第三十二話 片見月(中)


 街中の自然公園。立ち並ぶビルを眺めながらおにぎりをかじる。ベンチの上、隣に座った石坂がメイクを崩さないように慎重に汗をぬぐった。十月と言っても、天気の良い日中はまだまだ暑い。

「もう、日焼けしちゃうって。なんでまた急に工事かね」

「エアコン、かなり古くなってたからね」

 文句を言いながら、弁当をつつく彼女。いつもならオフィスで食べるそれを外に持ってきているのは、現在オフィスが立ち入り禁止になっているからである。理由はエアコンの故障だった。異音がして排水管から水が漏れているということで急遽業者を呼び、昼休みに修理を行っている。

 外食組にとっては何の問題もないだろうが、普段昼食を持参している石坂や私にとっては追い出されたも同じだった。宛てもなくうろうろ歩きまわった結果、ようやくこの公園に落ち着いたのである。

 石坂が申し訳なさそうに口を開いた。

「昨日、先に帰っちゃってごめん。課長どうだった?」

「うんまあ、いつものアレ。他に女性がいなくてさ」

 うちの部署で、アレ、が通じない人間はいない。課長の問題行動はそれくらい有名な話だった。こちらに向き直った石坂が私の両肩を掴む。

「ほんっとにごめん。変なことされなかった?」

「大丈夫、カラオケだったからまだマシだった。途中で逃げたしね」

 良かったあ、と私の肩を叩いた後、彼女は眉間に深い皺を刻んで吐き捨てた。

「あのセクハラ親爺。いつ訴えてやろうか、ってずっと考えてんの。そろそろかな」

 石坂ももちろん被害者の一人である。しかし課長の話と同じくらい彼女の気が強いことも有名な話で、課長はそんな石坂の逆鱗に触れることを恐れ、最近はあまり近寄らない。石坂の憤りは主に私や他の女性社員を守ろうとしてのものだった。

 眦を吊り上げた彼女は弁当箱の中の卵焼きに乱暴に箸先を突き刺した。

「はー、ほんとないわあ。ほんとない。彼奴きゃつめ、今に目にものを見せてくれるわ!」

「地が出てるよ、石坂。まあ……課長もストレスフルなんだよ、きっと」

「人をけなさないのはあんたの長所だと思うけどさあ。もっと言いたいこと、言っていいんだよ」

 頭の中に銀髪頭を思い浮かべた。彼も石坂と同じことを言う。感情は人間の宝。思ったように怒って泣いていいんだ、と。実際彼が来てからいろいろなことが変わった。自身の変化に戸惑うこともあるが、それはそれで悪くないと思っている。

「最近はわりと自由に行動してるよ。おかげさまでね」

 おにぎりを食べ終えて、ゴミを捨てに行こうとベンチを立った。

「あれ、これあんたの?」

 振り向くと石坂がベンチの上から何かを摘みあげていた。子供の手にもすっぽり収まるような小さな巾着袋。

「私のだ。ありがとう」

「すごく軽いけど、何が入ってんの?」

 落とし主の手のひらに拾い物を乗せながら、彼女は興味ありげに首をかしげた。

「お守り。おばあちゃんに昔もらったやつなの」

「今も持ち歩いてるんだ」

 へえ、と驚いたような声に頷く。

「もうボロボロなんだけど、それでも守ってくれるような気がして」

 藤色のちりめん生地をそっと手のひらで包み込む。内側にお守りの優しい感触がした。

 課長にも効果があったらいいねえ、などと石坂があまりにも真面目な顔で言うので、思わず噴き出してしまった。

 ゴミを捨てて戻ってくると、彼女は立ち上がって私を待っていた。

「そろそろ戻ろっか。さすがに終わってるっしょ」

 時計を確認すると午後の始業まであと十五分。ちょうどいい時間だ。

 落ち葉を踏みしめ、秋晴れの公園を後にした。


 ◇◇◇

「今から郵便局に行ってきますが、他に用事はありますか」

 立ち上がって近くのデスクに声をかけると、斜め前のグループ長が「特定記録で頼む」と封筒を手渡してきた。すでに切手の貼られたそれを受け取って鞄に入れる。

 行ってきます、とオフィスから出た私は少し早足でエレベーターに乗った。さっき確認した時には四時半を過ぎていた。郵便局はここからそれほど遠くないのだが、窓口が閉まる直前のこの時間帯は混んでいることが多い。もたもたしていると間に合わなくなってしまう。

 自動ドアを抜けて外に出ると、きつい西日が目を刺した。手の平で影をつくって直射を避ける。ガラス張りのオフィス街は夕方の太陽を反射してギラギラとしたきつい朱色に染まっていた。

