第二十三話 天つ羽衣(中)


 三丁目七番地、と電信柱の札を確認する。やはり何度見てもメモの通りだった。

「どうしよう。入っていいのかな」

 さきほどから、入るに入れず、帰るに帰れず門の前でうろうろしていた。目的地に辿りついたはいいが、出迎えてくれた門構えは予想とは大きく異なるものだったのである。

立派な門。開け放された木造の大きな扉。敷地の中にはところ狭しと小さな自転車が並べられ、縁側からは絶え間なく子供の声が飛んでくる。

 番地通りの住所にあったのは、古びた民家でも大きなマンションでもなく。

「どうみても剣道場、だよね」

 やああ、メン、コテェ、という甲高いかけ声。床と擦れ合った裸足の摩擦音。どん、と響く踏み込みの音。中で剣道の稽古が行われていることに疑いようはなかった。

 おそらく中にあの少年がいるのだろうが、部外者が稽古中に上がり込んでいくのはあまりにも気が引ける。万が一、当の本人が欠席だったりしたら目も当てられない。どうしよう。

 門の内側へ首を出したり引っ込めたりしているうちに、音がやんだ。少しして、ざわざわという話し声が聞こえ始める。休憩時間に入ったのだろうか。

 中の様子を確かめようと身を乗り出すと、出てきた少女とちょうど目があった。小学校の高学年くらいの彼女はやはり白の胴着と紺の袴を身に付けていた。

「自転車を直した男の子にこの場所へ呼ばれたんだけど……」

 我ながら要領を得ない説明である。せめて本人の名前ぐらい聞いておくべきだった。

 こちらを疑わしそうに見ていた彼女は、少し考えた後、閃いたようにこう言った。

「あ、もしかしてリョータの?」

「ちょっと名前が分からなくて……こういうメモをもらったんだけど」

「リョータぁ! 自転車の人、来てるよ!」

 少女の声が道場に響き渡ってすぐ、中から飛び出てきた影があった。驚いた顔でこちらを見上げた少年は、やはり雨の日に出会った彼だった。胴着に身を包んで赤い胴を付けた彼は、前よりも大人びて見えた。

「わ、わざわざありがとうございますッ!」

 リョウタくんははっと我に返ったように頭を下げた。慌てて、垂れの中から小さな封筒を引っ張り出したかと思うと、そのまま私の手に押し付けた。紺色の汚れがついたそれには、この前修理でかかったお金がそのまま入っていた。

