第十九話 八十八夜の憂鬱(後)
「よう!今日もお勤めご苦労だったな。夕餉は家主殿の好物だぜ」
鶴丸さんは白い歯を見せながらとびっきりの笑顔を見せた。犬でも可愛がるかのように頭をぐりぐりと撫でてくる。
近頃、鶴丸さんはとても機嫌がいい。
元々の天真爛漫さにますます磨きがかかり、私の不調とは正反対に……どころかまるで私の精気を吸い取っているかのように活き活きと輝いている。さきほどのような笑顔のサービスなど序の口である。今はもう慣れてしまったからいいけれど、初対面であんな顔を見せられていたらどうなっていたか分からない。彼が本気で愛想を振りまいたら、それはそれは恐ろしいことになるだろう。主に異性関係が。美しい人は少々ツレないくらいでちょうど良いのかもしれない。
「さあ、こっちへ」
イスを引き席を勧めてくれたので、お言葉に甘え一足先に座ることにした。できたての料理がテーブルにどんどん並べられていく。
準備が整ったので、二人一緒に「いただきます」と手を合わせた。
「すごく美味しそうです」
「まあ食ってみろ。話はそれからだ」
日がな一日家にいるだけあって、すでにだいたいの家庭料理をものにしてしまった鶴丸さんだが、最も完成度が高いのはやはり和食だった。黄金色のきんぴらごぼうに箸をつけると、濃い目の味付けがぴりりと舌を震わせた。ベテラン主婦も裸足である。
「どんどんおいしくなってますねえ。すばらしい」
「だろう?たゆまぬ修練の成果さ。今まで賄いなぞしたことがなかったんだが、やってみるとなかなか面白いもんだ」
ミツタダの気持ちがようやく分かった、と鶴丸さんはひとり頷いた。
「ミツタダさんはお友達ですか?」
「正確には違うが、家主殿の言葉で表すとしたらそれが一番近いんだろうな」
鶴丸さんが他人の名前を口にするのは初めてのことだった。“お友達”について訊いてみたい気持ちはあったが、いつも通り追及はやめておいた。
「それにしても本当にすごい。味はもちろんですけど、例えばこのニンジン」
私は煮しめを指さした。花びらの形に細工された人参が、優雅に花を添えている。
「よくこんな器用なことができますね。専用の料理グッズでも使ったんですか」
「とんでもない、包丁さ。生まれたばかりの若造だが、分をわきまえて良く働く」
当然のようにそう言うと、鶴丸さんは人参をぱくりと口に放り込んだ。
「包丁ですか。こんなに難しい使い方をしたら、私ならきっと手を切っちゃうでしょうね」
「刃物を上手く使うコツ、知りたいか」
「ぜひ教えてください!」
箸を置いた鶴丸さんは、テーブル越しに私の手首を掴んだ。天井を向いた手のひらの上を、白い指先が一文字に這う。肌を切り裂くナイフのように、ゆっくり、鋭く、艶めかしく。
「『黄泉路によばれた其の時は、お前の刃で玉の緒を』―― そう言ってやれば、どんな刀もイチコロだ」
「……本気で言ってます?」
「まさか。冗談さ」
◇◇◇
夕食と入浴を終えて、私はぼんやりとテレビを眺めていた。
私が先にお風呂に入って、鶴丸さんが出てくるのを待って、少し話してから寝る。これがいつもの流れである。お風呂について、私は男女どちらが先に入ろうとも全く気にならないし、外を出歩いてきた分、私の方が確実に汚れているはずなのだが、彼はいつでも一番風呂を譲ってくれる。どっきりが絡まないかぎり、婦女子優先を地で行く男である。
もうそろそろ出てくる頃だろう、そう思った時、ぺたぺたと廊下を歩いてくる音がした。
「今日もいい湯だった」
リビングに入ってきた鶴丸さんは、私の隣に腰を下ろした。男性の体重を受け止めて、ソファが深く沈んだ。
「風呂につかるというのは何度経験しても妙な感じだ。だが、癖になる」
暖かくなってからの寝間着は半袖のTシャツだった。袖口からのぞく腕は、儚げな色こそ女性のようだが、少しでも力を込めればしなやかな筋肉が隆起する。素人目に見ても無駄なく鍛え上げられた身体だった。
「今更ですけど、剣道歴はどれくらいなんですか」
