闇の中に薄明かりがひとつ灯っていた。

 誰に言われるでもなく、おぼろげな灯火に向かって歩き始める。

 歩いても歩いても距離は一向に縮まらない。前と同じだった。

 どれぐらい歩いただろうか。

 行く手に人影が立っていた。何も見えない闇の中なのに、なぜか若い女であるとわかった。

 近くまで行っても彼女はこちらに気付かず、ひたすらに闇を見つめていた。その横顔は怯えているようにも、戸惑っているようにも、ただぼんやりしているだけにも見えた。右手には草子を一冊抱えている。

 なんとはなしに呼びかけた。女がふっとこちらを向いた。

 似ている、と思った。

 女は、迷ってしまったの、と言った。もうずっとこの闇の中で彷徨っているの。

 彼女に明かりは見えていないようだった。

 遠くで揺らぐ灯火を指さす。あれが何なのか私にも分からないけれど、きっとここよりは良い、そんな説明をしたように思う。

 ようやく瞳に光を映した彼女は、ありがとう、と言った。

 懐かしい声だと思った。私はこの人を知っている。

 よちよちと幼子のような調子で歩き始めた彼女は、少し歩いて立ち止まった。こちらを振り返ると、何事かを伝えるように口を動かした。なんと言っているのか分からない。あのじりじりという音がまた耳元で聞こえ始めていた。

 彼女は悲しそうに瞳を伏せると、再び歩き始めた。

 私は、私に似た女の後ろ姿をいつまでも眺めていた。



第二十七話 呼び声(後)


 六時に起きてリビングに行くと、見慣れた後ろ姿がすでにキッチンに立っていた。

「おはよう」

「おはようございます」

 テーブルにつくと、すぐに味噌汁と白ごはんを並べてくれる。冷たい麦茶も。すべてがいつも通りの朝だった。

 向かいの席に座った彼は、白米に梅干しを落として食べ始めた。しばらくして箸をおいたかと思うと、おそるおそると言った口調で話しかけてくる。

「家主殿、ええと、昨日はおそらく……世話をかけたな」

「おそらく?」

「帰宅してからの記憶が全くないんだ。家主殿が帰ってきたことはうすぼんやり覚えているんだが」

 鶴丸さんは首元を掻きながら恥じたように言った。

「いやあ、あれが酔うということなんだな。あっはっは……すまん。何か迷惑はかけなかっただろうか」

 声だけで笑った彼は、すぐにずうんと落ち込んで気まずそうなオーラを全開にした。

「いえ、ソファで寝ていたのを部屋に連れて行っただけですよ」

「そうか。ありがとう」

 自分が粗相をしなかったと知って安心したのだろう、彼は再び食事に戻った。そんな彼を見て、私は悩ましい思いにかられた。

 昨夜のこと。

 それは実のところ、私をひどく煩悶させていた。

 今まで彼の素性は探らないようにしてきた。それがこの生活を成り立たせるための条件だったからだ。まったく気にならないというわけではなかったが、あくまで好奇心に毛が生えた程度のものであって、なにがなんでも知りたいとまでは思わなかった。

 だが、彼の立ち位置が変わったあの祭の日以降、私の中には「知りたい」という思いが生まれてしまった。それは日を追うごとに強くなってきている。

 なぜあの日あそこにいたの。

 なぜあんな変わった着物を着ていたの。

 なぜ世の中のことを知らないの。

 なぜ刀なんてもっているの。

 生まれは。姓は。家族は。恋人は。

 なぜ。なぜ。なぜ。なぜ。

 ―― なぜ、時々あんなに恐ろしい目をするの。

 分からないことだらけだった。距離が近くなればなるほど、知らないことが重くのしかかってくる。

 訊きたい。

 けれど、目に見えない境界線を踏み越えるのはとてつもなく恐ろしいことだった。親しげに見えても私と彼の間には何の約束もない。「おはよう」で始まる当たり前の朝は薄氷に描かれた美しい絵なのだ。誤って足を乗せれば、途端にひび割れて湖底に沈んでしまうだろう。