「ありがとうございましたッ!」

「どういたしまして。こちらこそ気を遣わせちゃってごめんね」

 キビキビと折り目正しい礼をした彼に、律儀な少年もいるものだ、と感心してしまった。少々遠出をさせられたが、気分はちっとも悪くない。

 道場の中から大人の声が聞こえる。少年は何か返事をして、再びこちらを向いた。 

「あの、師範と先生が上がって行ってくださいって。せっかく来てくれたから」

「これ以上稽古のお邪魔するのも……いや、やっぱりお言葉に甘えようかな」

 困った顔で見上げてくる少年に、早々に折れた。

 開け放された戸の近くには小さな運動靴がたくさん並べられていた。玄関に腰掛けて靴を脱いでいると、後ろから誰かの走ってくる音がした。リョウタくんが叫ぶ。

「先生!」

「いやあ、申し訳ありません。うちの教え子がご迷惑をおかけしたみたいで」

「いえいえ、とんでもありません」

 「先生」と思しき人物に背後から声をかけられた私は靴から目を離して振り返った。そしてたっぷり五秒ほど固まった。

「は?」

 振り向いた先、私と同じく、いやそれ以上に驚いた顔をしていたのは――

「こんなところで何やってるんですか」

「……それは俺の台詞だが」

 白と紺の武道着に身を包んだ鶴丸さんだった。


 ◇◇◇

「涼太の自転車を修理してくれた人が、まさか鶴丸くんの従妹君だとは。世間とは狭いものですなあ」

「そうですねえ、師範さん」

「そうですなあ、師範殿」

 がはははは、と師範が威勢よく笑った。霜を置いたような髪から、すでにそれなりの年齢に達していることが窺えるが、顔色と恰幅が良いせいであまり老いてはみえない。

「人手が足らんかったところに、彼がバイトで入ってくれましてなあ。腕はいいし、気はいいし、それはもう大助かりしております」

「こちらこそ本当にお世話になってます……あ、あの粗相などは……?」

「なんのなんの、子供たちにも好かれておるし、な、鶴丸くん」

 師範の分厚い手でばんばんと背中を叩かれた鶴丸さんはなんとも言えない笑いを浮かべた。

「あなたの話も良く聞きますぞ。そもそも彼がここに来たのも――

「師範殿、それは勘弁願いたい」

 今まで黙っていた鶴丸さんが、苦笑しながら釘を刺した。

「む、そうだったな。これは失敬」

「こちらこそ失礼つかまつる。それにもうそろそろ稽古を始めねば」 

 鶴丸さんの言葉に頷いた師範は私に向かって快活な笑顔を見せた。

「あと三十分もしない間に終わります。もし良ければ最後まで見ていかれてはどうですかな」


 ◇◇◇


「黙っていて悪かった」

 道場からの帰り道、黒い自転車を押しつつ、隣で鶴丸さんがようやく一言呟いた。

「怒ってなんてないですよ。ただ少しびっくりしただけで」

 外で働き始めたのなら一言ぐらい声をかけてくれても良かったのに。

 ―― という恨み言は飲みこんだ。彼には私に逐一報告する義務などない。

 鶴丸さんは眉を下げたまま、言葉を発しなかった。何かを言いあぐねているようでもあったし、そもそも何も言うつもりがないようでもあった。

「楽しいですか、アルバイト」

「……ああ」

 広い道場で身体を動かしている彼は、それは自由で活き活きとして見えた。私と彼が暮らすあの狭い一軒家は、鶴丸さんには閉じ込められておくには窮屈で退屈に過ぎたのだ。自分を鈍らせておくことに堪えられなくなったのかもしれない、と私は下を向いた。

 退屈していた鶴丸さんが外に楽しみを見つけたのなら、これ以上喜ばしいことはないではないか。

 頭では理解しているのに、心には彼がどこか遠いところに行ってしまったような喪失感があった。生まれたばかりの雛が初めて見たものを親だと刷り込まれるのと同じく、私に頼って生き、私以外を知らなかった彼が、ひとりで外の世界に出たことを知って、私は恐怖し、不安になっていた。

 鶴丸さんは私の所有物なんかじゃない。

 たかが、アルバイト。けれどそれをきっかけに自分の心が透けてみえてしまった。

 私は彼になんと声をかけていいか分からなくなっていた。

 鶴丸さんも口を開かない。ふたりの間には沈黙が下りていた。

「あの、鶴丸さん――

「家主殿」

 思い切って口火を切った私を鶴丸さんが遮った。白い顔を前に向けたまま、彼は淡々と言った。毎夜、晩御飯の献立を口にするのと同じような調子で。

「祭にいかないか」


 ◇◇◇

 帰宅した私は鶴丸さんに手を引かれて、黙々と廊下を歩いていた。ちょっと来てくれ、と言ったきり、彼は何も話さない。

 和室に連れてこられて、畳の上に座らされる。

「急にどうしたんです」

 鶴丸さんは押入れを開いて下段を覗き込んでいた。和室の上段には布団、下段には彼の衣服が入っていることを私は知っている。しばらく中を引っ掻き回していた彼だったが、あった、とつぶやいて何かを取り出した。

 両手からだらんと垂れ下がる大きさの、平たい紙包み。

 彼はそれを私の前に置くと、そっと畳紙たとうがみを開いた。姿を現したものに息をのんだ。

 とても美しい藍の浴衣だった。

 桔梗柄の紅梅小紋。手を触れると、さらりと涼しげな感触が伝わってくる。

「美しいだろう」

 鶴丸さんは慈しむように指先で浴衣を撫でた。

「だから、くれてやる」

「え?」

「どうすれば恩を返せるのか、ずっと考えていた。世話をかけるばかりで俺は家主殿に何もできていない」

 小雨が降り始めるように語り始めた彼を、私はぽかんと見つめていた。

「そんな時、ふと通りがかった屋敷にこれがかかっているのを見て、どうしても欲しくなってしまってな。掛け合った家の主があの師範殿だったんだ。訳を話すと、あの御仁は『道場を手伝えば、譲ってやる』と言ってくれた。師範殿の北の方の持ち物だったらしいが―― 黙っていてすまなかったな。家主殿の驚く顔が見たくて、本当は祭の日に突然見せようと思っていたんだ」

 私の顔をのぞきこむと、鶴丸さんは眉毛を下げて苦笑した。

「じゃあ……」

 夜遅くまで出かけていたのも、今日あそこにいたのも、全部私のためだったのか。私が彼を一人家に置いてけぼりにしていた間、ずっとそんなことを考えてくれていたのか。

 うまく言葉が出てこない。言葉をつくる隙間がないほど、胸がいっぱいだった。

「……今日、あそこにいる鶴丸さんを見て、私はあなたを窮屈な家に閉じ込めてきたんじゃないのかと思ったんです。傲慢にも、あなたが頼る唯一の人になったつもりで」

 ようやく捻り出したのは謝罪とも告白ともつかない中途半場な言葉だった。鶴丸さんがため息をついた。

「やっぱりな。家主殿のことだから、どうせそんなことを考えてるんじゃないかと思ったぜ。慌てて種明かしをして正解だった」

 彼はこちらに向き直った。

「俺はな、ここに来てから退屈したことなぞ一度もないぜ」

 くしゃりと満面の笑みを浮かべた彼を見て、震える喉で返事をした。

「お祭、いきましょう」


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