近頃、鶴丸さんの様子がおかしい。
具体的には、外出の回数が急激に増えたことである。今までなら昼間に少し買い出しに行くぐらいで、夜に出かけることはほとんどなかったのに、今月に入ってからは三日に一回、多い時は二日に一回、私と同じか、私よりも遅く帰ってくる。生活がだらしなくなったのかと言えば、そうでもない。そういう日はきちんと夕食を作り置いてくれているから。
退屈するのが大嫌いな彼のこと、家での留守番にとうとう耐えられなくなったのであろうことは想像に難くない。
ただ彼に渡しているお金は食費に少し上乗せした程度、そもそもこんな田舎町のどこに遊び場所があるのだろう、と思わなくもないのだが、追及はしない。彼がどこで何をしていようとも、私には関係ない。
―― 知る権利なんて、ないのだ。第二十話 長雨(前)
梅雨入りを数日前に済ませた土曜日の朝である。
しとしとと降り続く透明な雫は、ビニール傘の表にくっついたかと思うと、集まっては流れ、集まっては流れを繰り返している。磁石のように惹かれ合い、ひとつになっては落ちていく。
私は駅前の商店街へ買い物に来ていた。今週に入ってもう三回目である。熱気と湿気が食べ物をダメにする季節、買い出しはこまめに行わなければならない。鶴丸さんが家事を仕切るようになって以来、食材の調達は彼の仕事になっているから、本来なら今日ここにいるのは彼のはずだった。
だがしかし、鶴丸さんは今日も今日とて外出中だった。
朝起きてきたらリビングのテーブルに、おそらくは『夕方まで外出するので、昼餉は自分でお願いしたい』という旨のメモが残っていた。おそらく、というのは鶴丸さんの字が達筆を超えて、もはや古文のくずし字と呼んで差し支えないそれだったからである。他にも何文か書きつられねられていたが、文法自体が古めかしく、そちらの方はほとんど読めなかった。迷惑をかけて済まない、といった内容だと思われる。
習字の先生も裸足の筆づかい。
あんな見た目なのになあ、ともはや恒例になった感想をつぶやき、商店街のスーパーから出た。
その時、すぐ近くでがしゃあんと大きな音がした。見ればコンクリートの上に自転車がひっくり返っていて、その横で男の子が尻もちをついていた。
「痛いところはない?」
慌てて駆け寄ると、男の子はびっくりした顔のままで頷いた。見るかぎり怪我はなさそうだ。彼を助け起こしてから、私は倒れた自転車をきちんと立たせた。
「大丈夫?」
「うん」
転んだことが恥ずかしかったのか、小学生らしき彼は小さな声で返事をした。
「アーケードの下で良かったね。外だったら服がビショビショになってたよ」
「うん」
屋根の下であっても、雨の日は靴の泥や傘の水滴でどこもかしこも滑る。頭を打たなかったのは運が良い。
「滑るから気をつけてね」
そう言って、立ち去ろうとすると少年が、あ、と声を上げた。
「どうしたの」
「ブレーキが変……」
困った顔で見上げられ、私も困った顔になった。
◇◇◇
「この季節になるとね、多いんだよ。みんな滑るから」
レバーを握った自転車屋はそれに少しの手ごたえもないことを確認してメモをとった。
「といっても今日はお客が少ないんで、十分あれば大丈夫かな」
おおい、と自転車屋はバックヤードに声をかけた。店の奥から出てきたのは、やはりあの新人の青年だった。私と目が合ってぺこりと会釈をした。
自転車屋が二言三言、指示を出すと、青年は再び奥へ行ってパイプ椅子を二脚持ってきた。
「あの、こちらにお座りください。すぐに終わりますので」
「だって。座らせてもらおっか」
「うん」
知らない人間と自転車屋に来ていることに緊張しているらしく、少年は相変わらず無口だった。
奥に引っ込んでいった自転車屋の代わりに、青年が自転車のそばにひざまずいて修理を始めた。この前の帰り道、自転車の不調を直してくれたのは確かこの人だったはず、と私は声をかけた。
「この前はありがとうございました。おかげで無事に帰宅できました」
「いえいえ、こちらの不手際でしたので」
青年はワイヤー部から視線を外して愛想よく笑った。入社したての頃に比べるとずいぶんと小慣れた感じになっている。若者の成長は早いものだ。
とうとう梅雨入りしてしまいましたねえ、とか、今度の日曜日に商店街の抽選会があるの知ってますか、とかどちらからともなく世間話を交わしていると、ずっと隣で黙っていた少年が私の袖を引っ張った。
「どうしたの」
「……トイレ」
「すみません、お手洗い借りてもいいですか」
青年は、はいもちろん、と言って左の奥の方を指さした。
「じゃあ、私はドアの前で―― 」
「一人で行ける」
意外にもしっかりとそう言った少年は店の奥に消えていった。その後ろ姿を見届けて、青年はおそるおそる尋ねてきた。
