第三十九話 たそかれ(後)
この田舎町に初めてやってきたのは、六歳の時だった。
両親の離婚がきっかけで養い手を失い、あちこちを転々とした末にこの町に住む祖母の元へ預けられたのだった。
可愛げのない子供だったと思う。話しかけられてもまともに返事をしない、一人遊びの好きな女の子。可愛くない子ね、と遠縁の女性が口癖のように言っていたのを今でもはっきり覚えている。
老いた祖母はそんな私を引き取ってあらんかぎりの愛情を注いだ。時間の許すともに過ごし、一緒に食事をとり、一緒に散歩をして、夜になれば同じ布団で眠りについた。
親の愛というものにおよそ縁のなかった私は、こちらに来てすぐは慣れないぬくもりに戸惑い、ずいぶんと素っ気ない態度をとったように思う。頑なな孫を前に、祖母はそれでも辛抱強く語りかけ、手をつなぎ、抱きしめた。
祖母の行動が私を哀れんでのものであったのは間違いない。ただ、彼女の狂おしいまでの必死さの一端には、何か脅迫観念的なもの―― 例えば、幼い頃に構ってやれなかった自分の娘への罪滅ぼしの思いがあったのではないか、とも今となっては思う。
とにもかくにも彼女が幼子の凍った心を融くことを人生最後の大仕事に据えたのは間違いのないことだった。
どれくらいの時間が必要だったかは、今となっては定かでない。
祖母の下で暮らすうち、私は次第に子供らしさを取り戻し、数か月もすれば元気に外遊びをするようになった。それまで表面に現れていなかっただけで、生来活発で好奇心の強い質だったらしい私は田んぼの畦道を走り抜け、バッタを捕まえ、男の子のように遊び回った。そんな様子を見て祖母も安心したようで、幼い私に好きなように外出することを許していた。人生で初めて訪れた楽しい生活だった。
◇◇◇
ただ私には友達ができなかった。
「お前、あの家の子なんだろ」
夏の午後、蝉の声が川面を叩いている。振り返ると、釣竿を担いだ少年が三人こちらを見下ろしていた。
「あの怪しい婆さんがいる家。しかも親がリコンして、二人ともジョウハツ? したんだっけ。お母さんが言ってた。変な家だからあんまり近づいちゃだめ、って」
幼い私は座り込んだまま、小魚探しをつづけた。淵は暗い緑に澱んでどこにも銀色の漣は現れなかった。
耳が痛くなるような静寂。じりじりと岩を灼く太陽の音が聞こえた。私は下を向いて見えない魚を探しつづけた。
どれくらいの時間がたったのだろう。気付けばまた一人きりに戻っていた。
暗くなって心配した祖母が迎えに来てようやく、私は顔を上げた。
それ以降、川には二度と行かなかった。
◇◇◇
祖母は私を縛ることを嫌った。
裏の空き地で走り回ろうとも、裏山へ木登りに行こうとも、彼女は決して約束事や決まり事を押し付けはしなかった。今まで抑圧されてきた私を少しでも自由にさせてやりたい、そう考えていたのだろう。
しかしその中で、たったひとつだけ約束させられたことがあった。
「いいかい、公園に行ったら決して道の真ん中を通ってはいけないよ」
「どうして?」
「神様の通り道だからだよ。辿っていけば細道に迷いこんでしまう」
縁側に小さく正座をした祖母は、噛んで含めるように言った。
公園になぜ神様の通り道があるのか、細道とは何なのか、分からないことだらけだったが、幼い私は素直に頷いた。私は祖母が好きだったのだ。
それからは彼女の言いつけを守り、公園の道を歩く時は必ず端の方を辿るようにした。
とおりゃんせ、とおりゃんせ。
祖母はよく唄を口ずさんだ。寂しく不思議な響きのする唄だった。聞いているうちに私もいつしか覚えて唄うようになった。
とおりゃんせ。とおりゃんせ。
ある時、縁側で唄っていると、このお唄の意味が分かるかい、と問われた。首を横に振った私に、彼女はこう言った。
「子供はね、七歳までは神様のものなんだ。だからそれまでは決して通ってはならない、そういうお唄だよ」
目の前の私に言い聞かせながら、けれども視線は私を通り越して、別の誰かを見ていた。能面のような白く虚ろな顔だった。
