鶴丸さんが消えて一週間が経った。
この間、一日も休むこともなければ、仕事の能率を落とすこともなく、いつもと全く同じように淡々と勤めを果たしていた。それはむしろ慣れた作業だった。上がったり下がったり泣いたり怒ったり、そんな風に心を自覚するようになったのは―― できるようになったのは、それこそつい最近の話なのだから。
仕事が終わり家に帰れば、年末が近づく世の慌ただしさからもひとり取り残されて、何をするでもなく一日を終える。
静かなリビング。ろくに物の入っていない冷蔵庫。少ない洗濯物。目に見えて変わったことと言えばその程度で、それにしたって一年前の状態にそのまま戻っただけである。違和感らしい違和感はなかった。元よりこうやって生きてきたのだ。
今や、彼と過ごした日々は夢のように朧気だった。
比喩ではない。鶴丸さんが消えてから、記憶は日を追うごとに薄れてきていた。すりガラスを一枚ずつ重ねるように、次第に確実に遠くなっていく。あとひと月もすれば、私は彼の顔さえ思い出せなくなるだろう。まるではじめからいなかった人のように。
そのことを恐ろしく思うのと同時に、どこが安堵している自分がいた。
無邪気に声を上げる彼。いたずらっぽく口角を上げる彼。私の手を取り微笑む彼―― 血を浴びて笑う彼。
彼はそれが己の本性なのだと言った。人を傷付け、血を欲する、そのために生まれた存在だと。
―― 決して相容れない存在なのだと。
忘れたいが故に忘れてはならない。忘れたくないが故に忘れなければならない。すべての記憶には二面性がある。
ならばいっそ。
主が去った和室でひとり、柱にもたれてうなだれた。
第三十六話 往き路
土曜日の半勤を終え、わずかに覗く太陽で暖を取りながら家に帰った。
リビングは冷え切り、生きた匂いは何もない。ここはもう空き家のようなものだった。以前の私―― それから今の私と同じように。
彼は彼なりに最後を告げて去っていった。であれば、もう決して己からは戻ってこないだろう。そういう人なのだ。
そうわかっていながらも、ぽっかりと穴の空いた心がその中身の不在を埋めようと身動ぎした。
例えば、全部いつものイタズラだったら。
散々焦らしてびっくりさせておいて、驚いたか?と気づけばすぐ後ろに立っている。あの心底楽しそうな無邪気な笑顔で、いやあ今回もなかなか悪くなかった、家主殿はこういったことは少しも学習せんからなあ、とかなんとか失礼な講評を付け加えながら。
窓から、裏庭から、時には玄関から堂々と。そんな風に思えば今にもここに――
その時、ピンポーン、と古いチャイム音がした。滅多に鳴らないそれにどくんと心臓が跳ねる。取るものも取りあえず部屋から飛び出し、血相を変えて蹴り開けたドア、その先にいたのは―― 石坂だった。
ちゃお、と手をこまねいている。「石坂?」と近づいていくと容赦ない力で額を指で弾かれた。
「いだっ」
「……今、思いっきりがっかりしたなあ? このあたしのスナイパーアイをごまかせるとでも思ってんの?」
冗談っぽく言った後、眦を吊り上げた。
「どうするつもりよ」
彼女は何故か怒っていた。烈火のごとく。
「石坂、なんのことだか……」
「これから、どうするつもりか、って訊いてんの! なんのことだかわからないとは言わせないから。ほかの誰がわからなくても、あたしにはちゃんとわかってんだから!」
もともと短気な性質の彼女であるから、怒っているところは会社でも良く見る。だがこういう怒り方は初めてだった。私はその場に立ち尽くした。
彼女は泣いていた。
「何もしないバカ!意固地で頑固なバカ!自分の中で勝手に折り合いをつけようとするバカ!相談しないバカ!全部あんたのことだから!せっかく……せっかく自分の気持ちを素直に出せるようになったのに!何があっても笑ってるだけだったあんたが泣いたり怒ったりできるようになって、あたし、本当に嬉しかったんだからあ!」
力ない拳ですがるように私の肩を叩いた。マスカラで綺麗に伸ばした自慢のまつげが、涙で剥がれて目元に散っていた。
「バカヤロウ、二時間ものの化粧落ちちゃったじゃん……どうしてよバカヤロウ……頼んだじゃない、この子のことよろしくって」
震える身体を抱きしめると、すすり泣きが大きくなった。
「あたしね、こんな性格だからすぐに友達にも男にも逃げられちゃうのよ……あんたのこと、正直はじめは根暗なヤツだと思ってた。本当のことだから気を悪くしないでね。でも、あんたに話を聞いてもらううち、あんたの話を聞きたいと思うようになった。いつのまにかあんたとお昼ご飯食べる時間がサイッコーに楽しみな時間になってた」
隠すような囁き声が言う。
「わかっちゃったの。あの時―― 彼のことを見た時に、全部。あの人、普通の人じゃないんでしょ。あの人はあたしたちとは何もかもが違う、一緒にいるには、あんたがいっぱい傷だらけにならなきゃならない存在だって。そんな馬鹿な話があるか、って笑われるかもしれないけど、あたしこう見えて昔から『ああいうもの』には鋭いのよ。本当。だから嫌。本当はすごく嫌。そんなわけわからない怖い奴にあんたのことを取られるなんて嫌。あんたのことを預けるなんて嫌」
ぐずぐずとしゃくりあげながら、彼女は顔を上げ、涙で濡れた目で私を見つめた。
「でも、それ以上にわかってることがあるの。こっちはね、怪しい霊感なんかじゃないわよ。もっともっと当たる―― 女の勘ってやつ。いい? あんたは今あいつを追いかけなきゃダメ。絶対に」
彼女は命を削るような懸命さで、私に語りかけた。後から思えば、それはすべての答えだった。
「彼はどうだかしらないけど。あたしたちは人間なの。好きな時に怒ったり泣いたりしていいの。人間だから、自分の好きなように生きていいのよ」
ぱきん、と何かの壊れる音がした。身体を縛っていた鎖が、砕け散ったようだった。
―― 思ったように生きればいい。人間なんだから。
私は彼女をもう一度強く抱きしめた。あたたかい涙が頬を伝い、彼女のコートを濡らした。
「……ありがとう」
「それはこっちのセリフだって言ってんのバカ!」
彼女はフン、と荒い鼻息で照れを隠した。思わず笑うと、彼女も小さな笑い声を漏らした。
彼女の顔を見つめて最初で最後の別れを告げた。
「行ってくるね」
◇◇◇
手早く荷物を詰め込み、部屋を片付ける。
この街に来てからずっと住みつづけた古家。その柱のシミや空気の匂いを記憶に焼き付けながら、住んだ痕跡をなくしていく。
もともと持ち物はそう多くない。片付けは思ったより早く終わった。
ボストンバッグの中には、数日分の着替えとお金とお守り、それから鶴丸さんの押入れに残されていたあの古い和装本。
門を締め、家の鍵をポストに入れた。片付けていくべきものには本来この家も含まれているが、今日はあいにく土曜日だ。休みがあけたら、石坂が家具を処理して、業者まで解約に行ってくれる。
ともに暮らした家に背を向け、黄昏の中へ漕ぎ出した。
振り返ることは、もうない。