それは、三日前のことだった。
第三十五話 刃(後)
いつになく仕事が早く終わったその日、私は機嫌よく自転車を駆り、帰路についていた。確かまだ時間は七時半かそれくらい、これなら帰って映画の一、二本は見られる、とそんなことを考えながら。前に一緒に見たのはアクション映画だったから、今度はサスペンスを見よう。とびっきりのどんでん返しがあるやつ。きっと喜ぶに違いない。録画はしてたっけな。
映画のことを考えていても、主語はすべて「彼」に変わる。隣に並んで見ていても、鶴丸さんがどんな感想を言うか、どんな風に笑うか、そんなことばかりが気になって、映画の内容なんて本当はまったく頭に入ってこない。
早く帰ろう。
期待をそのまま力に変えてペダルを強く押し込んだ時、視界の端に白が見えた。
ほんの一瞬ひらめいただけのそれに、思わず強くブレーキをかけた。大通りからかすかに見える公園の奥、見知った後ろ姿がすっと闇に溶けていく。
「鶴丸さん?」
彼が夜間に外出することは、これまでもたまにはあった。主に道場関係で、道場の師範からの呼び出し、子どもたちからのお呼ばれ、などなど。だが、どこへ行くにしても方向がおかしい。公園の奥はそのまま深い山に繋がっているだけだ。自転車に乗っていないのも奇妙であるし、そもそも――
「どううして今あの格好を……」
初めて会った日に来ていた、あの白装束だった。目立つと知ってからは滅多に袖を通さなくなっていたそれを、確かに着ていたように思う。前ならともかく、すでにここの常識に通じた彼が、今更あの姿で外を出歩こうとするとは思いがたい。
追うべきか追うまいか、ひどく悩んだ。胸騒ぎがしていた。近づいてならないと本能が鳴らす警鐘と、ひとりで闇に消えていった彼をこのまま放っておいてはならないと心が叫ぶ焦燥。その両方ともが。
迷った挙句、私は彼を追うことにした。
◇◇◇
深く分け入った森の奥に明かりはなく、彼の姿もすでに見えなかった。自らが踏み折る枯れ枝の音に怯えながら、蔓と落ち葉に覆われた細道をゆく。聞きなれぬ獣や鳥の声がする度に、鶴丸さん、と大きな声で叫んでしまいたくなった。
しばらく進めど人の気配はなく、帰り道の不安さえ出てきた時のことだった。
それはおそらくは苦痛と恐怖の悲鳴だった。思ったより近くで聞こえたそれに、腰を抜かして木陰にへたりこんだ。太枝の一本が不吉に折れた古樫が、覆いかぶさるように影をつくっている。黒く遮られたその中で、ただ必死で口元を押さえて声が漏れないように耐えた。そうしなければあたり構わず叫び出してしまいそうだった。つんざくような悲鳴をあげるそれは、獣か、鳥か、それとも。
悲鳴が途切れ、荒い吐息が絶え絶えに形を成した。
「頼む……誰か助けてくれ……」
人であってくれるな、と祈った思いは裏切られた。助けに飛び出そうとした瞬間、穏やかな声が鼓膜に突き立った。
「寒月か。よく映える」
隠れていた月がゆっくりと顔を出した。清浄な光の帯が空から舞い降りてくる。天の羽衣が掠めたような、静かな衣擦れの音がした。
目を逸らすことはできなかった。まるで一枚の美しい絵のように。
白装束を真っ赤に染めて、月光で輝く銀髪から血を滴らせながら、彼はそこに立っていた。
人の形をした人でない何か。初めて会った日のあの凍るような空気を纏った鶴丸さんは良く聞き知った声で、聞いたことのない言葉を話した。
「膾になってもよく逃げる魚だ」
「違うんだ……俺じゃない……」
「ふうん。なかなか面白いことを言う」
はは、と乾いた笑いが響いた。温度がまったく感じられない冷え切った声だった。
「神を神とも思わぬ者共が。貴様らは代わり映えしないな。いつの時代も飽きもせず同じ言葉を繰り返す。ならば、その末路もそうあるべきだろう」
瀕死の男がすがるように顔を上げた。鶴丸さんは高い場所から男に微笑みかけていた。
赤い舌がちらりと動いて、白い頬に垂れた血を舐めとった。愉しくてたまらない。そんな風にさえ見えた。
「……や、やめ―― 」
血に濡れた白刃がきらめいた時には、もうすべてが終わっていた。硬直した私のまぶたは現実から逃げることを許さず、月の光もまた非情にすべてを明らかにした。
血の雨がさやさやと落ち葉に降り注いでいた。
一切の表情を消した彼は、足元の死体に一瞥もくれず月を仰いでひとりごちた。
「ああ、退屈だ」
◇◇◇
それが三日前のこと。
目的地に辿り着いて、私はその場にへたり込んだ。
そこはまさにあの時、彼が立っていた場所だった。
―― 何も、ない。
あれだけ飛び散った血も、死体も、何もない。片付けられたというよりも、はじめから何事もなかった、という方がよほどしっくりくる。
「なんだあ、やっぱり夢だったんだ。そうだよね。鶴丸さんがそんなことするはずない。だって―― 」
「だって?」
冷たい声が落ちてきた。ありえないはずのそれに、心臓が凍りついた。
「聞かせて欲しいな、家主殿。君が俺の何を知っているっていうんだ?」
内から這い上がる寒さでこわばった身体をなんとか振り向かせると、そこには彼が立っていた。嘘のように白い装束に身を包み、手にはあの刀を携えて。
「つる、まるさん……」
「俺が誰で、どこから来て、なぜ君と一緒にいるのか。知りもしない俺の心映えよりも、自分の目で見たものに重きを置く方がよほど利口だ」
目で見たもの? あの光景を?
