第三十話 老いも若きも男も女も(後)


 鏡を覗き込んで、再度目元をチェックする。マスカラがほんの少し散っているのを見つけて、コットンで慎重に拭った。

 昨日、美容院でトリートメントしてもらったばかりの髪は小奇麗にツヤめいている。

 身にまとうのは白っぽいワンピース。丈は長めで、裾の方にうっすらと花柄が入っている。店員の視線に耐えながら、何十分もうんうん悩んで決めた品である。華やぎすぎず、地味すぎず。我ながら悪くないチョイスだと思う。

 ワンピースを着るなんて本当に久しぶりだった。気恥ずかしい思いがなくもない。けれど、今回だけはめいいっぱいお洒落をしていくと決めていた。相手のためではない。自分の決心のためだ。

 集合時間は十時。そろそろ出発して彼の職場に行こう。珍しく早朝に呼び出されてしまったんだ、と申し訳なさそうに言っていた。彼の着替えには半時間もかからないだろうから、十分間に合う。

 外で待っていると時間通りにタクシーが来た。身なりを乱すのが嫌だったので、あらかじめ呼んでおいたのだ。後部座席に乗り込んで、行先を伝えるとすぐに車は出発した。

 緊張と後ろめたさで落ち着かない。気を許せばすぐに、これで良かったのか、と心の声が尋ねてくる。

 ごめんなさい。けど、こうするって決めたんです。

 外出用の大きな鞄をひざの上で抱きしめた。

 目的地にはじきに着いた。精算をしてすぐ前で下ろしてもらう。仕事中らしく、中からは絶え間なく物音が聞こえてきていた。

 入り口はいつもと同じく通りに向かって開け放されている。その前に立つと中の様子が一望できた。仕事に打ち込んでいる彼はいまだ私に気付かない。息を吸って、声をかけた。

「稽古中失礼します! 鶴丸さんはいますか!」

 メエン、という声を最後に、道場は静まりかえった。何事だと皆の視線が集まる中、呼ばれた本人は面をとって目を白黒させながら駆けてきた。慌てたせいか、髪の毛が面白くハネている。

「や、家主殿。急にどうしたんだ」

「母が危篤なんです。すぐに来てください」

 あらかじめ考えてあったベタベタな台詞を口にする。どうせここにいるのは子供ばかりだ。キトク、とはなんだろう、と頭を悩ませてくれればいい。

「母君だと? おい、そんな話は――

「それはいかんなあ。鶴丸くん、すぐに出発しなさい」

 同じく面を取った師範が奥から歩いてくる。私と目が合うと、師範はいたずらっぽくウインクした。

 どうやらとっくの昔にばれていたらしい。鶴丸さんが浴衣を渡した相手が「従妹」ではないことぐらい。鶴の考より、亀の甲より、年の功。

「しかし、師範殿、まだ途中で……」

「家中の一大事に何を言っている。さあ、早く」

 家中の一大事とはまったくその通り。今日をもって、家主殿は「従妹」を卒業する。

「師範さん、申し訳ありません。それでは失礼します」

 ちょっと待て、と抵抗する鶴丸さんの腕を掴んで引きずるように連行する。トイレの前で、鞄から取り出した着替えを押し付けた。

「これに着替えてください。すぐに出発します」

「いやそもそも家主殿の母君は――

「もう時間がありません」

 神妙な顔で時計を指し示すと、鶴丸さんは状況が飲みこめないまま、とりあえず頷いた。

 駅前のロータリー。迎えのバスを見て、鶴丸さんはぽかんとした。

「……これに乗るのか」

「もちろんです。ちゃんと予約してますから」

 時間ぴったりにやってきた観光バス。ベンチに腰かけて待っていたお年寄りたちが一斉に、よっこらしょ、と立ち上がった。ガイドさんの手に握られた旗には「敬老の日 ミステリーツアー」の文字。当たり前だが、若者は私たち二人だけである。高齢者の行列に混じると、あちらこちらから奇異の視線が寄せられた。

 鶴丸さんは戸惑った様子でこちらを見ていた。なぜこんなことになっているのか、まったく理解できないのだろう。

「せっかくだから敬『老』しようと思って」

「老?」

 眉を顰めた鶴丸さん。我が家で「老」が当てはまる者など一人しかいない。普段あれだけ爺くさい発言をしておいて、今さら若者気取りもないだろう。

 ようやく、ぴんと来たらしく、彼は苦虫を噛み潰したような顔になった。

「そりゃ、鎌倉よりは前の生まれだがな……」

「さあとっとと行きますよ。段差に気をつけて、鶴丸爺さん」

 白い手を捕まえてエスコートするように引っ張った。


 ◇◇◇

「ああ、楽しかったなあ」

 帰宅後、鶴丸さんがしみじみと言った。柱に背をもたせかけて、あぐらをかいている。季節外れの浴衣の裾が縁側に広がっていた。やはり落ち着くらしく、夏以降、彼の部屋着は和装に変わっていた。

「気に入ってもらえて良かったです。お年寄り向けと思いきや、意外とハードな旅程でしたね」

「目的地が分からんというのがこの上なく良かった」

 出発時にはブツブツ文句を言っていたくせに、途中からはなんだかんだで大喜びだったのである。「敬老の日 ミステリーツアー」という選択はやはり間違っていなかった。 

 ツアーがはじまった時は明らかに浮いていた私達だったが、鶴丸さんが思わぬ社交性を発揮したおかげですぐに場に馴染むことができた。鶴丸さんは明るくて物怖じのしない人物だが、必要に迫られないかぎりは積極的に他人と関ろうとはしない。少なくとも私の知る範囲ではそうだ。それでも知らない人の目には感じ良く映るんだから、ああいうタイプの男前は得である。

