第二十六話 呼び声(中)
駅前で買い物を済ませて、自転車にまたがった。
今日は少し遅くなってしまった。お盆休みに向けて、済ませておかなければならない仕事が山積みだったのだ。明日中には確実に終わらせて、明後日からは気持ちよく休暇に入りたいところだ。
前かごで、夕食のお惣菜と明日の朝ごはんが揺れている。鶴丸さんはいつも通り夕食を用意していくと言ったのだが、さすがにそれは頼り過ぎだろう、とコンビニに寄ることにしたのである。彼が人様にお呼ばれするのはめったにない機会なので、こういう時ぐらいは家のことを忘れて楽しんできてもらいたい。
蒸し暑い風を浴びながら、こぎ進めること十五分。帰り着いたころには汗だくになっていた。自転車を庭に入れようとして、彼の黒い自転車がすでに止まっていることに気付いた。
もう帰ってきているのだろうか。
時計を見るともう九時だった。いつもより遅かったのは私の方だったらしい。
ビニール袋をがしゃがしゃと言わせながらリビングを開けると、銀色の後ろ頭が見えた。
「ただいま」
「ああ、家主殿か。おかえり」
「私の方が遅かったみたいですね」
「風呂は先にいただいたぜ。宴の前に稽古があってな。汗をかいた」
見れば髪が濡れている。ソファの前に回り込むと、彼は珍しく浴衣を着ていた。
「今日はTシャツじゃないんですか」
「どうも暑くてなあ。こういう時は慣れた格好がいい」
鶴丸さんは銀色の襟足をかき上げて、手うちわで風を送った。その拍子に胸元が少し肌蹴けて、隠れていた白い素肌が覗く。ぽたりと毛先から水が垂れ落ちた。
その様がなんとも扇情的で、私は思わず目を逸らした。
「どうした? 家主殿」
「いえ、なんでも―― 」
目が合った鶴丸さんはへえ、と口角を上げた。長い足を組み替えて、彼は優雅な笑みを浮かべた。
「なるほど。家主殿は俺の身体に興味があると」
「……どうしてそういう話になるんでしょうか」
「気を遣わなくてもいいんだぜ。ほら、おいで」
ぐいっと強く手を引かれて、ソファに倒れこんだ。
「しなやかで鋭い。美しさは力の象徴だ」
私の腰に手を回し、鶴丸さんはとろけるように微笑んだ。鋼のようなきらめきを放つ金の瞳が心を捉えて離さない。熱い手が私の首筋をいったりきたりしていた。
心臓がどくんとはねる。
「ああ、ここだな」
ゆっくりと滑らせていた手を、すっと止める。首筋、奥歯の下あたり。脈々と早鐘を打つそこは。
「知っているか、家主殿。ここを斬るとな、それはそれは綺麗に飛沫くんだぜ」
何が、とは言わない。
細めた瞳の奥に恍惚の色がよぎった。
「紅に染まった俺を見られるなんて、これ以上にめでたいことはない。なあ、そうは思わないか」
彼の目は、私の肌のその向こう、身体に流れる血潮を見つめていた。妖しげとさえ見える微笑みが近づいてきて―― 私は鶴丸さんをソファから叩き落とした。
「はい、酒臭っ!」
くんくんと鼻を動かす。動揺していたのと、部屋中に匂いが充満していたのとで、気付くのが遅くなったが、非常に酒臭い。窓を開けると、外から新鮮な空気が流れ込んできた。
「どれだけ飲んだんです」
「三升、四升? いやもっとかな」
「はあ? 一人でですか」
「もちろん」
ソファの下に寝転がった彼のとんでもない答えに、私は頭を抱えた。急性アルコール中毒という言葉を知らないのか。
「道理で変だと思った……」
「俺らは基本的に酔わんのだがなあ。やはり肉の身体は勝手が違う」
「知りませんよ、そんなこと」
酔っ払いの戯言を聞き流しながら、私は鶴丸さんを引っ張り起こした。
大きな身体がぐでんと肩にしなだれかかってくる。
「半分は自分で歩いてくださいよ。さすがに抱えきれない」
「すまん、家主殿」
すぐ横から覇気のない声が返ってくる。
「だが、こういうのも悪くはないなあ。こうやって人に背負われていると、昔を思い出す。大事に大事に飾られる、それよりもずっと前、まだ俺がただの腰物だった頃」
まどろみを声に乗せながら鶴丸さんはゆっくりと語る。
「大切にしてくれるのはありがたいが、人の側にもおれず使われず、というのは退屈なもんさ。退屈で悲しくて……寂しい」
あまりにも悲痛な声で語られた夢見言。夢現の話なのに我が身を切られるような思いがした。
畳の部屋に布団を敷いて、彼を寝かせる。おやすみなさい、と言って離れようとすると、そうっと右手を掴まれた。
「だから俺は君のことがどうしても忘れられなかったんだ」
囁くような声が、私をその場に釘付けにした。