自分のことをこんなに長く話したのは初めてだ、と彼は立ち上がりながら言った。手甲についた土汚れを払って、手を伸ばしてくる。
「ほら」
強い腕に引き上げられて立つ。夜霧は深く、朝が来るまでは今少しの猶予があった。
「家主殿、最後にひとつやっておかなければならないことがあるんだ」
「それは、その怪我と関係が?」
鶴丸さんは静かに頷いた。彼の白い着物は汚れて擦り切れ、あちこちに血がついていた。
「昼は人の世、夜は人ならざるものの世。闇は俺たちを守ってくれる。だが、隠れん坊は今宵で終いだ。そうだろう?」
―― その通り。
私たち以外、誰もいなかったはずの場所で何者かが答えた。ぞっとするような声に身を凍らせた私を、鶴丸さんが抱えて飛ぶ。
さっきまで立っていた場所に灰色に蠢く何かが覆いかぶさった。
それは異様な光景だった。手も足もない、だが人のようにも見えるその塊が動く度、そこにあった草木は音を立てて溶け落ちた。灰色の化物は獲物が逃げたのにも気づかず、同じ場所を嗅ぎ回り、生き物を蝕む瘴気を発していた。
鶴丸さんは私の金縛りを解くようにやさしい声で囁いた。
「夜が明けていない。アレにはまだこっちの姿は見えていないのさ」
―― どこにいる。
どこからともなくまたあの声が聞こえた。鶴丸さんは私を抱えたまま山面を駆け下りはじめた。山の獣が己の生まれ育った野道を行くように、速くしなやかに。草木を蹴るわずかな音に反応して、灰色の化物が頭をもたげた。
「追いつけるものか。俺はこう見えて野伏の真似事も得意なんだぜ」
影の濃いところを選びながら走っていく。彼の言った通り、夜のうちにいるかぎりは相手はこちらを見つけられないようだった。しばらく走っていくと、山の裾に打ち捨てられた祠が見えた。小さなそれめがけて、彼はまっすぐに地を蹴った。
ちりん。
刀の鍔が鳴る、涼やかな声がした。
第三十八話 たそかれ(中)
ふと気がつくと、何もない場所に立っていた。灰色ににじんだ空は曖昧で、他の生き物の気配はない。慌てて頼みの綱の白い手を握りしめると、鶴丸さんは穏やかに笑った。
「ここは、道だ」
「道?」
「人の住まう世と神が住まう世。あまりにも違う二つの世はぴたりと背合わせには存在できず、必然的にその間には大きな裂け目ができる」
鶴丸さんは灰色の世界を指し示した。
「虚無に満たされた底なしの淵。無であるが故に決まった呼び名はない。人であろうが神であろうがそこに落ちれば名も過去もなくし、何者でもないものとなって永劫彷徨う、そんな場所だ。ここはそんな虚無の中にあるたたった一本の道。神が望んだ時だけにあちらとこちらを行き来する、辿るにはあまりに細い一本きりの路地だ。神の細道、となどと呼ぶものもいる。そこはその細道の中でもさらに端っこの部分なんだけどな」
思わず足元を見ようとした私を、彼が押しとどめた。
「おっと、やめておけ。帰りたければ、決して覗き込んではいけない。振り返ってもいけない。そもそもこの細道に、人は本来入るべきではない」
―― 決して通ってはいけないよ。
じりじりと焼け焦げる音とともに記憶が蘇った。
最後に鶴丸さんは茶目っ気のあるウインクを付け加えた。
「ま、俺のような案内人がいれば話は別だが」
彼は私の手を引いて歩き始めた。
「さっきのアレ、もう追いかけてはこないんですか?」
「一応な」
「一応?」
「神の細道と呼ばれてはいても、ここはまだあちらにもこちらにも属さない曖昧な場所だ。奴らとて、無茶をすれば入り込めないこともないのさ」
さっと青ざめた私に、彼は慌てて別の話を持ち出した。
