第三十三話 片見月(後)


 暗い部屋の中央、ギラついたミラーボールが身体に悪そうな光線を放って回る。汚いダミ声とキーンというハウリング音が耳に痛い。隣の石坂に目をやると、彼女もまた眉間に皺を寄せて不快感を露わにしていた。小太りの身体が長椅子の上で跳ねるたび、腰掛けた部分から振動が伝わってくる。

 金曜日の夜。やはり今週も逃げられなかった。去年もそうだったが、人肌恋しい季節になると飲み会の回数が一気に増える。もちろん人肌恋しいと思っているのは私たちではなく、あの独身課長である。

 こちらに気付いた石坂が、声を出さずに口の動きだけで言葉を伝えてくる。過激な台詞を並び立てる彼女に、今日ばかりは素直に頷いた。

「二人仲良くお話? 僕も混ぜてよお」

 課長が歌を止めて私のすぐ隣に座った。石坂の表情が目に見えて険しくなったが、へべれけに酔った男はそれに気付くことなく私ににじり寄り、もつれた舌で話しつづけた。

「ほらほら、距離が遠いぞお。もっとこっちへ」

 伸びてくる手に思わず仰け反ってしまう。私の反応がお気に召さなかったらしい課長は一瞬、酔いが醒めたような陰鬱な顔をして、それから蔑むように言った。

「最近の若い女はすぐこれだ。お高くとまって接待も嫌、茶汲みも嫌。その癖、やれ出産だ育児だと何かあればしょっちゅう休む」

 石坂がスカートに爪を立てているのが見える。課長が私の顔を覗きこんでどす黒い声を出した。

「どうせ決まった相手もいない癖に。それだったらこれくらい良いだろうが」 

 あからさまな暴言に頭が真っ白になった。しかし先に拳を握って立ち上がった石坂が視界に入ったため、彼女を押しとどめることに神経を割くことができた。深呼吸をして、ゆっくりと言う。

「課長、そろそろ退室の時間です」

 めんどくさそうに身体を起こした彼は、残った焼酎を一気に飲み干して、ふらつく足取りで部屋を出て行った。


 ◇◇◇


「ほんっとに、最悪!」

 カラオケボックスで解散して、少し離れた駅まで帰る途中、石坂が空に向かって大声で叫んだ。幸い夜の裏路地に人気はない。

「何なの、あれ! いくらなんでも酷すぎる。お茶汲み? ふざけんな! いつの時代よ!」

 怒り狂う彼女に小さく頷く。

「あんたねえ、どうして怒らないのよ!」

「怒ってるよ。けど言いたいことは全部石坂が言ってくれてるから」

 人が代わりに怒ってくれると、当人はかえって冷静になれるものだ。私の言葉を聞いて、彼女は少し悲しそうに目を伏せた。

「最近やっと人間らしくなってきたと思ったのに」

 彼女はこうやっていつだって私のことを気にかけてくれる。

「正直、課長なんてどうでもいいんだよ。石坂がこうやって親身になってくれてることの方が大事で嬉しい」

 そう言った時、すぐ横の曲がり角から罵声が聞こえてきた。続いて何かの倒れる音。思わずそちらを覗きこむと、数人の若者が座り込んだスーツの男を取り囲んでいるのが見えた。石坂が訝しげな声を出した。

「おやじ狩り?……っていうかあれ、まさか」

 自動販売機に背をもたせかけて怯えたように顔を覆っている小太りの男は、間違いなく課長だった。地面を転がったせいか、スーツは皺だらけになって汚れきっている。やめてくれ、と哀れっぽい声を出すのが面白いらしく、若者たちは周りの物を手当たり次第に蹴飛ばしては大笑いしていた。

 石坂と顔を見合わせる。しばらくして二人同時にため息をついた。

 近くには運悪く誰もいない。私は建物の影に隠れながら携帯電話を操作した。一、一、〇、と指でタップして反応を待つと、すぐに冷静な声が聞こえてきた。

『事件ですか、事故ですか』

 知り合いがカツアゲにあっていることを伝えて、住所を言おうとした時、石坂が後ろで息を飲んだ。一際けたたましくなった笑い声に顔を上げると、若者の一人が金属バットを持ち出してきていた。