 どこかからか微かにギャロップが聞こえてくる。そういえば運動会の季節だった。気ぜわしいそれに急かされるように、足が勝手に先を急いだ。

少し歩くと太い幹線道路に出た。ぶうんと音を立てて、車がすぐ目の前を通り過ぎていく。

 耳慣れた運動会のメロディはひっきりなしに行き交うエンジン音にかき消されて、すっかり聞こえなくなってしまった。

 大通りに沿ってしばらく進むと、道の向かい側に目的地が見えてきた。横断歩道の手前で信号待ちの集団に加わる。スーツ、制服、黒っぽい人混みが夕日に照らされて影をつくっていた。たくさんの人々が寄り集まっているのに、話し声はほとんど聞こえない。全員がただ前だけを向いて、ぼうっと影の中に沈んでいた。

 沈黙した黒い塊の中で、自分がどこか得体のしれない場所に紛れ込んでしまったような不気味さを覚えた。

 通りの反対側に目をやると、向こうにも同じように人玉ができていた。距離と逆光のせいで、顔はすべて黒く塗りつぶされて見えた。

 ポケットから何かが落ちたのに気付いたのと、信号が変わったのはほぼ同時だった。

 《とおりゃんせ とおりゃんせ》

 声のない電子音が交差点に時を告げる。人影が一斉に動き始めた。

 あっ、と声をあげて落し物を拾おうとしたが、人の波は窮屈で意地悪だった。小さな巾着袋はたくさんの革靴の中で揉みくちゃにされて、どんどん先へ転がっていった。

 人混みをかき分けて前に出ようとしたその時、言いようのない気持ち悪さを感じた。

 見られている、と思った。

 通りの向こうから押し寄せてくる人の塊の中に「何か」が紛れこんでいた。黒く塗りつぶされた顔、そのどれかが絡みつくようにこちらを見つめている。ぞわりと背筋が粟立って、思わず顔を伏せた。知られてはいけない。気づかれてはいけない。