「そうさな、もっと面白い話もある。この場所はあちらとこちらを繋ぐ道であると同時に、あらゆる時と空が行き遭う辻だと言われている。道の正式な主である神の目をかいくぐるようにして道の隅を通り、別の時へと飛ぶ。そういった試みは一部の者達の間で成されてきた。例えば、過去を憎み、それを変えようと望む者たち。それを止めようする者たち。道の主である位の高い神と何らかの形で交渉し、通行を許されれば、そういった時渡りも可能になる。まあ、そういう時、飛ばされるのは術者ではなく俺たちみたいな低級神なんだけどな。人は一応、通れないことになっているから」
彼は瞳を伏せて言った。
「ただそれとは別に……ごく一部の優れた術者は時と空の理を曲げ、別の空に住まう神を細道を通して呼び出すことさえできる、という。いずれにせよそれは偶然が重なって起こる奇跡に近い何かだ。まあ、説明はこれくらいだ。わかったか?」
私はひとつ頷いた。つまり、ここはあらゆる時空を繋げる通路のような場所で、鶴丸さんはここを利用して人の世のどこかの別の場所に移動しようとしている、ということだ。
そう言うと、ご明察、と彼は嬉しげに私の背を叩いた。だが、気分は浮かなかった。鶴丸さんが話を変える前、言っていたことについてだ。
「もし鶴丸さん一人だったら、絶対に安全な『あちら』まで行けたんですか?」
私の気がかりはそれだった。ここは完全ではないから危険だという。それなら、彼の言う完全な場所―― 『あちら』は安全なのではないだろうか。そこに行かず、わざわざ端を通ってもう一度危険な人の世に出ようとしているのは、私のためなのではないか。
不安になって見上げると、彼は何故か困ったように頬を掻いていた。
「それもゼロじゃない……ゼロじゃないんだが、正直に白状するとほぼ俺の問題だな。恥ずかしながら、俺はまあ、元々そう格の高い存在じゃない。神体として崇められていた頃にはそこそこに力もあったが、今となってはそこらの地霊精霊と同等だ。今の俺ではあちらにたどり着くことはできない。だからこうしてこっそりその隅を借りているというわけさ」
少なくとも私が足を引っ張ったわけではないとわかり、少しほっとする。それを見て、鶴丸さんは瞳を伏せた。
「あちらへと続く細道の正中は真に力あるものにしか通れない」
彼の言葉は曖昧な輪郭のまま、だが確実に私の中に溶け込んでいった。神域。神の細道。これだけ浮世離れした話に、不思議と違和感を感じない。どうしてだろう。
いつか、どこかで。
「もうすぐ道を出るぞ。時間が経てば経つほど不利になる」
「ここを抜けたら、どこへ出るんですか?」
「君も俺もよく知る場所さ。アイツが誰なのかも、そこでわかる」
彼は灰色の闇の先にともる、一筋の灯りを指指した。
「行こう。終わりはもうすぐだ」
◇◇◇
ずいぶんと長い時間が過ぎたように感じていたが、外に出た時、まだあたりは暗かった。時間の流れが外の世界のそれとは異なっているのだろう。
目が慣れてきてはじめて、ようやく現在地がどこだかわかった。
「ここってまさか、公園ですか?」
「ご名答。珍しく冴えてるな」
鶴丸さんが口笛を吹いた。「珍しく」は余計である。
着いた場所は公園の入り口を入ってすぐのところだった。だが、時間が時間なため、公園はもちろん大通りにもそれに面した歩道にも、人の気配はなかった。
喉を刺す冬の夜気に身体が震えた。
夜から朝に変わるこの時間もまた、あちらとこちらが近づく境の時である。
「彼は誰時、という。ま、この時代、こんな時間に会うのは新聞配達の兄ちゃんくらいだからたずねる必要もないけどな。すれ違った相手に『君は誰?』だなんて、どっちが不審者かわからないぜ」
すっかり慣れた現代的な冗談を飛ばして笑う彼。そして私を見て懐かしむように言った。
「そう、ここは特別な場所だ。君と俺が出会った場所。一年前に一度、それよりもずっと昔にも一度」
「え?」
聞き返そうとした私を鶴丸さんは手で押しとどめた。彼はぴくりと目鼻を動かし、闇を見据えた。
「お早いお着き……ということはないな。あちらにいたのはやはり式か」
「お前の考えることなど知れている。のう?」
