気付けば、闇の中に立っていた。
ちりちり。じりじり。
どこからかひどく不快な音が聞こえてくる。
前よりも、少し近い。
いてもたってもいられなくなって、その場を離れた。
一点の光さえない場所を手探りで進んでいく。足を踏み出す感触はあるけれども、何も見えない。広いところなのか、狭いところなのか、部屋なのか、道なのか。何も分からない。
いくら逃げようとも、音はどこまでもついてきた。
少し先から聞こえてくるような、しかしそれでいて、耳の中に直接響いてくるような、距離感の掴めない空気の揺らぎ。
歩いている気がしているだけで、本当は同じところを回っているだけなのかもしれない。
そんな考えさえ浮かぶほど、先の見えない道行きだった。
それでも歩きつづけると、闇のはるか彼方にぽつんとひとつ薄明かりが見えた。
灯火に誘われる蜉蝣のように、そちらに向かって歩き出した。
第十八話 八十八夜の憂鬱(前)
スーツと学生服の群れを掻き分けて、やっとのことで車外に身体を引っぱり出した。
人いきれを裂くように、車掌が甲高くホイッスルを鳴らす。すぐ後ろで自動ドアの閉まる気配がした。続いて、ぷしゅう、と圧縮空気の抜ける音。
のっそりと動き始めた満員電車は、次第にスピードを速め、一陣の突風を残してホームを走り出て行った。
降りるのが遅れたせいで、ホームにごったがえしていたはずの下車客はすでに半分近くまで減っている。数もまばらな人の間を、初夏の風が流れてきた。
風薫る五月という。しかし爽やかなはずのそれは、ぬるい手で軽く頬を撫ぜただけで、大した感慨を湧かせることなく吹き去っていった。
危なかった、と腕時計を見た。もう少しで寝過ごしてしまうところだった。
今月に入ってから身体が重く、ひとたび腰を下ろせばすぐに居眠りしてしまう。部署が変わったわけでもなく、仕事が増えたわけでもないのに、とても疲れた感じがする。
これがいわゆる五月病というやつだろうか。
主に新社会人や新入生が陥るというこの心身不調は、新しい生活によるストレスが要因だとされている。すでに入社三年目に入る私には当てはまらないような気もするが。
階段を降りて、改札を通る前にトイレに入った。
手洗台の横に鞄を置き、鏡をのぞきこむと、やつれた顔の女と視線が合った。目の下にはうっすらと血流がすけて、青っぽい隈ができている。
最近、夢見が悪い。
悪夢にうなされている訳ではない。ただ何度も繰りかえし同じ夢を見るのだった。
暗闇に立っている。一寸先どころか、自分の身体すら見えない深い闇である。そして音を聞くのだ。空気が軋んで悲鳴を上げているような、とても不快で、不安を煽る音。耳を覆っても手の平から染み透ってきて、頭の奥をじくじくとうずかせる。そういう夢だった。
ただ今日はいつもとは少し違った気がする。何が違ったのかは良く思い出せない。
◇◇◇
出社して自分のデスクに行くと、ファイルが置かれていた。ピンクの地に白い水玉模様のそれは、石坂の私物である。ファイルの中にはいつも通り、付箋の貼られた書類が入っていた。どちらかが有給をとる時はこうやって申し送りをすることになっている。
書類を確認していると、派手な柄のメモ用紙がぺらりと机に落ちた。ファイルと同じピンク色のインクで書かれた文面は、彼女からのプライベートな連絡だった。
―― 昼休み、公園裏の喫茶店で。絶対に来るべし。
私は手紙を折りたたみ、上着のポケットに入れた。
こんなことぐらい、メールか何かで言えばいいのに。
アナログ好きな石坂は時折こうやって回りくどいことをするのだ。そしてそういう場合は、たいてい何かをやっかいなことを企んでいる。
約束の時間まであと三時間十五分。今度はどんな特ダネを入手したのだろう。
「こっちこっち」
