第二十二話 天つ羽衣(前)


「家主殿、できたか」

 階下から進捗をたずねる声がする。

「もう少しです。この箱を移動させれば……」

 よいしょ、と掛け声をかけて、積み重なった段ボール箱を横に寄せていく。掻き分け掻き分け、ようやく一番奥にたどり着いた私は、小さくはないが、それほど重くもないそれの首を両手で掴んで、階段に向かった。

「気を付けろよ」

「まかせてくださいって。そんなに重くないですから」

 階下からの声に軽く応えて、段差に足を下ろす。

 狭い階段に大きな荷物を通すため、身体を横向きにし、かわりばんこにゆっくりと。古家の階段は往々にして急である。手すりもすべり止めもない。

「よいしょ……いい感じ、いい感じ」

 ところが、あと半分というところまで来てひざ裏にぴりりと電流が走った。

「いっ……!」

 思わず身を庇った私は、案の定、階段の途中でバランスを崩した。荷物を握りしめたまま、一瞬後に訪れるであろう衝撃と痛みに備えて、ぎゅっと目をつぶった。

「お決まりすぎてつまらん」

 予想していた衝撃はなく、代わりに耳元で聞きなれた声がした。

「言ったそばから落ちるなよ。意外性がないぜ」

 顔のすぐ横に銀色の襟足が見えた。私を抱えているのと反対の腕で私が運んでいた荷物―― 扇風機―― を掴んだ鶴丸さんが、呆れたように見下ろしていた。

「ありがとう、鶴丸さん。扇風機が壊れなくて良かった」

「たまたま俺が側にいたからいいものの……って、あのな」

 開口一番、扇風機の心配をした私に彼は盛大なため息を吐いた。そのまま下におろしてくれるのかと思いきや、再び抱えなおして、廊下を歩き出そうとする。ずり落ちそうになって、慌てて首にすがりついた。

「歩けます、自分で歩けますから」

「運んでやるから大人しくしてろ。目を離すと仕事が増える」

 やれやれ、と呆れ顔を隠そうともしない鶴丸さんだったが、目を白黒させている私に気付くと、にやりと嗜虐的な笑みを浮かべた。

「暴れると落とすぜ」

 大人しくリビングまで運搬された私は、ソファの上にぽいと放り出された。一方、同じように運ばれてきた扇風機は丁寧に床に置かれている。

「最近、私の扱いが雑ではないですか」

「家主殿にはまたとない敬意を払っているつもりだが」

 私の抗議に真面目ぶった顔で答えて、鶴丸さんは清掃のためさっそく扇風機を分解しはじめた。この程度の単純な機械なら扱いはすでにお手のものである。次々にパーツを外していく鶴丸さんの細腕を見て、首を捻った。

「私を右手に、扇風機を左手に……鶴丸さんって意外と力持ちですよね。前も私と自転車を同時に運んでくれましたし」

「頑丈そうな見た目をしているからといって、折れにくいとは限らない。逆も然り。古今東西、逸品とは両者を兼ね備えているものさ」

「つまり、美しくて強いと」

「その通り。美しくて強い」

 鶴丸さんは「当然だ」とばかりに手を広げた。ナルシストじみた言動にも慣れてきた。彼の場合、あながち虚言とは言えないためツッコもうにもツッコめない悲しさがある。

分解されたパーツを受け取って、雑巾で埃をぬぐった。羽の部分も、網の部分も思っていたより汚れておらず、一年ぶりの扇風機はあっという間に元の姿を取り戻した。

「電源、入れますね」

 真ん中のボタンを押すと、羽がゆっくりと回り始めた。すぐに目では追えないほどの速さになって涼風を生み出しはじめると、鶴丸さんは、ほう、と感嘆の声をあげた。

「こりゃあ、確かに涼しいな」

「でしょう。こうやって口を近づけると」

 喉から出た声が震えたような独特の音へと変わる。目を輝かせた鶴丸さんが、俺にもやらせてくれ、と扇風機を独り占めするまでそう時間はかからなかった。


 ◇◇◇


 梅雨明けを目前に控えたとある夏の日のこと。

 日が暮れるのもずいぶんと遅くなった。会社を出てきたのは六時過ぎだったのに、まだ空が明るい。夜と呼ばれる時間になってもいまだ山の端に残る太陽を見ると、なんだかわくわくしてしまうのは私だけだろうか。大晦日の夜遅くになって、まだ遊んでいてもいいよ、と許された時のような、そんな気持ち。