「通ったらどうなるの?」
彼女は答えなかった。だが、しばらくして小さな声でこう言った。
「『細道』を見つけてしまったら、気付かれる前にすぐに目を逸らしなさい。決して応えてはいけないよ……たとえ招かれたとしても」
見たことのない顔がとても怖くて、私は何度も頷いた。
祖母は最後にぽつりと言った。
「神の細道に帰りはないのだから」
◇◇◇
季節は巡り、冬がやってきた。
今でも覚えている。その年はじめての雪の日だった。
屋根も木も地面も、すべてが真っ白な絨毯に覆い隠され、絵本のように綺麗だった。雪の積もる場所で暮らしたことのなかった私は外に広がる銀世界に大はしゃぎで、ピンクの長靴に履き替えて、さっそく外に飛び出した。
さく。
一歩すすめば、卸したての長靴がくっきりと足跡を残した。
さく。
もう一歩。
さく。さく。
白い雪に自分の足型をつけるのが楽しくて、私は夢中で雪の中を歩いた。
庭の中を一通り足跡をつけてしまい、今度は表に出た。しかし昼を過ぎた通りは人の行き来により踏み荒らされ、雪はすでに灰色の泥濘と化していた。
なんだ。つまらない。
がっかりした私は裏手に出て、農道を歩いていった。しかしやはりここもすでに人の行き交った跡があり、雪は融けてぬかるんでいた。
私は新雪を探して歩きつづけた。田舎町とはいえど人はそれなりにいる。白い雪はどこにも見当たらなかった。
諦めて帰ろうとしたとき、視界にいっぱいの白が飛び込んできた。そこはあの公園だった。一番太い大きな道に真っ白な雪が積もっている。うれしくなった私は思わずそこに向かって駆け出した。
両側にはしっかりと人の足跡があるのに、不思議なことに真ん中だけは降ったままの雪が残っていた。私はそこを辿って歩きだした。
さく。さく。さく。
足元の雪が鳴る。無心に歩きつづけた。同じように雪遊びをしに来た子供たちが時折、近くを通っていく。しかし彼らはなぜか端の方の汚れた雪で遊んでばかりいた。
気づかないなんてもったいないなあ、真ん中にはきれいな雪がこんなにたくさん残っているのに。
そんなことを思いながらしばらくゆくと、今度は向こうから犬を連れた男性がやってきた。幼い私は思わず立ち止まってしまった。その大きな茶色い犬は私の姿を見るたびにいつも大きな声で吠えかかってくる犬だったのだ。
しかし不思議なことに、彼らは私に視線をやることなく、すぐ横を通りすぎていった。
私はほっと胸を撫で下ろし、そのまま先に進んだ。
さく。さく。さく。
いつしか周りから人気が消えていた。足元の雪にばかり気を取られていた私もようやく顔を上げた。周囲の木々はぼんやりとした灰色に霞み、今まで道の両側についていたたくさんの足跡もなくなっている。ただ真ん中に一筋だけ白く輝く細い雪道があるだけである。
さく。さく。さく。
この世界で音を発しているのは私だけだった。
ずっと歩いていくと、右手に看板が見えてきた。灰色のベールの向こうに朧気な輪郭を晒すそれは、あの赤い案内板だった。ここまで来るともうすぐ中央広場だ。
最後の段差をあがると、景色は一変した。そこは一面の銀世界だった。人も動物もなく足跡もない、真新しい世界。眼前にぱっと広がった真っ白な世界に思わず声が出た。
正面には一本の立派な木。枝には白い雪化粧。よく見ると、その向こうに雪と同じ色をした大きな社が見えた。
まるでこの世のものではないような景色だった。心を奪われた私は、ついに広場へ一歩を踏み出した。
さく。さく。さく。
広場の雪には私の足跡だけ。それが面白くて小さな長靴であたりを走り回る。足跡をつけるのに飽きると、今度は雪で一人遊びをした。雪ダルマを作って、小さな山をつくって、雪うさぎも作った。雪細工に飽きると、今度は唄をうたった。声が雪にしみとおるような気がして、とても気持ちが良い。
私は時間を忘れて遊びつづけた。
気が付くと、日が暮れ始めていた。薄闇に染まりはじめると、あれだけ美しかった世界がどこか異様でぞっとするものに見えた。
