第十七話 春のこころは(四)


「一月ぅは正月で酒が飲めるぞお、酒が飲める飲めるぞ、酒が飲めるぞお」

 ひっく、とお馴染みの調子でしゃくりあげた。千鳥足で夜の川原を歩く私は、誰の目から見てもまごうことなき酔っ払いである。パトロール中のお巡りさんに出くわしたら、職務質問間違いなし。

 会社の花見が終わったのはつい三十分ほど前のことである。練習の成果あって、昼一番、余興のダンスは大成功を収めた。課長は手を叩いて喜び、場も大盛り上がりで、若手社員としての務めは十分に果たせたと言っていい。

 その後もビンゴの準備や上役の接待、その他の仕事に追われ、やれやれと席についたのは夕方近く、隣にいた歳の近い上司から案の定アルコールの洗礼を受けた私は、そのまま夜桜見物に巻き込まれたのだった。

「四月ぅは、花見で酒が飲めるぞお」

 さっきまで会社の親爺連中と肩を組んで歌っていた歌が耳から離れない。馬鹿らしいと思いながらも、ふにゃりふにゃりと歌いつづける。

 歌詞の通り、河川敷の桜は今年一番の見頃を迎えていた。

 川辺を吹き渡る少し冷たい春風も、その度に舞い散る桜の花びらも、ふんわりと火照った身体もすべてがなんともいい気持ちだった。

 顔を上げると、行く手に大きな桜の木が見えた。ピンク色の袖を伸ばし、一際見事に咲き誇るそれは、幼い子供の言葉を借りるなら「桜の王様」といったところだろうか。すぐ近くまで近づいて、私はそれこそ子供のように感嘆の声を上げた。根元に座り込んで、頭上を見る。

「うわあ。綺麗」

 夜空に透かした花びらは、天の雪のように淡く清冽だった。

 夜桜を堪能した私は、視線をずらし、今度は遠くの空を見上げた。薄紅の花弁に隠れるようにして、そうっと静かに瞬く星々。長い時を生きる彼らが花の命を愛しみ、春の主役を譲ってあげた、そんな風にも思える。

「北の空には北斗七星、ずっと南に降りて乙女座のスピカ、獅子座のレグルス」

 大好きだった図鑑の通りに夜空をなぞる。優しくきらめく天の地図は、いつ見上げても応えてくれる私の大の友人だった。嬉しくなった私は、指をついと持ち上げて、真上に迫る桜花を指した。

「それから、真上の空には、さくら座。なんちゃって」

「家主殿は星見ができるのか」

 振り返ると木の後ろにすらりと高い人影があった。

「鶴丸さん!」

 すぐ隣の地面を手でたたいて招き寄せると、彼はそこから少しだけ離れた桜の根元に背をあずけた。すん、と一度鼻を鳴らし、しかめっ面をする。

「酒臭いな。昼からずっと飲んでたのか?」

「その通り!」

「まあ、ずいぶんと酔って」

 呆れたような声を聞きながらも、ふんふんとご機嫌に鼻歌を歌っていた私だったが、肩のあたりに衣擦れを感じ振り向いた。背中にかかっていたのは鶴丸さんのコートだった。

「桜の節はまだ冷える。これで卯月だっていうんだから妙な感じだ」

「鶴丸さん、寒くないですか?」

「大丈夫だ」

 と言いながら、シャツの長袖を手首ぎりぎりにまで引っ張り上げているものだから、つい笑ってしまった。

「本当は寒がりのくせに。仕方ないですねえ」

 かけてもらったコートを広げ、彼の肩にも橋渡しした。しかしいくら大きな上着でも大人二人をすっぽりと包み込むのは難しい。少し距離を詰めてみる。それでもまだまだ布が足りない。もう少しだけ近づいてみる。

 自然、肩と肩が触れ合った。

 それを合図に、私と彼は動きを止めた。はみ出たところは、鞄に入れていた大判のスカーフで覆うことにする。

 ぽう、と二人の間にぬくもりがともった。

「鶴丸さんって意外とあったかいんですねえ。こんなに冷たそうな色をしているのに」

 手を伸ばし、白銀しろがね色の髪を指先に巻きつける。硬質な輝きを放つそれは、見た目とは相反してするすると滑らかな絹糸だった。鶴丸さんは困ったような顔をしつつも、されるがままになっていた。

 身体が温まってくると、酒精で火照った頬がむず痒くなってきた。何か冷やすもの、と考えて、私はとてもいいことを思いついた。

 筋張った手を掴んで、頬をすりよせた。鶴丸さんが驚いた気配がした。

 ひやりとした感触が頬の熱を収めていく。気が大きくなっているなあ、ととろけた頭で考えた。

 鶴丸さんの手はいつだって冷たい。彼は人よりずっと体温が低いのだ。

 美しい手を握りしめたまま、囁くように問いかけた。

「鶴丸さん、兄弟はいますか」

「一応。離れ離れになって、もうずいぶん経つが」

 彼は天を見上げ、連なる星を眺めた。

「寂しいですか」

「仲間には皆兄弟がいるんだ。正直に言うと、ほんの少し羨ましい」

 拗ねたように苦笑する鶴丸さん。その顔を見て、酔っぱらいの私はまたいいことを思いついた。今日の私は冴えている。

「それならこうしましょう。ご兄弟と会える日まで、私のお兄ちゃんになってください」

「家主殿の?」

 彼は目をぱちくりとさせた。

「はい。だいたい私達、一緒に暮らしてるんですよ。とっくの昔に家族じゃないですか。顔は全然似てないけど」

「……ああ、そうだな」

 肯定したのは前者だろうか後者だろうか。

 鶴丸さんも私と同じことを思ってくれていたらいいのに。白い横顔を見ながら、そう願った。

 頭の中に居座った熱が、ぼんやりと思考を溶かしはじめた。お兄ちゃん。兄妹。家族。鶴丸さん。

 バターがとろけるように、心の蓋がゆっくりと開いていった。気付いた時には唇が勝手に言葉を紡いでいた。

「ずっとひとりだったんです」

 白い顔がこちらを向いたが、その輪郭はおぼろげだった。夢の世界がすぐそこまで近づいてきている。

「お父さんとお母さんは離婚して、わたしのこと、置いていっちゃったんです。おばさんは、わたしが泣くと怒ったの。『親に似て、勝手な子』って」

 ふわりふわりと意識が揺れるごとに、詰まっていた古い荷物がひとつずつこぼれ落ちていった。

「辛い思いをしている人なんてたくさんいる。そんなことくらいわかってるんです。だから、辛くはありませんでした。でも、ただ―― どうしても、寂しさだけはなくならなくて。だから―― だから、居てほしいと思ったんです。勝手でごめんなさい」

 謝らなくては、という気持ちだけが私の中をぐるぐる回っていた。

「ごめんなさい」

 鶴丸さんは何も言わなかった。例え何か言われたとしても、もう返事はできそうになかった。頭の隅がしびれてきた。ああ、もう眠ってしまう。

 最後の力で、私は彼にすがりついた。

「おいていかないで。わたし、いい子にしてるから」

 そう言った後、とうとう支えきれなくなって、隣の肩に頭を預けた。

 頭の上を行ったり来たり、鶴丸さんの手が髪を撫でる。とてもいい気持ちだった。

 意識の消える間際、囁き声が降ってきた。

「よくおやすみ、かわいい子」


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