「なあ。君は俺の何を知っている?」
嘲るような問いかけだった。彼が何を言っているのかわからなかった。頭がぼんやりとして、何が現実で何が夢なのか判断できない。まるで、はじめて出会ったあの時のように何もかもが曖昧だった。
しびれを切らしたらしい彼は音もなく歩みを進め、私の手を取った。長袖のボタンが外され、一気に肘上まで捲りあげられた。思わず、痛い、と声が出た。必死で隠そうとしたが、掴んだ腕はびくともしなかった。
「ほら、本当はわかっているんだろう」
彼は無表情のまま私の下腕を指した。晒された肌の至るところに散る、生々しい傷。鋭利な刃物で斬られたような、いまだ塞がらない傷跡だった。はじめて気づいたのは秋頃だった。覚えのないそれは日を追うごとに増えていき、日を追うごとに深く大きくなっていった。
「触れあえば柔い方に傷がつく。例外はない」
能面のような顔が事実だけを宣告した。
「違う、これはそんなんじゃ……」
「鋒がえぐるのは身体だけじゃない。それもわかっているはずだ」
言われてはっとした。フラッシュバックする光景。血を浴びて笑う彼の姿が脳裏に焼き付いて離れない。
一歩後退った私を見て、鶴丸さんは歪な笑みを浮かべた。
「鉄のごとく頑なな者だとて、所詮は人だ」
獲物を追い込むように一歩踏み込んで、彼は私の腕を力を入れた。ほんの少し触れただけで、あちこちから血が流れ出た。その血を見て、彼は囁いた。
「心と身体に刻まれ、今この時も血を流すこの傷こそ、君が人であることの証左だ。それでもなお、人である君が俺に触れようと言うのであれば―― 」
白い口元が弧を描いた。
腕から肩を滑り上がった彼の指が、私の喉元を愛しそうに撫でた。
「ここを斬ればどうなると言ったか、覚えているか」
陶然とした声が聞こえ、なめらかな指先が顎を持ち上げた。目が合う。瞳孔が引き絞られた金色の瞳には、蠱惑的な光があった。限界まで磨き上げられた鋒。吸い込まれるように触れてみたくなる、本能に反した本能的な衝動。なあ、と耳元に囁く声に背筋がぞくりとした。
「美しかったろう、血を浴びた俺は」
―― そのために生まれてきたのだから。
かちゃりと鍔鳴りの音がして、彼の手に力が入った。
我に返り、手足をばたつかせて抵抗した。ようやっと拘束から抜け出た私を鶴丸さんはつまらなさそうに見ていた。
もう、限界だった。
後も先も考えず、その場から逃げ出した。
「元の居場所に帰りたければ、決して振り返るな……言わせるのはもうこれっきりにしてくれよ」
後ろからそんな声が聞こえた気がした。
◇◇◇
どこをどう走ったのか、家に帰ってそのまま二階に閉じこもった。焼け焦げたお守りを握りしめ、布団の中で震えつづけた。朝が来るのを、これほど切望した夜はなかった。
翌日、太陽が昇ってからリビングに降りた。昨夜、作り置かれた夕飯がラップの下で冷え切っていた。食卓に残されたメモには、会社帰りの私に宛てられた一言があった。
『所用で出かける。遅くならずに戻る』
その日から鶴丸さんは姿を消した。