差し出されたチケットに、しばし逡巡した。
「あの、もちろん、無理にとは……」
目の前の青年は眉を下げて、後悔さえにじませた表情で言った。彼にとっては一世一代の申し出だったのだろう。
「急にこんな話をしておかしいですよね。すみませんでした」
「待ってください」
恥じたようにチケットをひっこめようとする彼を、咄嗟に遮った。青年がはっと顔を上げる。
やってしまった。
軽率な行動を悔やんだが、時すでに遅し。体格のわりにつぶらな瞳が期待をこめてこちらを見つめ返してきた。
後はもう、頷くしかなかった。
第二十八話 老いも若きも男も女も(前)
受け取ったチケットを机の上で眺める。つやつやとした紺色の表には白い字で「秋のしらべ クラシックコンサート」と書かれている。開催日時は今週の土曜日。
一緒に行かないかと誘われたのは、会社の帰り道だった。自転車を転がしていると、ちょうどあの青年がシャッターを下ろしているところに鉢合わせをしたのだ。
『似合わないのは自分でも分かっているんですけど、僕、意外とこういうのが好きで……』
汚れた作業着に汗を垂らしながら、自転車屋の青年は苦笑した。
どうして誘ってくれるのか、ということがわからないほど、子供でもなければ純真でもなかった。世間ではこういうのを自惚れとか勘違いとか言うのだろうが、今回にかぎってはこの勘はきっと正しい。
今日何度目になるか分からないため息をついた。
真剣なお誘いだからこそ、中途半端な返事をしてはいけなかったのに。
この青年が「気は優しくて力持ち」を体現したような人物であることは良く知っている。会ったばかりの頃は頼りない印象も受けたが、最近はずいぶんとしっかりしてきて、一人で仕事を切り盛りしている姿も良く見かける。
私にはもったいないぐらいの相手だ。
ただ、と壁越しに聞こえるシャワーの音に耳を傾けた。
叶わない、あまりにも叶わないものであることは分かっている。超えるべき壁が多すぎるのだ。事情は知らない。心も分からない。釣り合ってもいない。
けれど「はいそうですか」と断ち切れるほど、簡単なものではなかった。
シャワーの音が止まった。じきに音の主が姿を見せるだろう。
手の中の紙切れにもう一度目をやって、そうっと鞄のポケットに片づけた。
「今週末、どこか行きたいところはありますか」
私の問いかけに、彼はタオルで荒っぽく髪の毛を拭いながら、ふむ、と考え込んだ。
「シルバーウィークにもかかってますし、少しぐらいなら遠出できますよ」
そう言って様子を伺う。鶴丸さんはひとしきり唸った後、口を開いた。
「家主殿、その日は朝から道場の稽古でなあ。珍しいことなんだが」
すまん、と申し訳なさそうに言って、彼は眉を下げた。
「……そうですか。それだったら仕方ないですね」
「悪いな。せっかくの誘いだったのに」
「いえいえ、暇だったのでちょっと言ってみただけです」
明るく返事をしながらも、内心はひどく落ち込んでいる。そんな自分に気づいて、余計に落ち込んだ。
髪の毛を拭き終えた鶴丸さんが早々に席を立った。
「明日も稽古なんだ。今日は早めに休ませてもらうぜ」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
こだわった風もなくひらりと手を振った後ろ姿。彼にとっては「家主殿」との気軽なやり取りに過ぎないのだろう。取り残された私は、チケットの入った鞄に視線をやって、ゆるゆると首を振った。
◇◇◇
「コンサートのお誘いィ? そんな面白そうな話、なんで黙ってたのよ」
「ついこの前のことだよ」
へえ、と石坂が声を上げる。
「あんたにも今度こそ春が来たんだ。おめでとう。で、いつ行くの?」
「日程自体は今週の土曜日……なんだけど、迷ってるんだよね」
「顔? 身長? 性格?」
俗な質問が間髪入れずに飛んできて、思わず苦笑した。
「違う違う。そういうのじゃなくって。相手は真剣に言ってくれているのに、私がこんな気持ちでいいのかなって」
目の前の彼女は信じられない、という顔をした。
「あんた、ちょっと真面目すぎ。私だったらそんなこと気にせずにばんばんデートするけどなあ。ほらだって、一緒に過ごさなきゃいいか悪いかもわからないじゃん。デートはお試し期間みたいなもんなのよ」
「そう言われればそうなんだけど」
「そういえば、そのコンサートってどんなやつなの」
問いかけられて、鞄のポケットに手をやる。チケットを見せようと思ったのだが、いくら探ってもお目当ての感触が手に触れない。
「おかしいな。入れておいたはずなんだけど。ちょっと待ってね」
「すごく知りたいってわけじゃないから、別にいいよ」
話のネタに聞いてみただけらしかった彼女はぱたぱたと顔の前で手を振って、再び話題を元に戻した。
「とりあえず一回ぐらいは行ってきたら? 他に好きな人もいないんでしょ」
「……まあ、うん」
煮え切らない言葉に、しびれを切らしたような返事が投げ返された。
「報告、楽しみにしてるからね」
◇◇◇
家に帰ると、鶴丸さんはリビングで新聞を読んでいた。
ただいま、と言おうとしてテーブルの上にあのチケットが乗っていることに気付いた。
「ああ、こんなところに―― 」
「家主殿」
銀色の頭がこちらを向いた。穏やかな笑みを湛えている。
「水臭いぜ。それならそうと言ってくれれば良かったのに」
「何のことですか」
鶴丸さんは笑顔のままチケットを指さした。
「お誘いだろう」
「え?」
「いやあ、家主殿も隅におけないなあ。いつの間にやら、やることはちゃっかりやっていたわけだ」
気まずさを感じるよりも先に、どうして鶴丸さんが事情を知っているのだ、と驚愕した。いくらなんでもチケット一枚からそこまでの情報を読み取るのは不可能だ。
私の疑問を見てとったらしい鶴丸さんが、再びチケットを指さした。
ぴらりとめくると、チケットの裏側にはボールペンで名前と連絡先が書かれていた。「来てもらえるなら、連絡をください」との走り書きも。朴訥さをそのまま形にしたような文字だった。
「楽しんでくるといい。帰ってきたら土産話でも聞かせてくれ」
微笑みを浮かべてそう言うと、再び新聞に目を落とした。あっさりとしたその様子に、私はますますみじめになった。
私がどこで何をしようが、彼の心には小波すらたたない。釣り合っていないことなど初めから分かっていたじゃないか。そう思いながらも、やけくそになった口が余計な言葉を投げ出した。
「どうしようか迷ってたんですけど。そこまで言ってくれるのなら行ってこようかな」
「ああ、いいぜ」
「鶴丸さんだって、いつでも恋人と出かけてくれて構わないんですよ」
心にもない捨て台詞を吐いて二階へ駆けあがり、万年床になっている布団に倒れこんだ。
「鶴丸さんの馬鹿野郎」