 その鶴丸さんが今回の旅ではずいぶん楽しそうにお年寄りと会話していた。彼らの昔話に熱心に耳を傾け、相槌を打つ彼はあっという間におばあさん達のアイドルになってしまった。お正月に近所の子どもと雪合戦をした時と似たものを感じる。

「驚きがないと退屈で死んじゃいますからね」

「その通り。分かってきたなあ、家主殿も」

 目を細めてにやにやとする彼に、私は、もちろんです、と頷いた。

 りい、りい、りい、りい、と庭のどこかから虫の声が聞こえてきた。澄んだ秋の音色に二人で聞き入る。

「結局、お断りしました。何度も謝って」

 前を向いたまま、鶴丸さんに言った。さらり、と銀糸の揺れる音がした。

「ぎりぎりまで迷ったんですけどね。やっぱり応えることはできないと思いました。彼、いい人だから、半端な気持ちではきっと傷つけてしまう。もう傷つけてしまった後かもしれないけど……」

「そうか」

 小さな返事が戻ってくる。何か、耐えるような響きがあった。

「急に怒鳴ったりして、ごめんなさい。あの時の言葉は忘れてください」

 彼は何も言わなかった。元々、覚えてなどいないのかもしれない。それならそれでいい、と思った。

 りい、りい、りい、と虫が鳴く。

「爺というのはなあ、存外、欲が深いんだ」

 真実、老爺のような声だった。複雑な色味を帯びた深い声。

「この前の分、許すには少し足りないぜ」

 顔を向けると、男は苦笑いをしていた。

「何をご所望で?」

「……そうだな、今度は温泉に連れて行ってくれ」

「サービスでのり塩ポテチと肩たたきもお付けしましょう」

「よし。それで手を打とう」

 私は彼に向き直って右手を差し出した。きょとんとする鶴丸さん。

「現代風の仲直りですよ。さあ右手を出して」

「たまには若者の真似事も悪くはないな」

 筋張った大きな手。ぎゅっと握手をすると、相変わらず冷たい。

 そんな手をいつまでも握っていたかった。

 握り合わせた手の甲が光に照らされすうっと白くなった。見上げると縦になったレモンのような月が雲から顔を出したところだった。急に恥ずかしくなってきて、月を見ながら話しかけた。

「十五夜、見逃してしまいましたね。三日、いや四日前でしたか。すっかり忘れていました」

「誰かさんがむくれていたせいでな」

「根に持たないでくださいよ。ほら、満月じゃないけど綺麗です」

「|臥待月(ふしまちづき)っていうんだぜ、知ってるか?」

 首を横に振ると、鶴丸さんは得意気に名前の由来を教えてくれた。

「望月から四日も経つと月の出がずいぶん遅くなるのさ。あんまり遅いから寝て待たないといけないって意味でな。寝穢い家主殿には無理な月見か」

「ほーんと、一言多いですね」

 相変わらず人を馬鹿にしている。手を振り上げる真似をすると、鶴丸さんはおお怖い、と反省の欠片も見えない様子で首を竦めた。

 しばらくして、身体の奥からじんわりとしただるさがやってきた。そこでやっと自分が意外と疲れていることに気付いた。運動会の後のような心地良い疲れ。鶴丸さんがのんびりとした声で言った。

「いい時間だ。風呂に入ってきたらどうだ?」

「お言葉に甘えて、お先に入らせてもらいましょうか。久しぶりに歩いたら全身へろへろです」

「若いうちからそんなことでどうする。と、言いたいところだが、今日はゆっくり入って来い。俺はここでもう少し月見と洒落込むぜ」

 縁側の床に手をついて立ち上がると、足にじりじりと痺れが走った。思わずよろけた私を見て、鶴丸さんが笑う。

 和室の戸口のところまで行って縁側を振り返ると、鶴丸さんは柱にもたれて夜空に見上げていた。

 後ろ姿を見ただけで、なんとなくどんな顔をしているのか分かってしまった。


 ◇◇◇

 鼻歌を口ずさみながら、脱衣所で服を脱ぐ。帰り道、バスガイドが流してくれたのは私でも知っている古い名曲だった。六十代、七十代のおじいさんおばあさんが大喜びで歌うのを聞いているうち、私も楽しくなって一緒に声を合わせてしまい、自然と耳に残ってしまった。

「あれ、怪我してる」

  ぴりりとした痛みを感じ、ふと見ると腕の内側に一本、赤い筋がついていた。何か鋭利なもので浅く切ったような跡だった。今日はあちこち巡ったから、どこかで引っ掛けたのかもしれない。

  お風呂から上がったら手当をしないと、と思いつつ浴室のドアを開けた。ぬるめのシャワーを浴びると、やっと心臓がどきどきしてきた。

 とうとう踏み出してしまった。

 悩んだ末、手を伸ばすことに決めた。引き返せる最後の境界はすでに跨ぎ越えた。彼を以前のように「一時の同居人」だと見ることはもうできそうになかった。後はひたすら前に進むのみ。失敗すれば今あるものまでなくしてしまう無謀な賭けである。

 叶わない願いなのかもしれない。けれどこの願いこそが私と彼をつなぐ唯一の縁だった。願わなければ叶わない。あの時だって、そう思って彼を引き留めたんじゃないか。

 風呂場の窓から見える不完全な月が、得もいわれず美しかった。


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