 駐輪場から出て自転車をこいだ。七月に入って昼間はすっかり蒸し暑くなってしまったが、夕方になると涼しい風が肌を撫でてくれる。なんとも気持ちのいい帰り道だった。

 初夏の商店街にはそこかしこに七夕まつりのポスターが貼られていた。

 最後に行ったのはいつだったろうか。祖母と出かけた秋祭りか、それとも。

 ねえお祭り行こうよ、と若いカップルが手を繋いでポスターの前を通り過ぎていった。

 ―― 鶴丸さんはどうなんだろう。

 ふとそんなことが思い浮かんで、頭を振った。

 角を曲がって大通りに出ようとした時、おうい、と後ろから声が聞こえた。振り返って見れば、自転車屋が店先から顔を出していた。

「この前、姉ちゃんがブレーキ直してやった坊主、いたろ」

 頭の中に雨の日に出会った少年の顔が浮かんだ。

「あいつがな、二、三日前ぐらいに顔出して、あんたにお礼をしたいってな」

 薄緑の作業着を着た自転車屋がぴらりとメモ用紙を見せてきた。幼いひらがなででここから少し離れた住所が書かれている。

「ええと、これはご自宅の住所なんでしょうか」

「多分な。この曜日の夕方から夜にかけてはだいたい居るってよ」

 そう言って、黒く汚れた指で示した先には、月、水、金、の文字。

「習い事がない日とか、そういうのかなあ」

「礼を言われる方が訪ねるのもおかしな話なんだが、まあ子供だから許してやってくれ」

 壁の時計を見ると、時刻は七時前。外はまだ明るい。伝言を受けてくれた自転車屋に礼を言って、私は再び自転車にまたがった。

「えっと、三丁目、三丁目」

 メモの住所は駅を挟んで我が家とは正反対の場所を示していた。同じ市内ではあるが、普段あちら側に行くことはない。旧家が立ち並ぶ住宅街などしがないOLには今更何の縁もないのである。

 細い路地を抜け、スイスイと先を自転車を駆る。熟知している道だから迷うことはない。次の角を曲がればどこそこ、その次は三つに別れて、と地図など見なくても進むべき道はすぐに分かる。なんのことはない。昔、このあたりに住んでいたことがある。それだけの話である。

 古い町並みに分け入るうちに、自然と進むスピードが落ちた。

 未練も思い出もとうの昔に置いてきたのに、いざ目にすれば、変わらない景色に懐かしさがにじんだ。

 このあたりで過ごした期間はたった数か月である。幼かったせいで、当時の記憶には抜け落ちている部分も多い。けれども私の身体はこの景色を忘れてはいなかった。

 気が変わって、目的地を前にふと道を逸れた。土塀に挟まれた細道をゆく。ずうっと進んで行って、とうとう突き当りに辿りついた。自転車にまたがったまま、奥をのぞきこむと、雑草に覆われた広い空地が私を出迎えた。 

 私が一時期身を寄せていた祖母の家は、ここにあった。

 ざあ、と音をたてて風が青草を撫ぜていく。

 主を失って久しい地が嘆きに身を震わせているようだった。

 寂幕じゃくまくの庭。

 懐かしさはいつしか掻き消えていた。いつかここから中身のない棺が運ばれていったのだ。

 恐ろしいようなぞっとするような気持ちに襲われて、私はかつての家に背を向けた。

 やっぱり見に来るんじゃなかった。

 祖母は本当は死んだのではない。

 ―― 消えてしまったのだ。


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