夜明けが近い今でさえ、聞くだに気味の悪いそれは、やはり山寺で聞いたあの声だった。どこから聞こえてくるのかはっきりとしないそれの声の主は、だが確かに今この場所に存在した。闇の中で何かが動く気配がする。
衣擦れの音ととともに歩み出てきたのは、異様な風体の男だった。
平安時代の官服のような装束を纏い、顔にはなぜか紙の面をつけている。面に開いた二つの穴から眼だけが光り、年老いているのかも若いのかも全くわからない。声は遠くから響くように曖昧で、そもそも男かどうかさえも。異様な空気を纏ったその者の周囲には、人影のようなものがいくつか佇んでいたが、どれも灰色に霞んでいて何なのかは判然としなかった。
ねっとりと息苦しいほどの圧力を伴って、男は口を開いた。
「しばらく見ぬ間に人の真似事が板についたようだな。付喪神風情が」
「その付喪神風情を追って遥々とこんな場所までやってくるとは、ずいぶんと徒然なるままにお過ごしらしい。日記が趣味の法師殿もびっくりだろうぜ。それともそちらもようやくフレックスタイムを導入か?」
男は冷たい目で鶴丸を見据えた。
「つまらぬ口を叩くようになった。だがまあ、持ち物の不始末は、主の不始末。今なら折檻のみに留め置いてやろう」
「はあ、御身は何も変わらんなあ。人でないものを呪で従わせ、生きた者まで己の欲のために使い捨てる。その冷酷無残な性がとうとう政府の耳に入り、暇でも出されたのやもしれんな。図星か? 物を物とも、神を神とも、人を人とも思わぬ主殿よ」
面の奥の眼に一瞬火が燃え盛ったように感じたが、すぐに濁った色に掻き消された。
「黙れ、鶴丸」
男の手元から彼に向かって紙のようなものが飛んだ。
途端、白い身体が地面に崩れ落ちた。膝をついた鶴丸さんは、胸を掻きむしり、ひどく荒い息を吐いていた。
「今日までの鬼事とさきほどの道渡りで消耗した身に、主の呪は強すぎたと見える」
男は低く笑い、命じた。
「我が元に戻れ、鶴丸」
「断る。いまだ審神者の名にしがみつくとは……お前のような汚れた者にはその名は、分不相応、よな。政府や他の同胞からも、そう言われたのでは?」
「黙れと言っておろうが」
冷や汗を流しながらもそう言った彼に審神者と自称した男は、さらに一枚紙を飛ばした。ぐ、と耐えるような呻きに、私はようやく我に返った。庇うように彼の背中に覆いかぶさり、まとわり付いた紙を引き剥がす。指先に電流が走るような痛みを感じたが、構わず破り捨てた。解放された鶴丸さんが、はっ、はっ、と詰めていた息を吐いた。
顔をあげると、今まで私を視界にも入れなかった男が食い入るようにこちらを見ていた。
「言も呪も使わず、神封じを破るとは。お前、まさか」
何かに気づいたらしい男は、突然笑い始めた。
「その面差し、なるほどあの女の血か。そうか、そういうことか。わかった、すべてわかった。これは面白い。あの女が流れ着いた時を思えば、娘というには若すぎる。となれば孫。いずれにせよ直血の子孫であるのは間違いない」
面の奥から絡みつくような視線を感じ、思わず後退る。男は態度を変えたように私に向き直った。
「そう怯えるな。お前の祖母は、かつて我々の同胞であった。どうだ、興味があるだろう?」
はっと顔を上げた私を見下ろし、男はあのどこからともなく聞こえる輪郭のない声で語り始めた。
「時の秩序を守るため、神を呼び出し使役する。我々のつとめとはそのようなものでな。彼女は我らの中でも特に強い神寄せの力を持った者の一人であった。時の改変を望む輩の抑止に力を尽くし、呼び出した刀神共も良く懐いた。若いながらも政府からの覚えもめでたく、いずれは中枢へと招聘されるだろう、と。慈愛に満ち、違えるということを知らぬ女だった。だが、皮肉なものよ。完全であったが故に、たったひとつの小さな疵が致命的な亀裂を呼んだ。それがあの女に道を違えさせた」