「ちょっとやばいんじゃない」

 彼女がそう言った瞬間、耳を覆いたくなるような音がした。自動販売機のガラスが粉々になっている。課長はまだ無事だった。

『どうしました、大丈夫ですか』

 冷静に喋る携帯電話を石坂に押し付ける。私が何をしようとしているかに気付いて必死に「駄目だって!ほんとにやばいって!」と私の腕を掴んだ。彼女の腕を通して震えが伝わってくる。震えているのは私だ。

 だが、他に助けてくれそうな人は見当たらなかった。このまま放っておけば取り返しのつかないことになるかもしれない。

 物の壊される音が繰り返し路地に響いている。壊す物がなくなったら次は課長の番だろう。もう一刻の猶予もなかった。

「大丈夫、変に刺激しなければ多分すぐに何かされたりはしないと思うし、駅前だからそれまでに絶対警察が来てくれる」

「なんでよ、なんでそこまでするのよ……ああ、もう分かったわよ、それだったらあたしも行くから」

 石坂は半ば涙を浮かべていた。

「あのう、すみません」

 建物の影から出て呼びかけてみるが笑い声にかき消されて届かない。今度はもう少し大きな声で言った。

「すみません」

 青年の一人がこちらに気付いて、隣の男を小突いた。不審がるような視線が向けられる。それが繰り返されるうちに、暴力と嘲笑は次第に収まっていった。金属バットを見せつけるように担いだ男がこちらへ歩いてくる。このバット男がリーダー格らしい。

「お姉さん、何の用っすかあ」

 語尾を伸ばす独特の喋り方で話しかけてくる。怖がっているのがばれないように、努めて冷静な声を出した。

「実は迷ってしまって。駅までの道を教えて欲しいんですが」

 彼らは一瞬「は?」と間の抜けた顔をした。それから顔を見合わせたかと思うと一斉に噴き出した。

「道ィ? 俺ら忙しいんですけどお」

 バットの青年が面白がってそう言うと、後ろの取り巻きがぎゃはは、と笑った。とりあえず掴みは成功だ。大声を出したり、「やめてあげてください」などと言ったりするよりも、こうやって意表をつく方がよほど効果がある。震える手を握りしめて、もう一押しした。

「でももうすぐ終電が来てしまうし。なんとかお願いできませんか」

 いかにも困っているといった表情をしてみると、青年は少し考えて、あまり見られたものではない笑みを浮かべた。

「めんどくせえけど、まあいっか。オレら優しいんで」

 適当に思いついた場所を伝えて反応を見ると、彼は頭をひねって考え始めた。何がきっかけで豹変するか分からない、野犬の背を撫でているような気持ちだった。警察はまだだろうか。

 ようやく道を思い出したらしいバット男は、面倒くさそうな様子で、まっすぐ行ってえ、右に曲がってえ、とルートの説明を始めた。この調子なら、なんとか穏便に済みそうだ。時間は稼いだし、そろそろ助けが来る頃だろう。話が終わったらすぐに離脱しよう。

―― ってカンジ。これでいいっすかあ」

「はい。助かりました、ありがとうございます」

 礼を言って立ち去ろうとした私だったが、数歩もしないうちに肩を強く掴まれた。

「おいおい、人に助けてもらっといて、お礼もないわけ? そういうのダメじゃね?」

 なあ、と取り巻きに声をかけるバット男。下卑た笑い声が路地に響いた。

 失敗した、と焦りが全身を駆け巡った。同じく腕を掴まれた石坂は顔面蒼白だった。

 頭の中が真っ白になって、どうしていいか分からなくなった。徐々に囲まれ始めているのに身体が動かない。

「ということで、オレらと遊んでくんない?」

「ところがどっこい、彼女には先約があるのさ」

 聞き慣れた、よく通る声が路地に響いた。

「え?鶴丸さ――

 振り向いた先の姿に、呼びかけた名前が引っ込んだ。

 そこにあったのは予想だにしない人物の、予想だにしない姿だった。スーツを着た知らない男がビジネスバッグを引っさげて立っている。一瞬、そう思いさえした。しかしよく見ればやはり見慣れた顔である。

