着いた頃にはもう、ぽつりぽつりと街灯がつき始めていた。電信柱に申し訳程度に取り付けられたそれは、冬に残ったわずかな羽虫を集めながら、赤茶けた光をわびしく明滅させている。
私を降ろしたマイクロバスは、人っ子ひとりいない山の中腹のロータリーを慣れた様子でぐるりと回った後、いつもよりもゆっくりと下山の途についた。
ミラーに映った運転手が後ろ髪を引かれたようにこちらを見ている。私が少しでも素振りを見せれば、すぐにでも引き返してくれるつもりなのだろう。
それもそのはず、これは今日最後のシャトルバス。麓に連れて帰るためのものであって、山中に置き去りにするためのものではない。
これで良いんです、との意思表示にミラーに向かって一礼して、私は細い山道を辿り始めた。
第三十七話 たそかれ(前)
彼岸とお盆、この街に来てから必ず年二回ずつ通ってきた古い墓場は、黄昏の弱光の中にぼんやりと打ち沈んでいた。いつか老婆と出会った石段の上に立つ。こんな時間に来たことはこれまで一度もなかった。
日が沈んでからは決して墓に参らないように。
私にそう言い含めたのは他でもない祖母だったのだから。
遠くでカラスの鳴く声がする。五感に感じられる生き物の気配はそれだけだった。苔むした石段の端に夕日が一筋当たっていたが、次第に蒸発するように薄くなり、いつしか影の中に溶け込んでいった。
日が暮れたのだ。
荒屋となった山寺の軒から、とつ、とつ、と水滴の垂れ落ちるほかは、何の音もしない。昼ともつかない仄明るさと夜ともつかない薄暗さの中、ただ墓標だけが虚ろに立ち並ぶその様はとてもこの世のものとは思えなかった。
異なる界。
日没後、すべての光が消えるまでのわずかなその時間は、出会うべきでない者たちと袖触れ合う、逢魔の時。人の身に災厄をもたらす、大禍時。
確信や確証があってここに来たわけではなかった。少なくとも、この場所に彼との思い出は残されていない。ここにあるのは中身のないの祖母の墓だけだ。
目を閉じ、身体の内に意識を集めた。
―― 人はね、本当は何でもわかるようになっているのよ。皆、そのことを忘れてしまっているだけで。
声が蘇る。祖母は生前、占いのようなことをして生計を立てていたという。親戚の者が彼女を疎ましがっていたのにはそういう理由があったとも聞いた。彼女は何も教えてはくれなかった。あるいは、教えたくなかったのかもしれない。
夕闇にとける墓標の群れを眺める。
訪れるに相応しい場所は他にいくらでもあった。だが、私が私を導いたのは結局この場所だった。
私の足は石段を降り、地蔵の前を通り抜け、最奥に立つ大きな石碑へと迷わずに進んでいった。空気に溶けるように、静かに。苔に覆われ、いまや刻まれた文字すら見えないその前で、私は息を吸い込んだ。そして、腹の底からの大声を出した。
「鶴丸さんっ、今日の晩御飯はなんですか!」
深山に声がこだまする。
石碑の裏には、果たして白い後ろ姿があった。慌てて飛び起きた鶴丸さんは、金色の瞳をめいいっぱいに見開き、まばたきも忘れて私を見つめていた。
その顔を見て、思わず口の端が上がってしまう。私から彼への一世一代のどっきりは大成功だった。私は石碑に手をかけて、彼を見下ろした。
「驚きすぎて声も出ないようですね。どうですか、驚かされる側に回った気持ちは」
鶴丸さんは何事かを言おうと口を開きかけたが、結局そのまま閉ざしてしまった。立ち上がった彼は表情を消し、私と距離を取った。そして獣の唸るような声で言った。
「どうして来た」
「どうしてと言われても。コンビニの晩御飯にも飽きてしまいましたし。一度他人の手作りの味を覚えてしまうと、自分じゃなかなか」
両手を上げて肩を竦めて見せると、彼は眉間を険しく寄せて、鋭い白鋼の瞳で睨めつけた。珍しく激した様子だった。
「どうしてわからない」
「わかりません。わかろうとも、思いません」
「君はここに来るべきではなかった。決して」
表情を消し、彼は刀に手をかけた。迂闊に踏み込めば鞘が走り、その次には私の身体は二つに別れて地面に転がっている。瞳孔が裂けた金の眼、そこに宿る底冷えするような光は、脳裏に走った一瞬の想像を容易に真実へと変えてしまいそうだった。
恐ろしかった。気を抜けば今にも崩折れて這いつくばってしまいそうなほどに。生物としての本能、人としての意識、その両方が恐怖を訴えている。