―― 決して通ってはいけないよ。
記憶の断片がまたよみがえる。
男は、私が目の前にいることを忘れているかのように淡々とつづけた。
「なんのことはない。くだらぬ、くだらぬ肉親の情よ。あの女はたったひとりの肉親―― 呼び出した神を恋い、行ってはならぬあちらへ引かれた妹を探しに、自らも細道へと足を踏み入れたのだ」
細道。あちらへと繋がる一本きりの道。踏み外せばすべてを失う禁忌の往き路。
―― 行きはよいよい、帰りはこわい。
老いた唄声が蘇る。耳を塞いでしまいたかった。
「審神者が引かれることはままあること。神を恋うた身の程知らずの愚か者など放っておくが我らの習いよ。だが、あの女は諦めるということを知らなかった。そして同じくあちらへと足を踏み入れ、それきり戻ってはこなかったのだ。招かれぬ者には決して辿れぬ道なき道。呼ばれぬ者が例外なくそうなったように、途中で踏み外し、淵へと落ち込み、神とも人ともつかぬものに成り果てて、あの虚無を永遠に彷徨うことになったのだと、誰もがそう思っていた」
男の視線ががえぐるように私を捉えた。
「それがまさか、人のままこちらに戻っていようとは。それも、元の世より千年も遡った過去の世に。いくら探しても見つからぬはず。フフ、神の寵を受けし初巫と讃えられたことも、あながち世辞ではなかったのかもしれんなあ」
嘲るように笑い、男は私に近づいた。
「娘、お前の力はあの女から受け継いだものだ。そも、其れをこの時世に呼び出したのはお前であろう?」
私の後ろで地面に伏した鶴丸さんを指しながら、男は興味深そうに言った。
私が呼び出した? この男は何を言っている?
心を読んだように、男は低い声で笑った。
「そうよ、それよ。低格の九十九とはいえ、神の末席に座すもの。そんなものをはるか先の世から呼び去らうとは。如何様にしたものか。思いだせ。道を開いた記憶はないか?此れと遭うた日、お前は一体何をした?」
鶴丸さんと出会った日、私は。
暗いのが怖くて、自転車を押して、影を避けて。
―― いいかい、あの公園にいくときは決して真ん中を通ってはいけないよ。
「道の真中を通って」
「ああ、正中を犯したのか。愚かな娘よ」
男は手を打って笑い声を上げた。空気が軋むような、聞くには耐えがたい声だった。
「知らぬなら覚えておくが良い。この地ははるか昔、強き神を宿した深山であった。いつしか主たる神は去り、栄えは過去のものとなったが、すべての力が失われたわけではなかった。かつての依代―― おそらくは古樹か古岩か、何らか神代からの自然物の形を取ってこの地に残ってきた事物がいまだこの地を神域ならしめているのだ。ただびとならば何もおこらぬ。しかし力ある者にはそうではない。あの女が虚無に落ちずに細道を辿りこの地に彷徨い出たのもその力の残滓が故。主のおらぬ細道ならば確かに他よりかは通りやすかろう。だがそれはあくまであの女であったから可能であったこと。審神者に師事したこともない者がその力を使い、道に入り、さらには遥かなる先の世から神寄せを行うなど、時渡りを成したあの女ですら予想だにしなかった顛末であろう。いやはや愉快なことよ」
愉快と述べながらも、一切の抑揚を持たない男の笑い声は空虚な響きで薄闇に消えた。私を見下ろしたまま、男は実験動物に前にした科学者のように、返答を求めないつぶやきをつづけた。
「もうひとつわからぬことは……そうだな。それだけの力を持ちながら、なぜこの齢までただびとのように暮らすことができていたのか、ということか。祖母から何か守を与えられたか。例えばそう、神守のようなもの」
神守。神の守り。お守り。
はっとして胸に手をやると、仮説が当たったことに気を良くしたのか男は鷹揚に頷いた。
