第二十五話 呼び声(前)
読み終わって、ぱたんと本を閉じた。
悪くはない話だった。しかしありきたりである。図書館で借りてきた定番ロマンスに、私の心を落ち着かせる力はなかった。
美人で心の綺麗なヒロインが街角でとある男と出会い、事件に巻き込まれつつも最後には幸せになる話。やはり他人事である。
夏も盛り、八月の夕べ。
私は二階の自室で読書にいそしんでいた。階下からは夕食の準備のため、ぱたぱたと走り回る足音が聞こえてくる。エプロンをつけて味噌汁の味見をする彼を思い描いて、私は思わず唸ってしまった。いけないいけない、と頭から想像を追いやる。近頃は気を抜くとすぐにこうなってしまうのだ。
家主殿、と食事時を告げる声がする。
間の悪いことである。深呼吸をして心を鎮めた私は、リビングへ向かった。
「どうだ? 今日も旨いだろう」
目を細めた人懐っこい笑みに思わず箸を取り落しそうになる。慌てて身近な器を掴んで、中身を口へ運んだ。浮かれた思いがほうれん草と一緒にお腹の中まで流れていってしまうことを願いながら、ごくりと飲み下す。
つっかえながらも、平静を装って言葉を返した。
「はい、とっても」
「まだまだあるからな。暑さにやられないようにしっかり食え」
「ありがとうございます」
夏物のシャツから惜しげもなく晒されている白い腕が眩しい。まったく、目のやり場に困ってしまう。
「どうした? ああ、茶がもうないな」
私の挙動を勘違いした鶴丸さんが、冷蔵庫から冷えた麦茶を出してくる。ほら、と言われるままにコップを差し出すと、大きな手が私の手ごと上から包んで固定した。びりりと電流が走る。ひえ、と声をもらした私に、彼は首をかしげた。
「冷え? ちゃんと冷えてるぞ。ほら」
二リットルの麦茶ポットを片手で軽々と掴んだ鶴丸さんは、確認するように目の前でちゃぷちゃぷと揺らした。
「あ、ありがとうございます」
重なった右手を今すぐにでも引っ込めたい。そんな衝動と必死で戦っているうちに、ようやくコップが満たされた。解放された手の感触に人心地つく。まだ鼓動が少し早かった。
今まで気にもならなかったスキンシップが、こうしていちいち心を揺り動かす。ここ二週間近く、生きた心地がしなかった。
そんな私の心中を知ることもなく、鶴丸さんはことあるごとに微笑み、手を取り、身体に触れた。人懐っこい彼にとってはちょっとした親愛の情の表現なのだろう―― が、今の私にとっては天国と地獄を足して二で割ったような残酷な時間だった。
これ以上ボロが出ないうちに、と急いで夕食をかきこんだ。美しい銀髪も金の瞳も、今は目の毒でしかない。
「ごちそうさま。美味しかったです」
「それは良かった」
使った食器を洗い台に運ぶと、鶴丸さんは「俺が洗うから放っておけ」と言う。今までなら「そうですか、じゃあお願いします」と図々しく押し付けていたのだが、最近は何でもかんでもお願いごとをするのが申し訳なく、自分で片づけるようにしている。
泡立てたスポンジで油分を落としていると、すっと隣に長身が立った。
「そう遠慮するなよ。気持ち悪いぜ」
皿とスポンジをあっさり奪い取られる。乾いた手が私の濡れた手の上を滑っていって、その感触に再び鼓動が早くなった。拍動が伝わってしまわないように、少し距離をとる。
「仕事で疲れてるだろう。家にいる間くらい座って休め」
肘で小突かれて、洗い場を出される。私は仕方なくソファに座って、悶々とした時間を過ごした。
◇◇◇
「そうだ、家主殿」
入浴後のひと時、濡れた襟足を鬱陶しそうに手櫛で撫でつけながら、鶴丸さんが話かけてきた。毛先から滴る銀のしずくがなんとも艶めかしい。
煩悩にとらわれている私をよそに、彼はテレビのチャンネルを変えながら淡々と言った。
「明日、道場の方で宴に呼ばれていてな。帰るのが少し遅くなる。悪いが、夕餉は先に食べておいてくれ」
「へえ。道場でやるんですか」
「いいや。師範殿の屋敷で、旧友を招いてやるらしい。子供らは来ない」