「剣道じゃなくて剣術だ。まあ、剣道にせよ剣術にせよしっくりは来ないが」
「じゃあとりあえず剣術歴で」
「自ら剣を握るようになったのはごく最近だ」
記憶をたどるように、彼は少しまぶたを伏せた。
「けれど、それでも家主殿にとっては決して短くない時間だろうな」
こちらを向いた瞳は不思議な色をたたえていて、私を強く惹きつけた。目の前の私とどこか遠い場所の両方を、二つ重ねて見透している。見えているけど、見えていない。見えていないけれど、見えている。私と彼、透明な視線が通じ合った。
だがそれも束の間のこと、鶴丸さんはすぐにいつもの様子に戻り、訝しげな表情で尋ねてきた。
「で、なぜ急に?」
良い筋肉だったからです、という本音は飲み込んで、それらしい理由を取ってつけた。
「雪合戦の時の鶴丸さんをふと思い出して」
「ああ、なるほど」
鶴丸さんはなぜかほっとしたように手を打った。
「雪合戦の時は小枝だったがな。悪くない動きだっただろう」
「ええ。あのあと家の中で『寒い』『手が冷たい』って散々喚かなければ、もっとかっこよかったんですけどね」
「それは言わない約束だぜ、家主殿」
俺は寒いのがいっとう苦手なんだ、と鶴丸さんは苦笑した。
◇◇◇
鶴丸さんにおやすみを言い、二階に上がると、だるかった手足がほんの少しだけ楽になった。
ここ最近ひどく身体が重い。一体どうしたというんだろう。
明日の用意をするために、のそのそと隣の和室へ向かった。着替え・化粧品・仕事道具など荷物はすべて和室に放り込んである。寝室として使っている洋室は非常に狭く、マットレスを敷くだけでいっぱいいっぱいなのだ。広い和室ではなく窮屈な洋室で寝ることにしたのは、元は言えば“鍵がかかるから”という単純な理由だった。今となっては部屋に鍵をかける必要性なんてこれっぽっちも感じないし、そもそも布団で寝ているのだから、洋室を物置にして和室を寝室にする方が理に適っている。
適っている、のだが。なんとなく和室では寝たくないのだ。
着替えを取り出して、身に付ける順番通りに並べていく。インナー、シャツ、スカート、靴下。スーツも嫌いではないが、肩回りが余計にだるくなる気がして、最近は着ていない。
明日の準備を終えて、私は息をついた。
古びた畳にはうっすらと埃がたまっている。最後に掃除したのは一ヶ月ほど前だ。梅雨が来る前にもう一度掃除できればいいのだが。
今週の土日にでも、と指折り予定を数えていた時、ふとあることを思い出した。
「そうだ、確か」
私は押入れの前に立ち、戸を引き開けた。
押し入れの中に鎮座していたのは、大掃除の時に見つけた古いダンボール箱だった。手を突っ込み、感触だけを頼りにお目当てのものを引っ張り出す。暗闇から転がり出てきたのは、例の小さな巾着袋だった。
大掃除の時の虫騒動でとっさに箱に戻して以来、すっかり忘れてしまっていた。
巾着袋と着替えを持って寝室に戻り、蛍光灯の下で中身を確認した。
小さな巾着袋の中には、マトリョーシカのようにさらに小さな袋が入っている。ピンク色の薄汚れたそれはお守りだった。お守りと言っても布の中に何かが固いものが縫い閉じられているだけで、神社の名前や「交通安全」「無病息災」などの文字はどこにもない。普通のお守りに比べれば、ずいぶんとお粗末なつくりだ。
懐かしい姿を手に乗せて、古い記憶と照らし合わせていった。
ランドセルの横にぶらさがっていた時代はもう少し濃い桜色だったし、布の感触ももっとやわらかかったような気がする。
くるりと手の上で裏がえしてみて、そこにあったものに私は首をかしげた。
「こんな汚れあったかなあ」
お守りの裏、右下の隅の方が黒っぽく汚れている。顔を近づけてみると、焦げた匂いが鼻をついた。
巾着の中が汚れていたのか。と思い確認してみたが、どうもそういうわけではなさそうだった。
「持ち歩くのはちょっと無理かな……残念だけど」
動かすとパラパラと黒い炭粉が落ちた。鞄の中で散らばって書類についたりしたら大変だ。諦めた私はお守りを巾着に戻して、机の引き出しの奥へとしまった。