 グレーの上下を身にまとった鶴丸さんは、海外の若手実業家もしくは大企業の御曹司と言った風情で、爽やかに微笑んだ。

「よう、こんなところで何やってるんだ?」

 それはこちらのセリフだ。

 とかなんとか言いたいことはいくらでも浮かんできたが、一向に形にできず、数秒の間、口をパクパクさせた後、ようやく一言吐き出した。

「なんでスーツなんて着てるんですか」

「いろいろと入用だったのさ」

 鶴丸さんは私のびっくり顔に満足したらしく、いかにも上機嫌といった様子で答えた。

 予期せぬ闖入者に驚かされたのは私だけではなかったようだ。バット男も私の肩を掴んだまま固まっていた。それを見咎めた鶴丸さんは男の手を自然な動作で振り払って、さあ帰ろう、と言った。

 手を叩き落とされて、バット男もようやく我に返ったらしい。鶴丸さんの異容に一瞬ためらいを見せたものの、中身は非力な細腕だと判断するとすぐに噛み付いてきた。

「ああ? サラリーマンのクソオヤジは引っ込んでろよ」

「悪い、家主殿。今日は何かと忙しくて、まだ夕餉の支度ができてないんだ」

 吠えかかる青年が見えていないかのように、鶴丸さんはこちらに話しかけてきた。心底申し訳なさそうに眉毛を下げている。

「鶴丸さん、今それどころじゃな――

「ナメてんじゃねえぞ!ああ!?」

 激高した青年が近くのシャッターを思い切りバットで叩いた。こんなにプライドを傷つけられたのは初めてなのか、口から唾を飛ばしながら、聞くに堪えない罵詈雑言を浴びせてきた。

 鶴丸さんはそこでようなく、やれやれ、と肩を竦めた。

「これほど近くで立ち会っているのに実力差も分からんのか。相当酷いな」

リーダーの真似をして、残りの取り巻きたちも「ああ?」「はあ?」と言いながらこちらに近づいてきた。バット男が、顎で鶴丸さんの方をしゃくる。新しいターゲットを見つけた彼らは喜び勇んで鶴丸さんに飛びかかった。

 そこからは、あまり良く見えなかった。気付いた時には取り巻きは全員揃って地面に転がっていた。

「ふうん。得物があるのなら、ひとつ遊んでやろうか?」

 鶴丸さんの指が余裕たっぷりに金属バットを示した。

 私と同じく何が起こったのか把握できていないらしいバット男だったが、馬鹿にされている、というその一点にのみ反応して襲いかかってきた。バットが全力で振り下ろされた―― と思った次の瞬間には青年の身体ははるか後ろへ吹っ飛んでいた。腹を抱えて倒れこむ様子を見て、ようやく強烈な蹴りが入ったのだと分かった。

「良かった良かった。借り物の服を汚さずにすんで」

 パタパタと付いてもいないスーツの埃を払って、彼はこちらに向き直った。

「さて、帰るか」

「でももうすぐ警察が……」

 言いかけて、思ったより良くない状況に陥っていることに気付いた。私が、ではなく鶴丸さんが、である。

 地面に倒れこんだ青年たち。鶴丸さんには身分証明がない。正当防衛を証明する以前の問題で、警察が来れば厄介なことになるに違いなかった。一刻も早く立ち去るべきだ。

 しかし、と石坂の方を見る。彼女をここに一人で置いていくのもまた、とても難しいことだった。課長は、と思って自動販売機の方を見ると、あんぐりと口を開けたてこちらを見ていた。解放されたにも関わらず座り込んだままなのは、腰が抜けたせいだろうか。どちらにせよ、役には立つまい。