だが今、私の心の奥底にはそれとは別の感情が湧き上がっていた。鍛冶場の種火のように、小さくとも消えず燃え続けてきたそれは恐怖を引き下がらせ、恐慌を押さえ込み、私の背を押した。
一歩、踏み出した。鶴丸さんがびくりと後退る。その姿に、心の火がまた強まった。
また一歩。じりじりと距離を詰め、近づいていく。
岩場の縁まで近づいて、私はようやく手を伸ばした。逃げる場所がなくなった彼は、触れられることを恐れるように身を竦ませた。
ああ、やっと見つけた。
手甲につつまれた白い手を捕まえて、そうっと両手で包みこんだ。彼の手は震えていた。
「ほら、大丈夫だった」
白い息を吐きつつそう言うと、彼は目を伏せ消え入りそうな声で言った。
「……大丈夫じゃ、ないだろ」
ぽたり。ぽたり。
生ぬるい液体の感触がコートの袖を伝って地に落ちた。手についた大小の傷から、また新しい血が流れ出していた。ぽたぽた垂れるそれを直視できない様子で、彼は奥歯を噛んだ。
ただびとには触れることすら許されない。そういう形をしているのだ、彼は。
「確かに、鶴丸さんは人を傷つけるために生まれてきた存在なのかもしれません。私はそんな鶴丸さんのことを、何も知らない」
鶴丸さんは打たれたように立ち竦んでいた。同じ言葉で私の心に鋒を向けた、その過去に彼自身が一番傷ついている。怯えて揺れる視線を捕まえて言う。
「でもね、そんな私にもひとつだけわかることがあるんです。鶴丸さんは私たちが―― 人が大好きなんだって」
愛しい気持ちが心の底からとめどなく溢れ出てきて、流れる血も痛みも押し流していく。残ったのはただひたすらにあたたかい何かだけ。
「だから大丈夫。鉄は割れたら戻らないかもしれないけど、私は鉄じゃないから。生きて血を流す人間だから。怪我をしたら直せばいいんです。何度でも。こんな小さな傷よりも、鶴丸さんと別れてしまう方がずっと、痛かった」
ぽたり。ぽたり。
頬を伝う涙が地面に落ちた。凍りついていた彼の両手が氷の戒めから逃れたように動き出し、そっと私の身体を抱いた。次第に強く、痛いほどに。ようやく触れられたその胸の内は裂けるほど寂しく凍えていた。
時の狭間の薄闇の中、囁くように問うた。
「誰そ彼。今度こそ訊いてもいいですか?」
◇◇◇
明かりのない山中から見上げた天蓋は、満点の星に彩られていた。
「お墓の中で寝転ぶなんて罰当たりですかね」
「一晩くらいどうってことないさ。俺なんて棺桶の中で長いこと寝てたんだぜ」
すぐそばでクックッと笑い声がする。鶴丸さんの白い着物はふくふくと暖かで、腕の中に身を寄せていると寒さはあまり感じなかった。
「鶴丸さん。お話を聞く前に、正直な気持ちを伝えてもいいですか。少し言いにくいことなんですけど」
「その、正直な気持ちというのは」
隣で鶴丸さんの縮こまる気配がして、おそるおそる、と言った風に聞き返してきた。つい先日あんな突き放し方をした手前、何を言われるか戦々恐々としているのだろう。
「本当のところ、鶴丸さんの正体とか今更どうだっていいんです。だから話をするにしても、そこらへんは別にもう適当に端折ってくれていいかな。なーんちゃって。あはは」
ぽかん、とそういうオノマトペが相応しい間隙だった。
「おい、ちょっと待て」
「あはは」
「笑うな笑うな」
彼は私の肩を掴んで、半ば真剣に私の正気を疑うような感じで顔を覗き込んできた。
「私は至って正常ですよ」
「いや、さっきまでの流れはどこへ行ったのかと思ってな。あー、ここに来るまで頭を打ったりは?」
「いやだなあ、もう。今はそんなことよりもっと知りたいことがあるだけです。嬉しかったこと、悲しかったこと。どんなことでもいい。あなたが今までどういう風に生きてきたかを教えてください」
指を立てて言うと、彼は豆鉄砲を食らったように目を丸くし、それからやはり笑い始めた。
「そういうところだったな。君の飽きないところは。あーあ、こうなったらとびっきり驚かせてやろうと色々内容を考えていたのに。残念無念」
どっきり計画が失敗したにもかかわらず、上機嫌な口ぶりだった。彼はすうと穏やかな息を吐き、のびのびと話しはじめた。
「そうさなあ」
◇◇◇
鶴丸さんの話は、とても長く長く続いた。一晩で語り尽くせぬほどのそれを、彼はそれでも丁寧に、ひとつひとつ語ってくれた。
私たちが出会った日、あの小さな縁側で私が彼にそうしたように。
彼が語り終えたのは夜明け前だった。