「ただいま」
「おかえり」
家に帰ると、銀髪の同居人はリビングでストレッチをしていた。疲れた部位をほぐすように、前へ後へと身体を動かしている。
「夕方まで帰らないんじゃなかったんですか」
「そのはずだったんだが、予定が変わってな」
その「予定」とは一体なんですか。聞いてみたい気持ちがムクムクと起こってきたが、自分から言い出さないということは、やはり言いたくないことなのだろう。
「雨ばっかりですね」
窓の外では、さあさあと雨が降り続いている。
「家主殿。昼餉を済ませたら本を借りに行こうと思うんだが、一緒にどうだ」
雨がちな天気に飽々していた鶴丸さんを、暇つぶしにと近所の図書館に連れていったのは一週間ほど前のことだった。壁いっぱいの本の興奮し、「いやだ、もっといたい」と聞き分けの悪い子供のごとく書棚に張り付いていた姿は記憶に新しい。以来、暇を見つけては自分で図書館に通っていて、おかげで活字はもうすっかり読めるようになったらしい。彼は勉強家なのだ。
梅雨らしい提案に私は俄然乗り気になった。
「いいですね。今週は読書週間にしましょうか」
第二十一話 長雨(後)
ぱたぱたぱた、と水滴が葉を叩く音がする。重みでしなだれた木々の上に、後から後から雨粒が落ちてくる。天地にかかった分厚い雨のカーテンに包みこまれていると、ほかの音は何も聞こえない。聞こえるのは、雨音と鶴丸さんの吐く息の音だけ。その特別な静寂がとても心地良い。
隣を歩く長身は迷いなく足を運びながらも、決して水たまりを踏まなかった。かつて大はしゃぎしたジャンプ傘を肩にもたせかけ、すいすいと泥道を歩いて行く。水を弾くポリエステルの表面で、水滴がきらりと光った。
私の雨も光るかしらと、自分の傘をくるりと回してみた。
「雨は好きか」
鶴丸さんがぽつりと言った。
「はい」
「そうか」
「鶴丸さんは?」
「今は嫌いじゃない」
会話の間隙にも雨が入り込んでくる。ぽつぽつ。ぴちゃんぴちゃん。
「明日も雨かなあ」
「梅雨だからな」
ぽつぽつ。私たちは傘に落ちる雨のように、短い会話を繰り返した。
昼過ぎとは言え、雨天の森林公園に人の姿はない。中央広場を通り過ぎる時、ふと道の脇に深い青色を見つけた。
「あじさいですね」
「へえ、綺麗な縹だな」
ぴちゃんぴちゃん。
もう一度、傘をくるりと回した。鶴丸さんが目元を緩ませる。
初夏の緑に囲まれながら、私たちはいつもよりゆっくりと歩いた。
◇◇◇
田舎の小さな図書館は、雨の休日にも関わらずあまり人がいなかった。
若い司書が二人、受付に座っているのと、メガネをかけた初老の男性が書架の間に立っているのと、人の気配はそれっきりで、古びた館内は静まり返っていた。
鶴丸さんは慣れた様子で目的の棚に向かっていった。まずはそれぞれ読みたいものを探そう、ということになっていたので、私も小説の棚に向かった。
季節にあったしっとりとしたものが読みたい。恋愛物なんてどうだろうか。
開架の本は限られているので、ひとつひとつタイトルを確かめながら選んでいく。ふと、とある背表紙が目についた。
「『六月の花嫁』ねえ」
一時代前に流行った純愛物のような、ベタなタイトルである。ひねってばかりがいいとも思わないが、ドラマに映画にと忙しい昨今の若者の興味を引くには足りないだろう。
面白半分で手に取ってみると、表紙に描かれていたのは意外にも、ウェディングドレスではなく白無垢だった。角隠しの下から女性の口元が覗いている。曖昧に開いた紅の唇は、喜びに打ち震えているようにも、婚前の緊張に耐えかねて喘いでいるようにも見えた。