 少し離れたところからパトカーのサイレンが聞こえてきた。おそらくあと数分。

 その時、とん、と背中が押された。

「早く行きなよ。警察が来ると、多分ややこしくなるだろうから」

 石坂はいろいろな思いを内に秘めた、複雑な表情をしていた。ちらりと青年たちに目をやって、それから青ざめたままの顔で鶴丸さんを見上げた。

「この子のこと、よろしくお願いします。こう見えて放っておくと危なっかしいから」

 心のこもった丁寧な言い方で、でも、近づくのを恐れるような慎重な言い方でもあった。声をかけられて初めて、鶴丸さんは石坂の存在に気付いたようだった。一度だけ笑みを浮かべて、ああ知ってる、と頷く。彼と彼女の会話は後にも先にもそれだけだった。

 立ち去る間際、石坂が私の耳元に囁いた。

「明日絶対聞かせてね。あとお守り、効果あったね」

 小さく頷いた私は鶴丸さんに手を引かれて歩き出した。角を曲がる直前になって、パトカーが石坂の近くに停まったのが目に入った。


 ◇◇◇

「ああ、肩が凝った。良くあんなものを一日中着ていられるなあ。感心するぜ」

 鶴丸さんは首を右左に傾けながら呆れの混じった声を出した。帰宅して早々にスーツを脱ぎ捨てた彼は、よほど疲れたと見えて、珍しく自前の白装束に着替えていた。もちろん草摺や脛当てといった武装を解いた、白い着物にネズミ色の袴を合わせただけのシンプルなスタイルである。着慣れた装いに身を包んだ鶴丸さんはここ最近で最もリラックスしているように見えた。

「慣れでしょうね。私には着物の方が苦しいイメージがありますけど」

「洋装にはすっかり慣れたと思ったんだがなあ。やはりそう簡単にはいかないか」

 シャツやスラックス姿を見慣れていたこともあって異風な彼には洋装こそ似合うと思っていたのだが、やはりこうして見るとこの白装束がいかにもしっくりくるのだった。あるべきところに落ちついた感じがする。

 空気がほぐれてきたところで、気になっていた話をいよいよ切り出すことにした。

「で、その着慣れないスーツを着て、どうしてあんなところにいたんですか」

 鶴丸さんはあからさまにぎくり、として、私から視線を逸らした。目が泳いでいる。

「言っただろう。そういう気分の時もあってな」

 ははは、と薄っぺらく笑う鶴丸さん。その顔を見て帰り道での違和感が勘違いではなかったと確信した。

「本当に?」

 彼が話をはぐらかすのは私を驚かせる算段がある時か、純粋に踏み込まれたくない時―― つまり彼の正体に関わるだろう話題の時―― の大抵どちらかである。前者を暴き立てるのはナンセンスだと思っていたし、後者に関してはまだ踏みきれていなかった。

 しかし今回にかぎってはそのどちらでもない。そんな気がする。おそらくそう重くはない内容である。それでも今までなら引き下がっていただろうから、やはり良くも悪くも私は変わったのだろう。彼を傷つけないことならば今はどんなことでも積極的に聞きたかった。

 合わない視線を無理矢理合わせるように見つめると、彼の動揺はますます大きくなった。

「嘘ではない……そう、嘘ではないんだ……」

 まるで花瓶を割った子どものような露骨なごまかし方である。自分で追い詰めておきながら、だんだん可哀想になってきた。

「あ、いえ、もちろん知りたくはあるんですけど、無理をさせるつもりはなくて……」

 知りたい気持ちを抑えてそう言うと、鶴丸さんは、恥じるようにぺしりと自分の額を叩いた。

「そうだ、そうだな。知りたいことがあるならば直接聞くのが筋ってもんだ」

 独り言を呟いて、悩むように視線を俯けた後、彼は今度はしっかりと私の目を見た。

「分かった。俺が今日やったことを白状しよう」

「教えてくれるんですか」

「ああ。ただ言ってしまえば、もしかしたらもうここに置いてもらえなくなるかもしれない」

 彼は非常に深刻かつ不安そうな顔をしていた。踏み込みの目測を誤ったかもしれない。予想よりもずっしりと重大な返事が返ってきたことに、私は戦々恐々とした。彼のことを知りたいのはもちろんだし、いつかは彼の正体にまつわるような話を、とも思っている。しかし私の中でそれは今すぐのことではなかった。