相変わらず週三回のアルバイトに通っている鶴丸さんだが、そういう場にお呼ばれするのは初めてらしい。
「せっかくだから楽しんできてくださいね」
「ああ、盆も近いしな。細君に迷惑をかけないようにあまり長居はしないつもりだが」
盆、と聞いて、ふと私もとある用事を思い出した。
「お盆になったら祖母のお墓参りに行くつもりなんですけど、鶴丸さんはどうします?」
「ここから遠いのか」
「なにぶん山の奥で。それでもまあ一時間ぐらいです。前も言った通り、祖母はずっとこの街に住んでいたから、本来なら四丁目の川裏の墓地に入れてあげたかったんですけど……」
余計なことを言った、と口を噤んだが、時すでに遅し。鶴丸さんが身を乗り出した。
「けど?」
「私以外にまともな縁者がいなかったのと、あとは……実は、近所の人が気味悪がってしまって」
聞いた言葉にやはり眉を顰めた彼だったが、そのまま続きを促した。
「おばあちゃん、遺体が見つかってないんです」
葬儀の日、確かに見たのだ。古家から運び出された棺には中身が入っていなかったのを。
「ある日、夕方ごろにふらっと出ていったまま、戻ってこなかったんです。警察の手も借りて近くの人たちで捜索したものの、結局どこに行ったのか分からなくて。齢も齢だし、おそらくもう……ということで数年してからお葬式をしたんですけど。今から考えるとおかしい話ですよね。行方不明の人のお葬式を勝手にしてしまうなんて」
唯一、私を可愛がってくれた彼女が行方不明になったのは、一緒に暮らし始めて半年ほど経った頃だった。詳しいことは覚えていない。ただいくら待っても帰って来ず、泣きながら交番に行ったことだけが記憶に残っている。遠く離れた親戚の家に引き取られた後は、幼いということもあり、祖母の処遇について知らされることは一切なかった。
またおばあちゃんと一緒に暮らしたい、と思っていた私の夢が二度と叶わないものであることを、葬儀の日にはじめて知ったのだった。
「小さな町ですから、当時はわりと話題になったみたいで。人目を気にした叔父が結局、お墓も山奥へやってしまったんです。その孫が舞い戻ってきているなんて誰も知らないとは思いますが」
話終えた私に、鶴丸さんは一言つぶやいた。
「神隠し」
「え?」
「たそがれが大禍時に移るその時、決して通ってはいけない道が開く。しるし無き者は界に彷徨い、呼ばれた者はあちらへ渡る。どちらにせよ行きては帰れぬ細道だ」
白い顔は表情を失っていた。人ではない何かが人の姿をして私に語りかけている。そんな風にさえ思えた。蒸し暑さはいつしか消えていて、蛇の舌に舐められたような寒気が背を走った。
「……という昔話があるんだ。どうだ、怖かったか?」
息を詰めていた私に向かって、彼はぺろりと相好を崩した。あっはっは、と声を上げながら私の顔をのぞきこむ男はすでにいつもの鶴丸さんだった。全身から力が抜ける。
「怖い話はやめてくださいよ。苦手なんですって」
「家主殿があんまり真剣な顔をしているものだから、ついな。それに、真夏が怪談の季節だというのは昔からの常識だぜ。百物語しかり、四谷怪談しかり」
「頼みますよ……ひとりでトイレに行けなくなったらどうしてくれるんです」
「びくびくしながら厠にいく家主殿も捨てがたいなあ。ちょっと音を立てただけで飛び上がってくれるに違いない。今から百物語でもするか?」
「絶対いやです。私、持ちネタないですし」
「心配するな。百ぐらいなら俺がぜんぶ語ってやろう」
濡れタオルをぶつける構えを見せると、にやにやとしていた鶴丸さんはようやく口を閉じた。
「やれやれ、乱暴なお嬢さんだ……ああ、さっきの墓参りの話だが、俺はやっぱりやめておく。そういえば道場の稽古に呼ばれていたんだ」
すまないな、と軽く謝って、その話は終わった。
お盆に稽古があるという奇妙さに気付いたのは、布団にもぐりこんでからだった。しかしすでに頭は眠気に支配されはじめており、深く考える間もなく眠りについた。