ジューン・ブライドは西洋から渡ってきた言い伝えである。古式ゆかしき花嫁衣装とのちぐはぐさに興味をそそられて、結局借りてみることにした。
他には最近よく広告を見かけるベストセラー、以前借りて結局最後まで読めずに返却日を迎えてしまった長編など、めぼしいものをいくつか手にとって鶴丸さんを探しに行った。狭い館内、探し人はすぐに見つかった。
彼は地誌の書架前に立っていた。
「鶴丸さん、見つかりましたか」
抑えた声で問いかけると、彼はあらかじめ私がそこにいることを知っていたかのように、ゆっくりと振り向いた。手の中には古い和装本がある。開かれたページにはやはり、私には読めない古い仮名文字が刻まれていた。
「ああ」
彼は読んでいた本をそっと片づけて、棚の上に重ねてあった冊子を小脇に抱えた。
「まだ時間はありますし、気になる本があるなら―― 」
「いや、もうだいたい目は通した」
さっきまでの熱心さが嘘のように、彼はあっさりと本棚から目を離して受付に向かって歩き始めた。
彼がさきほど本を立てかけた場所は地誌コーナーの片隅―― 「郷土資料」と分類された書棚だった。
利用者が少ないのをいいことに、受付では若い女性司書が二人、あれやこれやと談笑していた。柱の陰から姿を見せた鶴丸さんに気付くと、彼女たちは大慌てで姿勢を正し、よそ行きの微笑みを浮かべた。何度も利用しているが、こんなに愛想のいい顔を見たのははじめてである。
「貸出を頼む」
声をかけられた方の司書がぽうと頬を赤らめた。
さてどれほどの笑顔をサービスしているのか、と顔を見上げてみたが、なんのことはない、いつも通りの鶴丸さんだった。慣れとは恐ろしいものである。
「あの、貸出カードを……」
「だそうだ」
司書からおそるおそるお伺いをたてられて、彼は私の方を振り向いた。人懐っこい笑みを浮かべて「頼む」と言うので、私は財布から自分の貸出カードを抜き取った。
「これでお願いします」
私の名前が書かれたカードを見て、司書は私と彼を交互に見比べた。
シチュエーションはこうだ。日本贔屓の海外モデルがお忍びで旅行に来ている。日本らしい風景が見たいとか何とか言って、女マネージャーの田舎を訪問したものの、外は生憎の雨。困ったマネージャーが苦肉の策で図書館に連れてきたのである。
司書の顔に書かれたあらすじを読んで、私はふむと納得した。だいたいその通りである。
借りた本を防水の袋に入れてから自動ドアをくぐる。雨はまだ降り続いていた。
「来た時よりも強くなっている気がしますね」
「梅雨だからなあ」
傘立てから自分のものを取り出して、さあ帰ろうというところで子供が四人、柱のそばに寄り集まっているのが見えた。
「せえのおで、で走るよ」
「濡れるのやだよ。お母さんに叱られる」
「けど、帰らないともっとひどくなっちゃうかも」
などと話しながら、雨の中に手を出したりひっこめたりしている。
「傘ないの?」
知らない女から突然話しかけられた彼らは、一度はびくりと身を寄せたものの、じきに私に他意がないことを感じ取ったらしい。一番年長らしい少女が頷いた。
「朝、ちょっとだけ雨やんでて、その時に来たの」
「お母さんかお父さん、迎えにきてくれないの?」
「今日は遅くなるって」
今日は困っている子供に縁のある日だ。
「鶴丸さん、この子たち―― 」
後ろを振り向いたが、思っていたところに彼はいなかった。いつの間にか子どもたちのすぐ横に立って、身を屈めている。
「そうか、それは困ったな。だが子供が身体を冷やすのはいけないぜ」
ちっちっ、とキザに人差し指を振った後、鶴丸さんはビニール傘の柄を少女に渡した。きょとんとした彼女の頭を撫ぜてから、私に向かって頭を掻いた。
