飛沫の音。

 紅。

 ごろりと何かが転がる音。

 白。紅。

 舐めとる舌。

 冷たい瞳。

 ちりんと鳴る音。

 紅。

 刃のような光を帯びた瞳がこちらに向いて――

 布団をはねのけて飛び起きた。心臓が早鐘を打っている。寝間着代わりのTシャツはびっしょりと汗で濡れ、荒い呼吸が止まらなかった。

 部屋の中は暗い。枕元の時計を確認するとまだ四時半だった。十一月に入れば日の出は早くとも六時前。寝ようと思えば寝る時間はある。

 眠れない。

 夢と現実とが重なりあって何度も蘇ってきて、震える身体を抱きかかえた。

 ―― 怖い。

 胸元のお守りを握りしめて、祈りながら夜明けを待った。



再び、冬

第三十四話 刃(前)


「あんた、ここのところ顔色悪いけど大丈夫?」

 昼休み、顔を合わせるなり石坂が言った。勘の鋭い質問にどきりとする。

「わかる?」

「うん。今日は特にやばいけど。生理? 超ド級生理が来ちゃった?」

 ストレートな物言いに苦笑いした。

「声が大きいよ、石坂。ちょっと夢見が悪かっただけ」

「残業しすぎなんじゃない? 先週ぐらいから終電までやってるじゃん」

「寒くなってきて動きが鈍ってるだけだよ」

 ぶるる、と肩をすくめて震える真似をすると、亀じゃあるまいし、と笑われ、その話はそれで終わった。

 追求されずにほっとした。彼女に言ったところで心配させてしまうだけだし、そもそも口に出すことすら憚られる。

 寝ていても仕事をしていても、あの光景がフラッシュバックした。ここ数日まともに眠れていない。顔色が悪いのは当然だった。

 食欲がわかず、半分以上残して箸を置いた。心配そうな石坂の顔が視界に入る。

「本当に大丈夫? 病院行った方がいいんじゃない」

「ありがとう。これ以上ひどくなったらそうする」

「あんたはすぐに無理するから心配だわあ。一緒に暮らしてる従兄くんは知ってんの?」

 突然出てきた単語にびくりと身体が震えた。胸元にあるお守りに手をやると、いくぶんか気持ちが落ち着いた。

「最近は向こうも忙しくて、あんまり顔合わせてないんだ」

「カップルの言い訳みたい」

 石坂がまた笑う。明るい彼女の声がまとわりつく闇を払ってくれるように感じた。

「そういえばさ、石坂、春に会ってた彼とはどうなったの」

「春? ああ、いたねそんなの」

「そんなのって」

「それよりさ、実はこの前――

 いつも通りの話題へと切り替えると、彼女は身を乗り出して近況を熱弁し始めた。

 できることなら考えたくない。しかし、いつまでもこうしている訳にもいかないこともわかっている。


 ◇◇◇


 駅からの帰り道、自転車には乗らず、時間をかけて押して歩いた。

 時刻は八時半。今日も終電まで残業をしようと思っていたのに、グループ長にとうとう顔色の悪さを指摘されて帰宅を命じられてしまった。

 ひどく憂鬱な気分だった。今帰れば、彼と鉢合わせしてしまう。できることなら、少しでも時間をずらして帰りたかった。

 かれこれ三日間、彼とはほとんど顔を合わせていない。忙しいわけではなく、ただ私が彼を避けているのだ。一方的に。

 だって、どんな顔をして会えばいいのかわからない。彼の前で平常心を保てる自信がない。嫌いになったわけでは決してない。なるはずがない。特別な気持ちも失われていない。そんなはずがない、と信じている。だが、記憶に刻み込まれたショックを誤魔化すことは簡単ではない。

 だからこそ、中途半端に近づいて彼を傷付けるのが怖かった。

 ちりん、と涼やかな金属音がした。どきりとして振り返ると、白紙に墨汁をこぼしたようなブチ猫がいた。首元につけられた鈴に、ほっと胸をなでおろす。道を渡っていた猫は私の視線に気づくとするりと反対側の生垣にもぐりこんでしまった。猫が消えていった先はあの公園である。

 鶴丸さんと初めて出会った場所。そして三日前にたどり着いてしまった場所。

 あれ以来、ここには近寄っていない。

 これまではどうしても無理だった。中に入って確認するどころか、近付くだけで足がすくみそうになる。ショックが薄らぐことはなかった。薄らぐはずがない。あんな、もの。

 押し込めていた記憶の一端が蘇ってきて、身体が震えだした。首から下げたお守りに手をやって深呼吸すると、少しだけ落ち着いた。

 でも、行かなければならない。このままではいられないのだ。

 もう一度時計に目をやった。八時半過ぎ。まだそう遅くはない時刻に背中を押されて、ついに決意を固めた。


 ◇◇◇

 パンプスの足音が腐葉土に吸い込まれる。湿った落ち葉の層は足を深く飲み込んで、進もうとする私の決心を何度も引き留めた。

 大通りのライトも、遊歩道の街灯もすでにはるか後ろである。道なき道は暗く、深い。公園の敷地はそのほとんどが人の手の入らない森である。林と呼ばないのはそれだけの広さがあるからで、分け入れば分け入るだけ闇は濃くなっていく。暗さとこれから向かう場所への恐怖で足がすくんだ。

 追い打ちをかけるように闇の中から、ひゅう、と不気味な口笛が聞こえた。季節外れのトラツグミ。昔の人が鵺の鳴き声に喩えたそれである。物寂しい鳴き声に、背が粟立った。

 ―― やっぱりやめておこうか。今ならまだ引き返せる。

 後ろを振り返るとはるか遠くに大通りの光が見えた。

 ―― いや、行動しないかぎり状況はずっと変わらない。

 半ばやけくそで恐慌を抑え込んだ。

 次から次へと噴き出てくる良くない妄想を一生懸命打ち消した。首からさげた小さな袋を両手で握りしめ、自分を励ますために時計を見る。九時過ぎ。大丈夫、まだまだ人の活動している時間帯だ。

 大通りや駅前の明かりを思い出す。コンビニ、レストラン。少し離れているだけで、生きて動く人間がちゃんといる。

 あたりはすでに真っ暗だった。見上げた木々の間だけがわずかに明るく見える。

 真冬にもかかわらず、背も脇もすでに汗でびっしょりと濡れていた。

 大丈夫、大丈夫。私はそれだけを呪文のように唱えながら夜の森に分け入っていった。

 どれくらい歩いただろうか。

 目指していた目印が目に入り、息を吐いた。ぽっかりと開けた空間に、一際大きい樫の木。太枝の一本が根本から折れているその姿は、三日前に見えたものと全く同じだった。心臓の鼓動を加速していく。

 もし、あの時見た光景が現実なら、きっとまだ何か証拠が残っているはず。真実を確かめなければ。

 そう考えた途端、一気に冷や汗が噴きだしてきた。手足がカタカタと震えだす。

 あそこで。あそこで。

 記憶がフラッシュバックする。

 闇。白。音。転がる。紅。

 そう、あの場所で。私のすぐ目の前で。

 ―― 人が殺されたのだ。


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