか、私は誰よりもよく知っていたはずだったのに。

 ごめんなさい、という言葉は悲鳴のように引き攣れて、まともな声にもならなかった。喉の奥から止められない嗚咽が漏れた。

―― 反省したか?」

 ろうそくの火が消えるように室内がぼうっと陰った。自分の見ている光景が信じられなくて、私は目元をごしごし擦った。

 縁側には―― 鶴丸さんが立っていた。

 今朝と同じラフな格好で、腕組みをしたまま柱に背を預けている。右手に太刀を携えた、その点だけがいつもと違う。静脈の透けた手の甲も、色素の薄い瞳も髪も、朝別れたばかりなのにたまらなく懐かしかった。

 白いワイシャツ目がけて飛びついた。

「鶴丸さん!どこに行っていたんですか!?」

「新しい住処を探しに―― なんてな。冗談だ」

 さっと青ざめた私を見て、鶴丸さんは表情を崩して苦笑した。

「冗談ですんだら警察は要りませんよ……」

 それこそ冗談めかして言おうとしたのに、出てきたのは湿っぽい鼻声だった。彼は少し目を見開いてから、ショックを受けたように瞳を伏せた。

「ちょっと驚かせてやろうと思ったんだ。でも……こういうのはあまり面白くないな」

 白い親指に頬の涙を拭われた。キザなやつ、とは思わなかった。触れる時、彼の手が一瞬ためらったのが見えたから。

「そういう驚きは本当に要りませんから……私はてっきり……」

「俺が悪かった、すまん」

「公園まで行ったんですよ」

 すまない。

 揺れる金の瞳を見て、私は最後にもう一度だけ鼻をすすった。

「私も、ごめんなさい」

 互いの顔を見て、深い安堵の息を吐いた。握りしめ続けていたシャツを手放すと、裾の方がシワシワになっていた。どれだけ夢中だったんだろう、と急に恥ずかしくなってきた。

「最近、泣き顔ばかり見られていますね」

「……慣れてるさ。君の泣き虫は今に始まったことじゃないからな」

 鶴丸さんはジーンズの片膝を立てて畳に座った。

「え?」

「いや、こちらの話。それにしても家主殿は頑固だな。感情ってやつは人間に許された最高の宝だぜ。驚き、怒り、悲しみ。活かさなくてどうする。そもそも君が言い出したことでもじゃないか。『人間だからこうするんです!身勝手で何が悪い!』ってな」

 鶴丸さんは下手なモノマネでこの前の出来事を再現した。恥ずかしい。穴があったら入りたい。

「そうですね。私が言ったことでした」

「人らしく生き、人であることを誇れ。でなければつまらないだろう」

 張りのある、けれどどこか切ない声で彼は言った。筋張った手の中で、ちりんと刀の鍔鳴りがした。

「そういえば、どこに隠れていたんですか?」

「隠れていたわけでもないんだがな。たまたま所用あって、ちょっとそこまで」

「……その刀を持ったまま?」

 鶴丸さんは「もちろん」と当然のように頷いた。

「運が良かったですね。模造刀だろうが竹光だろうが、そんなに大きな刀、警察に出くわしたらきっと呼び止められていましたよ。斬れなくても、ちゃんと袋に入れないと」

 竹刀でも木刀でも刀の形をしたものは、袋に入れて持ち歩かなければ銃刀法に抵触する。

 大学で聞きかじった知識を披露すると、鶴丸さんはぴたりと動きを止めた。

「今、なんて言った……?」

「だから、ちゃんと袋に入れないと、って」

「その前だ」

「えっと、大きな刀……模造刀か竹光か……」

 記憶を手繰っていくと、最後の言葉で反応が返ってきた。

「それだ、家主殿。まさかと思うが……これが斬れない得物と思ってはいまいな?」

「ええ、そうじゃないんですか?」

 むしろ本物だったら困るんですけど、と言うと、鶴丸さんはこれ以上ないくらいに愕然とした表情になった。『遠足の日に学校へ集合したら、実は現地集合だった』時くらいの顔である。

「おいおい、嘘だろ……竹光だって……?」

 片手で顔を覆って唸る彼に、こちらが「嘘でしょ」と言いたくなった。

「まさかとは思いますが、真剣なんですか?」

「そうに決まってるだろう!俺は斬れるということに命を懸けているんだ!」

 プロ板前の愛用包丁に口があれば、きっとこんなことを叫ぶに違いない。というような台詞を吐いて、鶴丸さんはふらりと壁によりかかった。そのままずるずると下がっていき、最終的には海底に横たわるナマコのような体勢で畳に「の」の字を書きはじめた。どうやらプライドをいたく傷つけてしまったらしい。

「ほ、ほら、私は素人ですから。見る人が見ればちゃんと分かりますよ」

「分からなければ困る」

 鶴丸さんはショックから立ち直りきれない様子で「折れそう……」と悲しい目をした。

「まさか模造刀やら竹光やらに間違えられる日が来るとはな。仲間に知られたら物笑いの種だ。向こう何十年か、いやもっと……」

「そんな大袈裟な」

「家主殿、これは深刻な話だぜ」

 そう言うと片手で鞘を掴み、電燈に透かすように刀を掲げた。金地の鍔が鈍く光る。同じ色の瞳を煌めかせて、彼は気位高く胸を張った。

「どうだ?」

 月光の下、鞘のえがいた曲線はそれはそれは美しいものだった。人を殺すための道具、ということを忘れるくらい。

「中身は見せてくれないんですか」

「中身を見せて、万が一なまくらだなんて言われた日にはもう立ち直れない」

 鶴丸さんは横目で私を睨めつけた。完全に拗ねている。

「価値が分からない人間ですみません……」

「自分で言うのもどうかと思うが、天下に双なき代物だぜ」

 そんな風に言われれば、ますます気になってくる。が、鶴丸さんは身を乗り出した私を手を押し留めた。

「そんなにせっつくんじゃない。万が一、万が一だ。君が『これ』をより深く知るようになったとしたら、その時は好きなだけ見せてやってもいい」

 『これ』と言いつつ、彼は刀の鞘を撫でた。

「そういえば、家主殿」

 鶴丸さんがわざとらしく咳払いをした。なにやら気まずそうな顔をしている。

「なんです?」

「今日はあの、なんだ、例の稽古はしなくていいのか。花見、今週末なんだろ」

「そうですね、もし不愉快でないなら、今日も練習したいところですが……構いませんか?」

「ああ。ただ……」

 言いにくそうに口ごもる。

「ただ?」

「年頃の女が人前で肌をさらすのは良くない。俺はそういうのは好かん」 

 少々早口に言い切った鶴丸さんに、ぽかんとして肩の力が抜けた。なあんだ。「見苦しい」というのはそういう意味だったのか。

「ごめんなさい。私、勘違いしていたみたいです。これからは気をつけますね。本番では長ズボンを履くつもりですし、鶴丸さんの心配しているようなことはありませんよ」

 喉の奥から、小さく笑いが漏れた。

「おかしいか?」

「いいえ。どちらかと言えば『嬉しい』の方ですね。さて、晩ごはんにしましょうか。今日は私がつくります」

「読みが甘いぜ。すでに冷蔵庫の中に準備済みだ」

 後から着いた方がチンすること!と言って、鶴丸さんは脱兎のごとくリビングへと走り出て行った。壁際に刀を立てかけることを忘れずに。

 月の光を帯びたそれが、もう一度静かな休息についたのを見て、私も部屋を後にした。


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