「食欲がないのか?」

 白い顔が心配そうに覗きこんでくる。

「いえ、昨日の鶴丸さんのいびきはすごかったなあって」

「……うそだよな」

「さあどうでしょうね」

 髪を揺らして氷の煌めきを放った彼は、勘弁してくれ、と苦笑いをこぼした。


 ◇◇◇


 奥深い山腹にあるその場所は、伸び放題の蔓に覆われて半ば廃墟の様を呈していた。

 あたりを取り囲む蜩の声が、じいいんと耳に迫っては、また遠ざかっていく。

 わずかに開いた木々の間には植物が繁茂し、掻き分ける度に、肌が切れるような感触がした。凝り固まった苔を避けながら石段を登る。

 中腹から振り返ると、駅から私一人を運んだシャトルバスがはるか下の道を下っているのが見えた。

 次に来るのは二時間後だ。それまでに戻ってこなければ。

 どこまでも続く石段。周囲に人の気配はない。視界の端をするりと抜けていったのは蛇かとかげか。

 頂上に着くと、草木の中に小さな古寺が紛れていた。

 不揃いな石畳を進んでいくと、右手に苔むした地蔵が見えてきた。真っ白くしなびた涎かけは何年か前にはきっと鮮やかな赤色だったのだろう。最奥に立つ人の背よりも遥かに高い石碑もまた、かつては意味あるものだったに違いないが、今やかえりみる者はなく、ただ虚しく雑草の中に佇んでいた。

 相変わらず蜩が鳴いていた。捨て置かれた山寺の呼び声のようだった。

 ぷんと線香が匂った。

 寺の裏手に回ると、立ち並んだ古い墓石の間に小さな背中がひとつ見えた。頭には白髪が少しだけ。痩せた老婆だった。

 ふたつほど急な段差を降りると、少し開けた場所に出た。とある墓石の前にしゃがみこむ。名前も何も刻まれていない細長いだけの石だった。倒されてしまえば、きっと誰もこれが墓標だとは気付かないだろう。

「おばあちゃん、今年も来たよ」

 空っぽの墓に向かって手を合わせる。穴の開いたバケツで水をくむような、そんな虚しい気持ちだった。ここには誰も眠っていない。とある夕方、ふらふらと彷徨い出た彼女は、きっと今もどこか知らない場所で歩き続けているのだろう。帰るべき家はとうの昔に失われてしまった。彼女も私も。

 祖母の最後を考える度、ぞっとするような思いが湧き上がった。

 彼女はどうして外に出たのだろう。何が彼女を呼んだのだろう。

 やはり分からないことだらけだった。

 線香と花を供えて、雑草を心ばかり抜いて、帰ろうとした時、ふと墓石に影がかかっているのに気付いた。

 段差の上からあの老婆がこちらを見ていた。

 褪せた薄桃の上着を羽織り、確かに私を見ているのに、なぜか視線は合わなかった。濁りかけた眼球は私を透かしてぼんやりと何かに向かっていた。

 気味が悪くなって、反対側から急ぎ足で段差を登った。老婆の視線が私を追いかけてくる。

 急に蜩の声が遠ざかった。

「ひかれているよ」

 しわがれ声が耳に入り込んでくる。思わず足を止めた。

「しるしが出たら、応えてはいけない……すでに守りは破られている。気をつけなさい」

 老婆は無表情だった。石像のように淡々と語った後、彼女はゆっくりと私に背を向けた。小さな背中が遠くなる。

 かわいそうに、という去り際のつぶやきがいつまでも耳に残っていた。家に帰って、二階に駆け上がった。

  一番上の引き出しを開けると、すぐに奥の方から小さな巾着袋が出てきた。震える手で中身を取り出す。

 喉から引き攣った声が漏れた。

「うそ……」

 お守りは、半分ちかく焼け焦げていた。


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