「そんなに重大なことなら、どうしてもというわけではなくて――

「だが、やはり言うべきだ。家主殿に対して卑怯なことはしたくない」

 怖気づいた私を尻目に彼はどんどん覚悟を固めており、今さら後に退けない雰囲気になってしまっていた。知りたがった癖に、いざ答えが分かるとなると、恐ろしい気持ちが湧き上がってくる。

「俺は、決してやってはならんことをやってしまった」

 思わず唾を飲みこんだ私に向かって、彼は重々しい口調でつづけた。

「実はな……俺は今日ずっと『ストーカー』をしていたんだ」

 ストーカー。

 神妙な雰囲気の中で飛び出した思いもよらぬ言葉に、私はオウム返しをするしかなかった。

「ストーカー?」

「そう、素破のように誰かの後をつけていくあれのことだ。こちらではそう呼ぶと聞いた」

「だ、だれの!?」

「それは、もちろん、家主殿の」

 彼は悲痛な声を出しながら頭を下げた。

「本当にすまない。世話になっている相手に対して、こそこそ探るような真似をするなんぞ、これほど道義に悖ることはない」 

 この通り、どうか追い出さないではくれまいか、と鶴丸さんは縁側に手をついて必死に謝り始めた。私は呆気に取られてその後ろ頭を見つめた。

 道義に悖るも何もそれ以前に色々と良く分からない。正直に言うと、実は殺人の罪で指名手配されている、というくらいのことは覚悟していたのに。ストーカー。それも私の。 

「追い出す追い出さないは置いておいて、とりあえず、どうしてそんなことをする必要があったのかを尋ねても?」

 鶴丸さんは「うう」とかなんとか意味をなさない言葉をいくつか吐いた後、気まずそうにつづけた。

「この前、怪我をして帰ってきたろう。その前も夜遅く疲れきって。なんというか少し気になってな。ほら、平和な世とはいえ女の身だからな」

 最後の方は少し早口になっていたが、言いたいことは良く伝わってきた。要するに彼は私を心配して付いてきてくれたのだ。本人の言う通り、知人の跡をつけるのはとても気まずいことだったろうに。