昼休みになってすぐ、裏通りの喫茶店に行くと、予告通りに石坂が待っていた。ヘアアレンジもメイクもばっちりで、まるでデートの途中で抜け出してきたみたいだ。顔のつくりは普通なのに、やたらと化粧に凝るせいでなんとなく美人に見える。それが石坂という女である。
手招きにしたがって席につくと、彼女はさっそく身を乗り出してきた。
「ねえ、彼氏ができたってホント?」
飲んでいた水を危うく噴き出しそうになった。
「それを聞くためにはるばる有給の途中に出てきたの?」
「当たり前じゃん。本命でもない男と遊ぶより、男っ気のない友達の恋バナ聞く方がずっと大事」
やっぱりデートの途中だったのか。お相手の男性に合掌である。
「大丈夫だって、あんたの昼休みが終わったらまた戻るから。で、どうなの?」
「だから何度も言ってるでしょ。いたら苦労しないって」
「へえ、夜の川原で肩並べて語り合う相手が彼氏じゃないって?」
今度はうっかり気管に吸い込んでしまって、しばらく噎せた。
「ごめん、今なんて?」
「とぼけても無駄。ほら」
そう言って彼女は携帯電話の画面を見せてきた。写っているのは夜の風景だ。川と桜と、後ろ姿の人影がふたつ。見覚えのある景色に目を剥いた私は彼女から携帯電話を奪い取り、ぐいぐい拡大した。暗くてやや見にくいが、左側の人影が私だということは間違なく確認できた。
「これ、どこで」
「花見会場に忘れ物しちゃった後輩がいてさ。取りに戻る途中に、何やら川原から知った声が聞こえてきたわけよ。近づいて見てみれば、なんと!カタブツで有名な先輩と見知らぬ男が寄り添い合っていたのです……!!恋愛番長・石坂の耳に入るまで、時間はかかりませんでしたとさ。めでたしめでたし」
ぽかんと口が開いた。
この前の花見で、私はまれにみる深酒をした。結果として彼に思い出すのも恥ずかしい迷惑をかけたのだが、まさかその現場を知人に見られていたとは。
「仲睦まじく顔を寄せた後、男は女を抱えて歩き去っていきました。それも、誰かさんの自宅の方へ。さて、その後二人はどうなったのでしょうか!?」
現場の◯◯さん、どうぞ!と言わんばかりに、マイクジェスチャーをしてくる石坂。
第三者から告げられる大失態の全貌に、ふつふつと冷や汗が浮き上がってきた。朝起きたら和室の布団で寝ころがっていたのは、そういうことだったのか。リビングに顔を出すと何事もなかったように「おはよう」と言われたものだから、てっきり自分で歩いて帰ってきたのだと思っていた。
「相手の男がピンぼけなのが残念でならないわあ。で、黙ってるけど図星?ねえねえ、朝チュン?」
マスカラでたっぷりとしたまつ毛をそよがせて、黒目がちな目がこちらをじっと見つめてくる。
図星なものか。鶴丸さんと私の間にそういった感情は全く存在しない。ただの同居人である。しかし男女がひとつ屋根の下で暮らしていることには違いなく、受け答え次第でなんなくゴシップネタに成り下がるであろうことは容易に想像できた。現状を誤解なく説明するには、と私は必死に頭を回転させた。
「……いとこ」
「いとこォ?」
「そう、いとこ。大学に通うのに、うちが都合いいからって」
やぶれかぶれの言い訳だったが、意外にも石坂は口をつぐんだ。下手な鉄砲数撃ちゃ当たるとばかり、その隙に口からでまかせをぺらぺら述べ立てる。
「海外に住んでたんだけど、今年から大学院生で、こっちに来たの。齢が近くて小さい時は良く遊んでたんだ。今でもすごく仲が良くて」
「本当?」
「本当。お花見の日は帰りが遅いから、心配して見に来てくれたんだ」
これは嘘ではない。真実を混ぜることで嘘は見破られにくくなる、と誰かが言っていた。
「なんだあ。せっかくあんたにも春が来たと思ったのに」
テーブルに肘をついた石坂は、つまらなそうにストローで氷をつついた。どうやら窮地はしのげたらしい。
「まあ、彼が来てから毎日楽しいけどね」
じゃあ私はこのへんで、と机の上に千円札を一枚置き、席を立った。
獲物を逃した石坂はひらひらと不景気そうに手を振った。