「やはり神封じか。それで合点がいく。おそらくはそれがお前の記憶と力を封じ、今生の神との縁を絶っていたのだろう。其れと交わったせいか、それとも時間とともにお前の力に耐えられなくなったのかはわからぬが、その神封じが燃え尽きたおかげで、私はこの時世を見つけることができた。解き放たれた媒の気配を辿ってな」
彼の手が指していたのは、落ちて散らばった私の鞄の中身のひとつ―― 鶴丸さんの押入れにあった和装本だった。
「神そのものと縁のある事物は神寄せの際、何よりも強く本体を引き寄せる。その草子は鶴丸がここより千年後の世にて審神者により肉の身体を得て、てづから編み綴ったものだ。鶴丸がなぜ主ではないお前の祖母にそれを託したかは私にもわからんがな。とかく、そうしてこの時世に渡った媒の縁によりお前は私の元いた鶴丸をこ再びの地に呼び寄せた」
あまりにも遠大で複雑な話だった。そんなもの知らない、身に覚えがない、と叫びたかった。
だが、何がどう否定すれば良いと言うのだろう。
「祖母が時を遡り、遡った先で、私を産み、その私が再び鶴丸さんを呼んで……再び?」
そこで男の言葉に行き当たった。再び。私が鶴丸さんに出会ったのは、一年前のあの日が初めてだ。再び、などとそんなはずはない。
「いいや、お前は二度寄せた。おそらくは幼き日、媒なくこの時世の鶴丸を。それはおそらく偶然の重なりであったろう。そして長じて力をつけ、今度は媒の縁により、はるか先の世にて肉を得て顕現していた鶴丸を」
どくん、と心臓が動いた。
幼き日。雪の道。
―― もう振り返るなよ。
胸元のお守りがじゅう、と悲鳴を上げた。
「それこそが、お前の祖母が犯したもののうちで最も許されぬ大罪よ。あの女のせいで、歴史の中に終わらぬ輪が生まれた。あの女がはるか先の世にて何らかの形で鶴丸からその媒を受け取り、それを持って道に入り、この時代に迷い出て、お前という子孫を成した。そうして生まれたお前という存在が鶴丸に道具としての本質を忘れさせ、いずれは巡って数百年後にあの女の手に媒が渡る結果を生んだ。あの女が道渡りをしてこの時代に現れなければ、お前は生まれず、幼いお前が『この世』の鶴丸を寄せることもなく、大人になったお前が先の世の鶴丸を呼び、再度縁を結ぶこともなかった。解るか? 時の流れは一本の道でなければならない。いきては帰れぬ道でなければならない。すでに出会ってしまっていたが故に、出会いを運命づけられるといった円環は存在してはならないのだ。決して」
男は激したように言い、それから急に倦んだような声になった。
「誰よりもそれを知っていたはずの女がその法を侵すとは」
独り言のようにつぶやきつづける。
「ああ、だからこそ残念でならぬ。罪人の血の者でなければ、連れ帰って上手くつこうてやるものを。残念ながら、あの女は私と同様、ここよりはるか先の世に生を受けた者。ならばその孫であるお前も、今生にあるべきではない」
感情のない眼がこちらに向けられた。思わず身構えたが、男はその場所から動かなかった。代わりに鶴丸さんを向けて投げやりに言った。
「ちょうどよい、お前にも少し仕置きが要ると思っていた。鶴丸、娘の処分を。弱ったお前でも小娘一人なら赤子の手を縊る如くだろうて」
鶴丸さんは私の後ろでさきほどから浅い息を吐くだけで、何も言葉を発さない。
「ふむ、神とはいっても所詮は格の低いそれか。人如きに絆されおって、天津神・国津神などとはやはり違うな。ならば、己の本性を思い出すが良い。《剣》よ」
男の声には何らかの強い力が込められていた。鶴丸さんは荒い息のまま、糸に吊られたように立ち上がった。ふらふらと私に近づきながら、太刀の鍔に手をかける。男が満足したように笑った。
「それでいい。血を欲し、人を殺める。お前は結局そういう物だ」
鶴丸さんは抗うように顔を歪めていたが、とうとう諦めたように力を抜いた。息も絶え絶えに零す。
「そうだな……俺は所詮、刀でしかない。神や人のような、上等なものじゃないのさ」
鍔にかけた指に力が入ったのがわかった。