そこでようやく私は怖くなった。
ぐすん、ぐすん、と鼻をすすって、それからおばあちゃあん、おばあちゃあん、と大きな声で呼んだ。呼び声は真っ白な世界に吸い込まれて、誰にも届かずに消えてしまった、かに思えた。
「さっきまでご機嫌に唄っていたのに、今度は大泣きか。子供ってやつは分からんなあ」
突然どこからか声が聞こえた。
あまりにもびっくりしたので、私は思わず泣き止んだ。おっかなびっくりあたりを見回す。
「だれ?」
「驚いた。俺の声が聞こえるのか」
声のする方を見上げるが、誰もいない。
「だれ?どこにいるの?」
姿のない声に恐怖がぶり返し、再び涙が浮かんできた。
「おいおい、泣くな泣くな。何にもしないって」
声は困ったように答えた。本当に困っているような声だったので、少し考えてから、小さな声で慎重に聞き返した。
「あなたはだれ?」
「誰と聞かれると困るなあ。とりあえず鶴丸と名乗っておこうか」
「ツル?鳥なの?」
「正確には違うんだが、まあそういうことにしておいてくれ」
木の下に座り込んだ私に、不思議な声はそう答えた。
鳥。この大きな木のどこかにいるのだろうか。
「ここには鶴丸さんだけ?」
「そうだな。ここの持ち主だった偉くて怖い奴はずいぶん昔にどこかへ行っちまったみたいだ。俺しかいないから、怖がらなくていいぜ」
「人のいない家に勝手に入るのは、ええっと確かハンザイ」
「空き巣じゃない、正確には居候だ!」
イソーロー、とまだ当時の私がテレビ番組でも聞いたことのない言葉を使って、彼はふんぞり返った。
「どちらにしても、えっへんってする言葉じゃないと思うけどね、なんとなく」
「子供のくせに辛辣な奴だな。それで、お嬢ちゃん。どうして急に泣き出したんだ?」
「私の名前はお嬢ちゃんじゃなくて―― 」
名前を言おうとした瞬間、「わっ!」と耳元で大きな声が聞こえた。
わああお化け!と私はその場にしゃがみ込んだ。濡れるのも構わず雪の中に隠れるように突っ伏す。あっはっは、愉快そうな笑い声がした。
「なあんだ、お化けが怖かっただけか。やっぱり子供だな」
「やめてよう。びっくりして死んじゃうかと思った」
「驚いたくらいじゃ心の臓は止まらんさ。むしろたまには刺激を与えてやらんとな」
驚かせることが生き甲斐なんだ、と言って、鶴丸さんはまた偉そうに胸を張った。ちょっと危ない人かもしれない、と幼い私は半目になった。
「夕焼けを見たら、急に怖くなったの。驚いたせいでなんだかどうでも良くなっちゃったけど」
「ふむ、今はまだ大丈夫だが、確かにもう少しすれば、たそかれどきになるな。恐ろしくなるのは人として当然の感覚だ」
「たそがれ?」
「そうだ。誰そ彼。何もかもが薄ぼんやりとして、すれ違う相手の顔がわからなくなるから『そこのお前は誰だ』とたずねるわけさ。それまでにお帰り、お嬢ちゃん」
「でも」
こうやって彼と話しているから怖くないのであって、家までの長い道のりを一人で帰らなければならないと思うと途端に不安になった。
「おばあちゃんが待ってるんじゃないのか」
日が暮れると必ず迎えに来てくれるおばあちゃん。心配させるのは嫌だった。
帰らなきゃ、と覚悟を決めた。
「わかった、がんばる」
「いい子だ。いいか、帰る時は絶対に振り返るんじゃないぞ。誰か人に会うまではまっすぐ前だけを向いておけ。立ち止まるな。横も後ろも見るな」
真剣な声が釘を刺す。私は頷いた。
「さあ、走れ。もう来るなよ」
言われた通り、後ろも横も見ず、ただ前だけを向いて走った。途中で怖くなって足が止まりそうになっても、鶴丸さんの忠告を思い出して、一生懸命進みつづけた。
公園を抜け、ようやく家に辿り着くと、遅くまで私が帰ってこなかったことを心配した祖母が外で立って待っていた。
胸に飛び込んであったことを話した。話が進むにつれ祖母は目に見えて青ざめたが、最後には無事に帰って来たことに心からの安堵をこぼした。
「あちらに入ってしまったんだね。あれだけ行ってはいけないと言ったのに。戻って来られて本当に良かった」