「……お子さんですか」
「いえ、実はさっき」
かくかくしかじか、商店街であった出来事を伝えると、彼は安心したように息をついた。
「なるほど、そうだったんですね」
「私そんなに老けて見えますか」
わざとらしく眉を顰めてみると、彼は面白いほど動揺した。
「いいえ、そうではなく!なんというか、すごく落ち着いた人だなと……!いや、そのっ、前々からっ……!」
「冗談ですって」
そう言って笑うと、青年も黒髪を揺らして笑顔を見せた。それからふと思いついたように彼は言葉を発した。
「子連れといえば。少し前に若い外国人の男性がお見えになったんですけど、ちょうどあれくらいのお子さんを連れていらっしゃいましたね。それはそれは見栄えの良い方で、買い物帰りの奥様たちがウインドーの前にずらりと並びましたよ」
「へえ。この街に外国人なんて珍しいですね」
「でしょう。僕もびっくりしたんですが、本当に綺麗な銀髪だったんです。いやあ、同じ人間とは思えませんでしたね」
「銀髪……?」
「プラチナブロンドっていうんですかねえ。ああいうの。目の色もすごく変わっていて」
「……まさか金色だったり?」
「そうです! おや、もしかしてご存じですか」
ご存じも何も。思わぬところで同居人。しかも子連れとはどういうことだ。
「どこかで見かけたような気がして……ちなみにそれっていつ頃の話ですか」
「だいたい二週間前ぐらいだったかなあ。六月には入っていたと思います」
六月と言えば、ちょうど鶴丸さんの外出が増えたあたりだ。私がこの話題に関心ありと気付いたのか、青年は話をつづけた。
「子連れと言っても、子供の方は明らかに日本人でしたけどねえ。親しそうに話していたところを見るとホームステイ先の家族か何かかな」
明るみに出た行動の一端にますますハテナが飛んだ。仲の良い子供と自転車屋? 一体どういった事情で?
「彼とその子供はどんな話を―― 」
尋ねようとしたときに、少年が手洗いから戻ってきた。
「大丈夫だった?」
「うん」
「あ、ちょうど良かった。今修理が終わりましたよ」
青年がタオルで汗を拭きながら立ち上がり、鶴丸さんの話は結局それっきりになってしまった。
店を出て、少年は早速自転車にまたがった。
「もう転ばないようにね」
「……ありがと」
小さな背中を見送った私は、買い物を再開した。
「ねえねえ、ちょっと」
パンパンの買い物袋を提げてアーケード街を歩いていると、金物屋の前あたりで声をかけられた。
声の主は近所の奥さんだった。私よりも二回りほど年上の女性で、サラリーマンの夫と二人の子供と一緒に暮らしている。仕事が忙しくて近頃ほとんど顔を合わせていなかったが、引っ越してきたばかりのころは色々とお世話になった人だ。
「珍しいわねえ。お買い物?」
「はい。たまには料理もしないと」
「いつもは銀髪の彼が来ているものねえ」
ぎょっとして夫人の顔を見た。
「あら、いつも挨拶してくれるもの。このあたりの人は皆知ってるわよ」
そうだ、あれだけしょっちゅう出入りして、近所の人が鶴丸さんの出どころに気付いていないなんて、そんな都合の良い話はない。彼との関係ばかりを気にしていて、ご近所の目というものがすっかり頭から抜け落ちていた。言葉に詰まる私を見つつ、奥さんはつづけた。
「本当に男前な従兄さんよねえ。スタイルも抜群だし」
「い、イトコ……あはは、そうですかね」
従兄、と聞いて胸をなでおろした。ありがたい、当たり障りのない言い訳をしてくれているらしい。
「私ちっとも知らなかったわ。お姉様の旦那様がイギリスの方だったなんて」
いつの間にやらイギリスに嫁いだ姉までいる様子。短期間にここまで成長したとは、と鶴丸さんの機転に内心感動した。
「そうなんです。従兄なのに全然似てなくて」
「爽やかに挨拶してくれるし、町内ではとっても評判がいいのよ」
「いやあ、外面ばかりですよ」
夜の公園で人を驚かすのが趣味だということは、心の中にしまっておいた。
「そうだ。この前、実家から枇杷がたくさん届いたの。すぐに傷んじゃうから、その前におすそ分けするわね。ふたりで食べて」
相変わらず善意の塊のような夫人である。礼を言うと、彼女は微笑み、ふと思い出したように言った。
「そういえば、今朝も彼を見かけたわ」
「え? どこでですか」
「あら、ご存じだと思っていたけど。三丁目のコインランドリーよ」
コインランドリー? 聞き返そうとすると、夫人がちらりと時計を見た。
「ああ、もう行かなくちゃ。お時間をとってごめんなさいね。枇杷は夜もっていってもいいかしら」
彼女はそう言い、自転車置き場の方へ歩いていった。
ますます訳が分からなくなった私は、その場で何度か首をかしげた。