そこからは緻密な絵画のような光景だった。
彼は足を引くや否や、一息に太刀を引き抜き、目の前の男とその周囲にあった人影を同時に斬り倒した。人影は霧散し、男はもんどり打って雪の中に倒れ込んだ。
「おっと、うっかり手がすべっちまった」
頬に飛んだ血をぐいと拭い、彼は私に向き直った。もはや取り繕う気もないらしく、爛々と燃える黄金の瞳を眇める。冷や汗をかきながらも、鶴丸さんはいつもの不敵な顔でぺろりと舌を出した。
「でもな、こんな俺でも実は人間が大好きなんだぜ」
いつの間にか刀を納めていた彼は、私の手を取って走り出した。夜明けの前、初雪が降り始めた道を、はしゃぐ子供のように駆け抜ける。公園を貫く、緩やかな坂道を二人で一緒に登っていった。頬に当たる雪は冷たく、身体はボロボロで苦しいのに、とても楽しかった。
だが夢のような時間は、そう長くは続かなかった。
坂道の途中、鶴丸さんが膝をついた。うっかり触って家の物を壊した時のように、申し訳なさそうに私を見上げて言う。
「もうちょっといけると思ったんだけどな。思ってたより弱ってたみたいだ。さっきので取り巻きの式は砕いたが、男自身に負わせた傷はそう深くない。修復次第追ってくるだろう」
ふらりと地面に倒れ込む。慌てて支えようとした私の手を押しとどめ、彼ははっきりと言った。
「俺を『置いて』行け。主の目的は元々俺一人だ。生まれは少し特殊だが、君はこの時世に生まれ育った者。媒さえ手離してしまえば、あの男には君の所在は辿れない。術者ってのはいつの時代も大抵アナログを拗らしていてな。あの格好を見ればわかるだろう? 百年経とうが千年経とうが、市役所で住所や戸籍をネット検索するなんて発想はないのさ、ははは」
冗談めかして、立てた親指のその先が、薄闇に消え始めていた。
鶴丸さん、と叫んだ声はみっともなく引き攣れていた。彼はそんな私を見て、ゆるゆると首を振った。
「元は物から呼び出された身、弱れば元の姿に戻る。本体さえ無事なら問題ない。誰かが呼んでくれればまたこの姿に戻れるさ。なに、久々に本性に立ち返るのもいいもんだ。それに、いつか見せてやるって約束したしな」
さあだから早く。
その場で動けずにいる私を見て、鶴丸さんはやはり困ったように微笑んだ。荒い息を吐きながら人差し指で私をこまねく。何かを言おうとしている、その口元に顔を寄せると―― ほんの一瞬、唇に柔らかいものが触れた。
時が止まった私の顔を満足気に見て、彼はしてやったり、と口角を上げた。
「君の驚いた顔は、やっぱり悪くないな」
もう振り返るんじゃないぜ。
そんな声とともに、彼の身体は光の粒子に包まれた。
◇◇◇
「おや、逃げたのかと思っていたが」
坂道の中腹に立つ私を見て、男は意外そうにそう言った。さっき鶴丸さんにつけられたはずの傷はどこにも見あたらない。
だが、相手がどうあろうとも、恐怖はもうなかった。
代わりに、私の手の中には一振りの太刀があった。ひやりと冷たく手に吸い付くそれが逸る心を落ち着かせてくれる。答えもしなければ動きもしない私に、男は今度は誘いかけるような声音を使った。
「そうだなあ。先程はああいったが、大人しくそれを渡せばお前のことは見逃してやろう。時渡りをおこなった罪人に連なる者ではあるが、お前はこの時世に生まれこの時世に育った者。ここで殺せば歴史に手を加えることになるやもしれん。お前のことは私から政府に掛け合ってやるとも。なに、政府は常に戦力不足だ。良い拾いものだと喜ぶだろうよ」
「本当に?」
私は一歩、男に近づいた。
「ああ、いい子だ、こちらにおいで。それは貴重な刀だが主に牙をむいたとなればもう使いものにはなるまい。新たな刀の材としよう。望むなら、焼き直したものをお前にくれてやってもいい」
一歩、また一歩。