「ということだ、家主殿」
「……仕方のない人ですねえ」
鞄を開いて、本がきちんと防水の袋に入っていることを確認した。家までは歩いて十分。走って五分。
私は鶴丸さんと同じように、手持ちの傘を別の子供に手渡した。いくら小さな身体でも、四人で相合傘は厳しいだろう。
心の中でせえのおで、とつぶやいて、私は雨の中を駈け出した。私のロケットスタートに、鶴丸さんが後ろの方でぎょっとした声を上げた。振り返って大きな声で叫ぶ。
「先に帰り着いた方がお風呂の優先権を得られます! いいですね!」
「おい、家主殿、卑怯だぞ!」
「家主の命令は絶対ですので」
鞄の防水具合を確認した鶴丸さんが、図書館のエントランスを離れて走り出した。
あのスピードじゃ、あっという間に追いつかれるだろう。少しでも距離を稼ごうと水をはね散らしてひた走る。すでに上から下までずぶ濡れだった。
バシャバシャという水音がしたかと思うと、濡れ鼠になった鶴丸さんがすぐ横に姿を現した。走るのをやめて、二人並んで息を整えた。
「なかなかの韋駄天ぶりじゃないか、家主殿。飛脚にでもなったらどうだ?」
「鶴丸さんこそ。クロネコ印も飛脚に劣らず俊足ですよ」
「猫が荷を運ぶ時代か。内裏の女たちが喜びそうな話だな」
頬や背中を流れる水の感覚を楽しみながら、私たちは家に向かって歩きはじめた。
◇◇◇
シャワーを浴び終えて頭にタオルをかぶったまま、鞄の水気をはたいていると、鶴丸さんがリビングに入ってきた。
「昼間に風呂に入るというのも乙なもんだな」
「贅沢な感じがしますよね」
六月はすでに初夏である。蒸し暑い季節に合わせて、我が家の普段着はすっかりTシャツに移行していた。髪から落ちたしずくで肩口が湿っているのが分かる。
型崩れを防ごうと、熱心にカバンの水分を拭きとっていると、ソファに座った鶴丸さんに手招きされた。隣に腰掛けると、頭を掴まれてタオルの上から髪の毛をかき混ぜられた。
「うわ」
「大人しくしてろ。濡れたまま放っておくと錆びちまうぜ」
「錆びるって、鉄じゃないんですから」
「鉄も人も大して変わらん」
彼は私の頭を抱えたまま、楽しそうに笑った。
しばらく身を任せた後、ようやく解放された。まだ湿ってはいるが、水滴がしたたることはない。
満足そうに瞳を細める顔の横で、銀の細糸が濡れそぼって透明に見えた。同じ色のしずくがぽたりと垂れる。
私は、手を伸ばして濡れた頭をタオルで包み込んだ。薄金の瞳が見開かれる。気にせず、がさがさと髪の毛をぬぐった。
「家主殿手ずから拭いていただけるとはな」
「だって濡れたまま放っておくと錆びちゃうんでしょう」
言われた台詞をそのまま返すと、彼は何も言わず、されるがままになっていた。飼い主の手を喜ぶ犬のように、撫でられる度にうっとりと目を細めて。
あらかた拭き終わっても、鶴丸さんは私の側から離れようとしなかった。
「……鶴丸さん?」
「濡れたから死ぬんじゃない」
俯いて、タオルの下に表情を隠した彼は、ぽつりとつぶやいた。
「濡れたって、汚れたってすぐに拭いてくれれば、平気なんだ。独り占めしたいだなんてワガママも言わない。だから……」
彼はタオルの中から、おそるおそるといった風に私を見上げた。いつもの余裕はどこかに消えてしまって、ただ寂しそうな男がひとり、膝を抱えているだけだった。
私はまだ答える言葉を持たなかった。
だから、そっとタオルの上に手を乗せた。そして鋼色に輝く髪を丁寧に拭っていった。この上なく大切な宝物を扱うように、ゆっくりと、ゆっくりと。
肌のぬくもりを忘れた彼に、ほんの少しだけでも私の手の熱が伝わればいいのに。
窓の外で、静かな雨の音がする。