どのくらい歩きつづけただろうか。

 あれほど遠かった光がいつのまにかすぐそばまで近づいてきていた。

 薄明りの中に手を伸ばすと、光に飲み込まれた。

 気が付けば、古家の中に立っていた。

 黒ずんだ柱。日に焼けた畳。懐かしい家だった。

 縁側に年老いた小さな背中が見えた。その隣には手のひらほどの黒塗りの箱がある。

 庭先から少女が走り寄ってくる。皺だらけの手が幼子を手招いた。

 縁側に腰掛けて足をぶらぶらさせる少女。その頭を優しく撫でて、老婆は何事かを語りかけた。

 とても大切なことを言っている気がする。聞かなければならない。

 しかし前に出ようとすると、景色が次第に遠ざかりはじめた。

 お願い、あともう少し。

 伸ばした手は宙をかいた。

 記憶の欠片はどんどん離れて行って、最後には小さな光になって消えてしまった。

 私は再び闇の中に落ちて行った。



第三十一話 片見月(前)


 目を刺し貫くようなギラギラとした光。がなり声が鼓膜を震わせた。ハウリングが起こっているにも関わらず、目の前の中年はマイクを手放さない。キーンという高周波に頭が痛くなった。

「ほら、君も一緒に歌え。踊ってもいいぞお。花見の時みたいにな」

 痰の絡んだ声で笑って、課長が横に座ってくる。汗とたばこの匂いが鼻をついて、一気に気分が悪くなった。

「……休憩してから、また」

「聞こえないぞお!」

「ちょっと、休憩させてください!」

 カラオケの大音量のせいで、声がほとんど通らない。思いきり張り上げると、ようやく耳に届いたらしく、課長はにやにやとした。

「そんなこと言わずにさあ」

 肩に手を回して、顔をすぐ側まで寄せてくる。手が膝に乗った瞬間、とうとう我慢できなくなって席を立った。

「すみません、お手洗いに行ってきます」

 逃げられちゃったあ、という笑い声を背に、扉を閉めた。ガラスの向こうに再び長イスに立ち上がった課長の顔が見えた。目が合わないうちに、部屋の前から立ち去る。通路にも小さくはない音量でBGMがかかっていたが、今出てきた部屋の中に比べればずっとマシだった。

 トイレの蓋に腰掛けて、しばしの休息に浸った。

 最近の課長の言動は目に余る。部下をコンパニオンか何かと勘違いしているのではなかろうか。

 付き合いで上司と飲みに行くのは普通のことだ。そのままカラオケに行くのも良くあることだ。

 しかしそこに邪な下心があるとなれば話は別である。

「帰りたい……」

 手首を見ると、すでに十時半。終電まであと三十分の辛抱だ。

 このままトイレで時間をつぶそうかと思ったが、そんなことをすれば、また後からネチネチ嫌味言われるに決まっている。

 痛むこめかみを指で揉んでから、再び元の席へと戻った。


 ◇◇◇

 だるい足で電車を降りてやっとのことで階段を下ると、改札のところで鶴丸さんが待っていた。私に気付いた彼はこちらに向けて手を振った。

「よう」

「鶴丸さん!どうしてここに?」

「あんまり遅かったからな」

 そういえば彼が来て以来、終電まで居残ったのは初めてだったかもしれない。急遽入った飲み会だったから、たいした連絡もできなかったのだ。ずっとここで待っていてくれたのだろうか。

「……すみません。心配をかけてしまって」

「俺のことは気にするな。それより何かあったのか?」

 気遣わしげに顔を覗き込んでくる。夜でも明るい金の瞳に安堵した。

「いいえ、いつもより仕事がたくさんあったんです」

 本当は、気持ち悪かった、帰りたかった、と縋り付きたい気持ちでいっぱいだったが、言ったところで心配させるだけだ。それに彼の前でそういう話を持ち出すこと自体がなんとなく嫌だった。

 あまり納得したような顔ではなかったけれど、そうか、ととりあえずは返事をくれた。

「夕餉は食うか」

「もちろん。今日のメインは何ですか」

「秋鮭」

 彼は自然な動きで私から鞄を取り上げた。

「思ったより重いな」

「振り回せば武器になりますよ。横からぶちかませば日本刀にだって負けないかも」

「おっそろしいことを言うな、君は」

 軽口を交わしながら、駅を出る。彼の黒い自転車は駅前にそのまま停めてあった。道場の師範から借りているらしい。

「私も自転車を取ってきますね。ちょっと待っててください」

「その必要はない」

 駐輪場に向かおうとすると、腕を掴んで引き留められた。ぽんぽんと自転車の荷台を叩いて、鶴丸さんはこう言った。

「迎えの籠だぜ、お姫さま。少々すきま風は強いがな」

 二人乗りの自転車がすいすいと走る。十月の風が冷たく頬を撫ぜていった。

「いつの間にか反対になっちゃいましたね」

「言っただろう。女に乗せてもらうのは今日ばかりだってな」

 鶴丸さんと二人乗りをしたのは、確か彼がここに来てすぐのこと。その時とは全く反対になった位置に笑いが漏れる。前からも笑い声が聞こえた。

「忘れるものか。まさか三回も転ぶとは思わなかった」

「その点は失礼しました。鶴丸さんは転ばないでくださいね」

「家主殿と一緒にされちゃあ困る」

 商店街を抜けて、大通りに出た。鶴丸さんが脚に力を込めたのが分かった。

「飛ばすぜ。しっかり掴まっておけよ」

 目の前の上着をそっと掴む。「そうじゃない」と鶴丸さんの手が伸びてきて、私の腕を自分の腰に巻き付けた。細いのに、しっかりと詰まった腰回り。

 自転車が勢いよく走り出した。

 少し迷ってから、広い背中に頬をつける。触れたところから熱さが広がっていくようだった。流れていく景色をしばらく眺めたあと、まぶたを閉じる。

「寝るなよ」

「寝ません」

 寝られるはずがない。心臓がどくどくと元気に騒いでいる。

 ぴたりとくっついた上半身から、ぜんぶ伝わってしまったらどうしよう。

坂道を登っているのに、鶴丸さんの鼓動はひどく穏やかだった。まるで今にも止まってしまいそうなくらいに。

 カーブに沿って自転車が傾く。それにかこつけて、ぎゅっと力を込めてみた。鶴丸さんが小さく息を吐いた。

 どんなスピードで走ったのか、と思うほど、あっという間に家に着いた。自転車を片づける鶴丸さんをを待って玄関に行く。扉を開けた彼が振り向いた。

「おかえり」

「ただいま」


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