私は彼の望まないことをしようとしている。鶴丸さんの言った通り、私は自分が思っていたより人間らしい人間だった。人間らしく、勝手でわがままだった。
手のうちにある太刀をじっと見つめ、私は子供のように笑って男に言った。
「うそばっかり」
面の穴から覗く目が、にたりと歪んだ。
その瞬間、鋭く熱い衝撃が腹を貫いた。少し遅れて痛みがやってくる。下を向けば、下腹部に突き刺さった白紙の矢に、口から吐いた血がこぼれた。
「時の円環の中で生まれたお前には今生にも先の世にも居場所はない。どちらで生きることもできぬ。哀れ、哀れ。すべてはあの女が時の秩序を乱した故。恨むならあの女を恨むが良い。さあ、それをこちらに。これ以上、痛い思いはしたくなかろう」
口ではそう言いながらも、手元からは新たな紙の矢が飛び、今度は脇腹を射抜いた。ごほごほと咳き込むと、うっすらと積もり始めていた雪に真新しい血が散った。
動けない私に、一歩。今度は男が近づいてくる。
絶えず口元まで溢れてくる金気臭い液体に耐えながら、私はただ下だけを見つづけた。
「ふむ。絆されたのはアレばかりではなかったということか。引かれるとは、哀れなことだ」
まだ、まだだ。
「もう口もきけぬと見える。はは、それにしても驚いただろう?慕った男が所詮は物だとわかって」
太刀に触れようと、男が右足を踏み出した。
一歩。
「ええ、それはもう」
吸った息を腹に溜め、一息に鞘をを抜き払った。居合に抜けないはずの太刀だが不思議と、達人が長年使い慣らした得物のようにするりと抜けた。どうすれば扱えるのか、何をせずともわかる。すべて彼が教えてくれる。
視界がゆっくりと流れていく。目を見開く男。光を放つ流麗な刀身。目の前の男めがけて、私は心のままに刃を振るった。
「ええ、本当に驚きました。彼がこんなに綺麗だったなんて」
赤い血が坂道の半ばに華のように咲いた。男の身体がその文様の一部となって地面に投げ出される。
ごぷ、と男の口から血がこぼれた。
「なるほど。はじめから、そのつもりで」
男は少し驚いたように言って、それから小さく笑い始めた。
「ふふふ、ふふふふ。面白い。娘、お前もまた細道を足を踏み入れた。もう戻ることはできぬ。あの女と同じ道を辿るが良い……あの憎たらしい女と同じく、どこにも辿り着けず、届かず、ただひたすら」
男が息を詰まらせた。咳き込み、ずれた面から老いた片目が覗く。それは憎悪に燃えることもなく、ただ虚ろに天だけを映していた。
「そうだ、届かぬ……ただひたすら追えども、私には、届かなかった。あの女、ああ、この汚れた手では触れることすら……」
私に伸ばされた血塗れの指先は、結局どこにも届くことなく雪に落ちた。事切れた男の身体は塵のようなものに代わり、少しずつ積もり始めた白雪の中に溶け消えた。ひゅう、と一迅の風が通り過ぎた後にはもう何も残っていなかった。
コートの汚れていない部分で簡単に刀身をふき取って、鞘にしまう。ちりん、と文句を言うように鍔が鳴った。
「はいはい。あとでちゃんとキレイにしますから。もう少し我慢してくださいね」
太刀を片手に下げ、坂道を見上げる。上にある広場までは少し歩かなければいけない。
「鶴丸さん、散歩をしましょうか」
夜明け前、いまだ踏み荒らされない雪道の真ん中に、一際輝く白い細道がある。それは途切れることなくまっすぐに先へと続いていた。ここが昔、神の社だった頃のかつての境内まで。私と彼が出会ったあの広場まで。
私たちは細い細い参道を辿り始めた。
さく。さく。さく。
さく。さく。さく。
雪が場を清めるようにあらゆるものを覆い隠していく。私の後には何も残らない。血も、足跡も。
さく。さく。さく。
さく。さく。さく。
懐かしい。とても懐かしい響きだった。忘れていた記憶を今はすべて鮮明に思い出せた。
「ねえ、着くまでの間、今度は私の話を聞いてくれませんか―― 哀れな子供の昔語り」
ちりん、と美しい鍔鳴りが答えた。