今日こそ夢を見ませんように、と願いつつ、布団に潜り込んだ。
◇◇◇
「じゃあ、お先に上がります」
たまっていた仕事を楽々と終わらせて、会社を出たのは定時過ぎのことだった。
朝から体調が良く、仕事が非常に捗ったのだ。
昨日までは打って変わって、身体がとても軽かった。昨晩は久しぶりに例の夢を見なかったから、そのせいかもしれない。
早々に駅に着き、電車に乗ったが、時間が早いせいで乗客はまばらだった。窓の向こうの山の端やまのはに、夕日がゆっくりと沈んでいく。
停車駅でドアが開くと、小学生ぐらいの子供が三、四人、大きな荷物をかついで乗り込んできた。皆一様に、白い胴着と紺色の袴を身につけている。手に細長い袋を持っているところを見ると、おそらく剣道少年だろう。邪魔にならないところに防具を置いた彼らは、額を突き合わせ試合がどうだの、師範代がどうだのと会議をはじめた。電車内に気を配り、両手で筒を作ってこっそりと話し合っている。まさにその師範代に人に迷惑をかけないよう日常生活から厳しく指導されているのだろう。幼い少年剣士たちが折り目正しくあろうとする一生懸命な姿は、健気で微笑ましかった。
耳慣れたアナウンスを合図に、私は電車を降りた。
駐輪場から山手を見れば、太陽はもうほとんど沈んでしまって、少しばかりの残照が雲を薄朱に染めているだけだった。
身体が軽ければ、ペダルも軽い。私を乗せた自転車はあっという間に家の前に着いた。
愛車を庭に入れようとして、玄関前に誰かが立っていることに気付いた。背の高い人影だ。
「鶴丸さん?」
「う!家主殿。今日はずいぶんと早いお帰りだな」
慌てたように振り返ったのはやはり鶴丸さんだった。手の中でかちゃりと鍵の音がした。
「お出かけですか?」
「いや、今帰ってきたところだ」
「そうなんですか。珍しい」
「すまん、急いで夕餉をあたためるから」
冬の終わり頃から、鶴丸さんは一人で外出できるようになった。私がいない間、買い出しに行ったり、散歩に行ったりと自由に動きまわっているようだ。ここまで遅いのは珍しいことだったが、咎めるつもりは全くなかった。
それくらい鶴丸さんも分かっているだろうに。
「鶴丸さん、夕食の準備くらい自分でできますよ。行きたいところがあるならゆっくり行ってきてくれて―― 」
「そういう訳ではなく、今日は偶々遅くなっただけだ。偶々」
ぼんのくぼを掻きながら、彼は言葉を濁した。
「まさか家主殿がこんなに早く帰ってくるとは思わなかったんだ」
「今日は調子が良くて残業しなくてもすんだんです。たまたま」
「そうか。まあ人間、調子の良い日もあるわな。ところで家主殿、今日は初鰹のたたきにしてみたんだがどうだろう」
鶴丸さんはごまかすように咳払いをし、あからさまに話題を変えた。とは言え、彼の言動が妙なのは今に始まったことではないので、特段気にはならなかった。今晩のメニューの方がよほど重要である。
「旬の物ですか。いいですねえ」
「初物を食うと七十五日長生きすると言われていてな。今は時季を問わずどんな物でも簡単に手に入るだろう?だからこそ、こういうものを食うのがいい」
「ありがたや、お心遣い痛みいります」
「家主殿にはしっかり長生きをしてもらわねばならん」
「でないとまた宿なしになっちゃいますもんね」
私は鶴丸さんと一緒になって笑いながら、玄関に入った。
先のことについて口にするのを避けてきた私たちだったが、あの夜桜酔っぱらい事件をきっかけに、こういう軽口も交わせるようになった。私がそうであったように、鶴丸さんもまたこの生活の不安定さを肌で感じていたのだろう。
今だって状況は何も変わっておらず、どんな理由でここに居るのか、いつまでいるのか、そんなことはひとつも分からない。が、もしその時が来ても、彼はきっと黙っていなくなったりはしない。
そして、今の私にはそれだけで十分なのだ。
「どうした家主殿?」
「いえ、晩御飯楽しみだなって思って」
「ああそうだ、忘れていたぜ」
「ん?」
「おかえり」
「あ、ただいま」