おばあちゃんは心配そうに言った。
「名前は教えてないだろうね?」
「うん。きかれなかったから」
「よく覚えておきなさい。見知らぬ神と縁を持つことはとても恐ろしいことなんだ。これからもし、どこかの神と行き遭うことがあっても名前を教えてはいけない。名前を奪われるとあちらへ引かれてしまう。あちらの子になってしまう」
けれどあの声は恐ろしくはなかった。帰り方も教えてくれた。そう言うと、祖母は首を振った。
「今回はたまたま気を良くして帰してくれただけ。次はどうなるかわからない。そうでなくとも行帰りの道で迷えば、もうこちらには戻ってこられない」
そう言った祖母の顔には、深く皺が刻まれ濃い影がかかっていた。後にも先にもそれ以上恐ろしい祖母の顔を見ることはなかった。
◇◇◇
それ以来、私はしばらく公園に行くのをやめた。また迷い込んでしまったらと思うと怖くて夜も眠れなかったのだ。
しかし時間が経って、恐怖が薄らぐとあの声のことが気になり始めた。
彼はどうしているのだろうか。
鳥が一羽寂しく木の枝に留まっているのを想像して、とうとう我慢できなくなった。
祖母の目を盗んで私は公園に向かった。昼間の公園にはいつも通りたくさんの散歩客がいた。雪はすっかり踏み荒らされている。
だが私には白い雪に覆われた細道が見えていた。ごくりと唾を飲み込んで、一歩を踏み出した。
振り向いてはならない、覗き込んではいけない、立ち止まってはいけない。あちらとこちらをつなぐ道、そこはどこでもない場所。少しでも迷えば見失う。落ちてしまう。
『行きは大丈夫なんだよ。しかし帰りが恐ろしい。愚かな者が落ちてくる瞬間を、神でも人でもないものが今か今かと待ち受けている。彼らは神の細道に辿ろうとして足を滑らせた哀れな者たちなのだから』
自分の足元だけを見て、道の中央に見える一筋の細道だけを辿った。しばらくすると前と同じように周囲から物音や生き物の気配が消えた。
私は自分がこの前と同じ道に入ったことを知り、同時に少し怖気づいた。
今ならまだ戻れる。
だが頭上を照らす日の光に背を押され、それから―― あの不思議な声のことがやはり気になって、結局先に進むことにした。
最後の段差を上がると、静寂につつまれた白い広場に辿り着いた。雪を踏みしめ、木のそばまで進んで、思い切って声をかけた。
「ねえ、いる?」
答えは帰ってこない。もう一度声をかける。
「いないの?ええと、鶴さん」
「鶴丸だ」
呆れたような声が聞こえた。
「お嬢ちゃん、また来たのか。もう来てはいけないと言ったのに」
「お礼を言おうと思って。この前はかえり道を教えてくれてありがとう」
「子供のくせに殊勝な奴だな」
「おばあちゃんがいつも、助けてもらったらお礼を言いなさいって」
「それも時と場合だぜ、って君のばあさんは付け加えるのを忘れてたみたいだな。まあいい、わざわざありがとうよ」
気を良くしたような声に、もしかしたら迷惑だったかも、と思っていた私は胸をなでおろした。
「今日はまだ陽が高いから、少し足を休めるといい。だが、長居はだめだぜ」
私は声に従って、木の根元に腰を降ろした。地面から隆起した太い根に腰掛け、歩き疲れた足をぷらんぷらんと揺らす。
「鶴丸さんはいつからここのイソーローなの?」
「なに、つい先日さ。お嬢ちゃんと会った日、あの日に初めてここに来た」
「ずっとここにいたわけじゃないんだ。それまではどこにいたの?」
「外の見えない部屋さ。この上なく平穏で平和な場所。刺激がないとも言うが」
「なんでここに来たの?他のところにはいかないの?」
「自分の意思で来たわけじゃないんだ。気付いたらここにいた。せっかく出て来られたんだから色々見て周りたいが、動こうにも身体がないんじゃあな」
鶴丸さんは焦れったそうに言った。相手が鳥ではないことにはすでになんとなく気付いていた。
「体がない?」
「正確にはある。だがこの場所にはない。外に出ることもなく同じところに何年も何年もじっとしているのさ」