―― ひとこと、尋ねてくれれば」

―― ひとこと、尋ねてみれば」

 私と鶴丸さんの声が重なった。顔を見合わせると、彼は困ったようにこちらを見つめてきた。眉間に皺を寄せて眉を下げるという器用なことをやっている。

 彼がその『ひとこと』をためらった理由。私は自分がすでにその答えを知っていることに気付いた。

「えっと、つまりそういうことですか」

「そういうことだ」

 しょぼくれた様子で鶴丸さんは小さく頷いた。

 ―― 私と同じだったのだ。彼も。

 誰だって人の事情に踏み込むのは恐ろしい。それは親しい人であればあるほど。拒絶されるかもしれないという恐怖は、重く平等にのしかかってくる。

 私の顔を覗きこんで、彼は心細げに乞うた。

「許してくれるか、家主殿」

 ハの字の眉毛を見ていると腹の底がむずむずしてきた。

「許すもなにも……ふふふ」

「おいおい、人が真剣に謝っているのに笑うのは酷いんじゃないか」

「だってねえ。やるに事欠いてストーカーでしょう」

 私の心の中はなんとも言えない暖かさでいっぱいだった。

 鶴丸さんはあぐらの上に片肘を立てて、半ばふくれっ面にも見える顔をその上に乗せた。

「家主殿がこういう人間であることくらい、わかってはいたんだがなあ」

「わかってからの方が難しいんですよ。多分」

 鶴丸さんがほんの少しだけこちらに寄ってきて、訊いてもいいか、と小声で言った。

 私もほんの少しだけ鶴丸さんに近づいて座った。そして最近あったことをぽつりぽつりと鶴丸さんに話した。仕事のこと、課長のこと、石坂のこと。

 どんなことも包み隠さず打ち明けたが、ただあの夕方の横断歩道であった恐ろしい出来事についてだけはなんとなく口に出来ず、本当に転んだだけなのだと言っておいた。

 彼は頷きながら、時には問いながら我がことのように私の話を聞いてくれた。最後、さっきのオヤジ狩りの話になって、鶴丸さんは呆れたような声を上げた。

「じゃあ家主殿はあの時、好色親爺のために身体を張っていたのか。驚くべき忠誠心だな」

「別に忠誠心でやったわけじゃありませんよ。目の前で知り合いが殴られそうになってたら、さすがに」

「そういうものか」

「そういうものです。ねえ、私ももうひとつ訊きたいことがあるんですけどいいですか」

 粗方話し終えた私は、ずっと気になっていたもうひとつの疑問をぶつけてみることにした。何を聞かれるのだろうと、鶴丸さんが少しだけ身構えた。

「どうしてスーツなんて着ていたんですか? 私を尾行するなら普通の服で良かったと思うんですけど」

 鶴丸さんは意外そうな顔をした。

「ん? てっきりあれを着ないと家主殿の勤め先のある街中には行けないんだと。師範殿が必ず着ていけと言うもんでな」

「ああ、なるほど」

 頭の中にほくそ笑む赤ら顔が浮かんだ。あの師範はああ見えて女の機微を非常に良くご存知だ。確かにこういう機会でもないと鶴丸さんのスーツ姿などお目にかかれない。

「全部お見通しって感じで怖いですね……とにかくクリーニングに出しましょう。返す時は私がとても感謝していたと伝えてください」

「俺が借りたのに、家主殿が感謝するのか」

 そう言って不思議そうに首をかしげる彼に「家主ですから」と適当に頷いておいた。

 秋風が縁側に吹き込んできた。

 縁側にあぐらをかいた鶴丸さんは少しだけ寒そうに懐手をした。その姿にいつかの冬の日を思い出した。放ったらかしにしていた庭を手入れする間、彼はこうやってじっと私の後ろ姿を見ていたのだ。あれから春が来て、夏が過ぎて、秋さえも終わろうとしている。思えばあっという間だった。しかしその短い間に私という人間はすっかり変わった。変えてくれた、と言うべきかもしれない。

 話すことがなくなると、鶴丸さんはぼんやりと庭へ視線をやった。

 あの日から結局ほとんど手を入れなかった庭は相変わらずがらんとしていた。隅の方に植えてある千日紅だけが秋風と一緒に首をふわふわと揺らしている。ホームセンターの「育てやすい」という触れ込みに惹かれて買ったものだった。紫色は闇に紛れてはっきりとは見えず、綿毛のような丸い白花のみが夜の中に浮かんで見える。

「今晩は月が良く見えるなあ」

 横で空を見上げる気配がした。つられて上を向くと、大きな満月が夜空に煌々と顔を出していた。

「そういえば今日は十三夜でした。片見月になっちゃいましたね」

「なに、そういうこともある。月なんぞまた来年でも再来年でも好きな時に見ればいいさ」

「そうでしょうか。もしかしたら来年はなくなっちゃってるかもしれない」

 ありもしないことに、ありえる不安を乗せてみた。月とそっくりな金色の目がこちらに向けられる。しかし私は空の月から目を離さなかった。

 月はなくならない、と彼は言う。そうとも、月はなくならないだろう。

 横を向くと思ったより近くに白い顔があった。いつの間にかまた少し距離が近くなっていた。

千年ちとせの昔から何一つ変わらないんだ。だから多分これからもそうだろうさ」

 彼は哀れむような声で言葉を紡いだ。その端を掠めるようにして秋風がびゅうと吹く。

「寒い」

 そう言いながら鶴丸さんは懐から左手を出した。色の薄いそれが縁側の床に向かってそうっと下ろされていくのを見て、私は再び月を見上げた。予想していたよりも少しだけ早く、右手の甲にぬくもりが落ちてきた。

 結局、私たちは似たもの同士なのだった。

「手、冷たいですね」

「嘘つけ。君の方が冷たい」

 不安をとかすような声が耳元をくすぐった。


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