 信号機が抑揚のない唄をうたう。

 《この子の七つのお祝いに お札を納めに参ります》

 ぶつかられるのにも蹴られるのにも構わず、しゃがみこんで必死にお守りを探した。

 雑踏の中、ひとつだけ一際大きく聞こえる足音があった。ことん、ことん、とどこからともなく響いてくるそれに身体の震えが止まらない。

 ない。ない。どこにいったの。

 舐めるような視線の主は確実にこちらへと近づいてきていた。

 お願い、出てきてと祈るような思いで見回した時、少し先に藤色がちらりと姿を見せた。立ち上がる間も惜しんで、四つん這いのまま手を伸ばす。

 届かない。あと少しなのに。

 ことん、ことん。

 めいいっぱい伸ばした指先が、ようやく布に触れた。

 《こわいながらも とお――

 唄が途切れてぴたりと鳴りやんだ。青信号がチカチカと点滅を始める。

 お守りを掴みとった私は振り返らずに全力走った。

 向こう岸にたどり着いたのと同時に信号が赤になった。幹線道路が音を立てて一斉に動きはじめる。

 植え込みの裏に飛び込んで、膝から崩れ落ちた。心臓の早鐘が鳴りやまない。

 前を行く通行人がこちらを一瞥して皆距離をとったが、そんなことは気にもならなかった。

 地面に座り込んだまま、荒い息を吐いた。恐ろしさに耐えながら、葉の陰からそっと横断歩道の方を覗いたが、車の往来で向こう側は見えなかった。

「大丈夫ですか」

 突然かけられた言葉に、思わず短い叫びをあげて身を引いた。視線を上げるとスーツ姿の男性が怪訝そうな顔でこちらを見下ろしていた。

「……すみません。ありがとうございます」

 声が震えないように慎重に言葉を紡ぐと、男性は奇妙なものを見るような感じで足早に立ち去っていった。

 しばらく経つと、車の音がやんだ。どくどくと鳴る心臓を押さえて、私はもう一度後ろを振り返った。

 向こう側には、何もいなかった。

 こちらに向かって歩いてくるのは会社や学校帰りの人間ばかりだった。足音も視線ももう感じない。

 お守りを胸の前でぎゅっと握りしめる。

 あと少し遅ければ、取り返しのつかないことになっていた。

 何も分からなくても、それだけははっきりとわかった。私を探す「あれ」の気配を思い出して、舌を這わされたように心臓が凍えた。

 足元に目を落として、ようやくパンプスが片方脱げていることに気付いた。ガラスか何かで足の裏を切ったらしく、破れたストッキングが血色に染まっている。

 痛み出した足をそのままに、私は藤色の巾着を開けた。

 中から出てきたお守りは、その大半を焼け焦がして、じりじりと音を立てていた。


 ◇◇◇

 ただいま、とリビングのドアを開ける。台所で片づけをしていた鶴丸さんが私に気付いて振り向いた。

「おかえり。今日もお勤めご苦労――

 言いかけて、彼は私の顔を凝視した。水道の蛇口を手早く閉めて、こちらに近づいてくる。

「家主殿、ずいぶんと顔色が悪いぜ。どうかしたのか」

「そうですか? 気のせいですよ」

 普段と変わりない声で言って荷物を下ろした。全身に力が入らない。本当は返事をするのも億劫だった。鶴丸さんはとても真剣な顔で、半ば責め立てるように問いを繰り返した。

「本当か?」

「今日は少し仕事が大変で。それだけです」

「……最後にもう一度聞くぜ。本当にどこも悪くないんだな」

 そう言ってるでしょう、と答えた途端、腕を掴まれてカーペットの上へ引き倒された。起き上がる間もなく、足首を持ち上げられる。スカートがめくれ上がって腿が露わになった。

「やめてください!」

 しかし彼はそれには答えず、私の脚に手を這わせた。感情の読み取れない瞳がこちらを見つめている。白い指が靴下にかかった。

「だから何もないって――

「へえ。傷ができるような仕事をしているとは知らなかったなあ」

 靴下を引き下げた彼は、べったりと血のついたガーゼを見て抑揚のない声で言った。

「隠し通せるとでも?」

「……どうして分かったんですか」

「分かるさ。これくらい」

 彼は空気の匂いを嗅ぐようにして小さく鼻を動かした。視線が、話せ、と圧力をかけてくる。有無を言わせぬ空気に、俯いて答えた。

「走ったら靴が脱げちゃったんです。その時にガラスか石かで切りました」

 自分の言葉が正しいことを証明するために、私はそっとガーゼが剥がした。引き連れるような軽い痛みの後、傷口が空気に晒される感覚がした。深く切ってはいたが、もう血は止まっている。矯めつ眇めつそれを見た後、彼はゆっくりと息を吐き出した。

「血の匂いをぷんぷんさせて帰ってきたから何事かと思った。怪我しているのなら隠さずに言え」

「すみません……自分ではそんなに大怪我をしたつもりはなかったんです」

 むしろ家に帰ってくるまですっかり忘れていたくらいだった。帰り道、私の感覚を占めていたものは痛みではなくあの恐怖である。帰り道があれほど長く感じたのははじめてだった。

 待ってろ、と言って部屋を出て行く鶴丸さん。その目を盗んで、身体周りの匂いを嗅いでみた。が、やはり人の鼻で嗅ぎとれるような鉄臭さは感じられなかった。

 感覚の鋭い人、などと思い込むのは止めている。きっともうそんな単純な話ではないのだ。

 ドアの開く音がして、救急セットを抱えた鶴丸さんが戻ってきた。

「ありがとうございます。汚いですから、自分で消毒します」

 逡巡する素振りを見せた後、彼は複雑そうな顔でそれを手渡してきた。眉を寄せたまま、どすん、と私の横に腰を下ろす。

 膝を立てて足裏を覗きこむと、ガーゼを剥がした時に障ったのだろうか、傷口からは再び血が流れ始めていた。

 脱脂綿で押さえようとすると、ソファの白っぽい合皮に、ぽたん、と赤い血が一滴垂れ落ちた。隣でかすかに身じろぎをする気配を感じたので、ついつられて見上げてしまった。

 彼は吸い寄せられるように赤黒い血を見つめていた。鋼色の光を放つ瞳に、他のものは何も映っていない。ぼんやりとして、あるいは恍惚としてさえ見える表情だった。

 血だまりへと伸びた白い指がつうっとそれに触れ、赤い軌跡を描いた。血に濡れた指先を持ち上げて眺める、その物欲しげな目つきにぞくりとした。

 いつの間にか彼に心奪われている自分に気付いた。どうやっても目が逸らせない。あやしげな色を帯びた瞳が呼んでいる。その呼び声になぜだか無性に答えたくなる。

 身体を浮かせたその時、胸ポケットでお守りの擦れるかすかな音がした。我にかえった私は咄嗟に大きな声を出した。

「鶴丸さん!」

 彼は雷に打たれたように、こちらを見た。丸く見開かれた金の目は、もういつも通りの色に戻っていた。しばらく私を見つめた後、鶴丸さんは心底辛そうに顔を歪めた。泣き出す寸前のようにも見えた。

「大丈夫ですか」

「……すまん」

 小さな声で言って、大きな手のひらで顔を覆った。

「少し、頭が痛くてな」

「体調が悪いなら、一人で手当できますから。お風呂お先にどうですか?」

「そうだな。そうさせてもらう」

 悪い、ともう一度謝って、彼は部屋を出て行った。和室の引き戸が開いて、閉じられる音がした。

 放っておいた傷口には黒っぽい塊がこびりついていた。すでに出血は止まっている。汚れたソファからかすかに血の匂いが立ち上っていた。


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