彼が言うには、どうやら心だけが身体から離れてこの場所に来てしまったらしい、とのことだった。閉じ込められているのか、と訊くと、彼は困ったように笑った。
「いいや。そういう風に捉えることもできるが……彼らに悪意はないんだ。むしろ、俺が長生きできるように、ってことでそうやって容易く人の目に触れないようにしてくれているのさ。雑に扱われて打ち捨てられる奴らがいることを考えれば、とびっきりに好待遇だ。と、わかってはいるんだがなあ」
はあ、と息をついた彼に私は言った。
「たいくつなんだね?」
「左様に御座る。ほとんどやることもなければ、見るものもない。手入師に話しかけても返事はなし。ごく稀に、外に出されることもあるんだが、それにしたって硝子の内側だ。俺には手足がないからどっちみち自分では動けないんだけどな、それでも昔の外出ならお腰にブラブラ、色んな物が見られて楽しかったもんさ」
手足をもがれて、人の腰でブラブラ揺れている鶴丸さんを想像して、私は青ざめた。
「それ、本当に楽しい……?」
「そんな恐ろしい想像をするなよ。違うんだって、聞いて驚け。俺の本当の姿はそれはそれは美しいんだぜ。誰もがそれを認めたからこそ、俺はこの時世まで残って来られたんだからな。見せられるもんなら君にも見せてやりたい」
それこそ手があったなら、両手を広げて「ほらご覧」とばかりに胸を張る鶴丸さんが見られただろう。彼の声は生き生きと弾んでいた。
「そんなにキレイなんだったら見てみたいなあ」
「もしかするといつかどこかで会う機会があるかもな。例えば、さっき言った極稀にあるお目見えの時に。もっとも、その時はこんな風に話すことなんてできないだろうが」
彼は深い深い溜息をついた。
「俺の声は人には届かない。どんなに話したいと願っても、自由に動く舌も、笑うための口もない。今だってこの神域の力を借りることでようやく形のある言葉を口にできている。そしてまた、お嬢ちゃんだったからこそ聞こえないはずのを聞き取ることができたんだろう。幼い身で細道を辿る力を持つ、君だからこそ」
焦がれるような声だった。人と触れ合うことを欲せども叶わない、哀れで悲痛な叫びだった。だから私は思わずこう言ってしまった。
「さみしい?」
はっとしたような気配がした。長い沈黙の後、彼は絞り出すようにして千年の孤独をこぼした。
「さみしい」
たった一言のそれに、私の胸はひどく締め付けられた。張り裂けそうに痛かった。
「おばあちゃんに教えてもらったんだけど、『鶴は千年』っていうの知ってる?」
「ああ」
「鶴丸さんが千年生きるなら、私は千年経っても鶴丸さんの友達でいるからね。千年経っても万年経ってもずっと。約束」
彼はすぐには言葉を発さなかった。
しばらくして小さな声がやっと一言、ありがとう、と答えた。
◇◇◇
それから私はその不思議な声、鶴丸さんと話をするため毎日公園に通った。鶴丸さんは私の生まれてはじめての親友になった。私が行くと鶴丸さんは決まって「もう来るなと言ったのに」とたしなめたが、結局最後には嬉しそうに私に話を訊き始めるのだった。
「外の世界のことを教えてくれ。ほら、こう色々あるだろ?最近になって、君たちが新しく考えた面白い物」
「例えば?」
「そうだなあ。君は『自転車』には乗れるのか?」
「もちろん乗れるよ。おばあちゃんと練習したもん。でもそれって新しい?」
「確か明治のあたりで入ってきた鉄の馬だろ。今から百年くらい前。とびっきり新しくないか?」
一片の躊躇いもなくそう言う彼に、『新しい』の意味、わかってるのかな、と肩を竦めた。
「ほかに新しくておもしろいものかあ。ケータイは?」
「ケータイ?」
「ケータイ電話だよ」
「ああ、電話なら知っているぜ。飛脚泣かせのアレだろう」
「じゃあそのヒキャクさんという人はもっと泣かなくちゃいけないね。ケータイは電話よりももっとすごい!持って運べるんだよ!」
「な、なんだと!?ということは、いつでも誰とでも話し放題ということか!?」
それこそ携帯電話のCMのような台詞を叫ぶ鶴丸さん。大興奮のご様子である。
「鶴丸さんがお外に出たら、きっとものすごーく楽しくすごせるんだろうな」
「君たちの作るものはいつの時代も面白いからな」
私はここでようやく気になっていたことを尋ねてみた。
「鶴丸さんは長生きなんだね」
「ああ。ずいぶんと生き長らえた……生きすぎた、とさえ」
私は声の方向を見上げた。顔が見えないのが、とても焦れったかった。彼はおそらくは空の高いところを見て言葉を紡いでいた。
「もうひとつの使い道であった祭祀も、今や形だけが残るのみだ。今の世に俺たちはもはや必要ない。これからも決して必要とされてはならない。俺自身ですらそう思うほどに、悲惨な世があった。だからきっとこれでいい。そうでなくてはならないんだろう。俺たちはただそこにあるだけの存在となって、俺たちが生きた、あの血と鉄の時代を終わらせなくてはならない」
一呼吸置いて、静かな声が続いた。
「だがそれでも俺はやはり諦められないんだ。人のすぐそばにありつづけることを」
鶴丸さんの声はあまりにも凪いでいて、それがかえって私の胸を締め付けた。
苦しい喉でつっかえながら反論した。
「今までやっていた仕事がなくなったら、もう必要なくなるの?じゃあ、世の中のおじいさんとおばあさんはみんな、いらない人になっちゃうね」
ぱっ、とこちらに向く視線を感じた。
「私はね、おばあちゃんの話が好きだよ。色んなことをいっぱい知っていて、それをぜんぶ教えてくれるの。誰も教えてくれなくて、おばあちゃんだけが知っていることがたくさんあって、それを聞く度にちょっとかしこくなれる気がする。長生きして『昔はこんなことがあったんだ』って誰かにお話しすること。それって大事なお仕事じゃないの?」
鶴丸さんはとてもびっくりしていた。びっくりしすぎて言葉が出てこないのだ。
しばらくして鶴丸さんはクックッ、と笑い始めた。
「昔語りか!そうかそうか、面白いな」
「そうそう。本を書いたりして。インゼイがっぽりだよ」
と、最近テレビで覚えたばかりの言葉を披露してみる。彼は彼で未だ笑いながら答えた。
「もし身体が手に入ったら、俺の半生でも綴ってみようか。清少納言も驚きの傑作になるやもしれん」
「じゃあ私が鬼ヘンシュウチョウになるね。本を書く人に必要なのは、ペンと鬼ヘンシュウチョウだってインタビューで言ってた」
「鬼はやめて欲しい気がするな、鬼は」
二人してしばらく笑い合った後、彼はいつもより一等柔らかい声で言った。
「君は聡い子だな。その齢で、いや、齢など関係ないか。君は立派な一人の人間だ」
「聡い、って?」
「人として美しい、ということさ」
彼は微笑むように言った。彼が言ったことはとても難しかった。だが、彼が私を良く思ってくれているというその事実が何より嬉しかった。
「ありがとう、てれちゃうなあ。でもね、鶴丸さん。私の気持ちはとってもカンタンなんだよ。私はここに来て、鶴丸さんに『こんにちわ』を言って、お話しするのが大好きなの。本当は『おかえり』とか『ただいま』とか、そういう言葉が一番好きなんだけど、私はここに住んでいるわけじゃないしなあ」
「じゃあ俺がいつか君の家に遊びに行ったら、その大役を引き受けようか」
「ほんとに!?」
「なかなかいいじゃないか。俺も昔から一度言ってみたかったんだ。いつかこう、絶対に予想できないやり方で登場して、きっと君を驚かせてやろう」
夕方が近づいてくると、鶴丸さんはいつもこう言った。
「もう少しでたそがれ時だな。そろそろお帰り。振り返らないように、覗き込まないように、立ち止まらないように」
「うん、わかってる。また来るね」
「だーめーだ」
そう言いながらも、彼は嬉しそうに笑うのだった。
祖母には秘密の遊びだった。彼女は怖い神様だと言ったが、私には彼がそうだとはとても思えなかったのだ。
◇◇◇
「おや。今日はいつもより早いな」
ある日、普段よりも少し時間に来た私に、鶴丸さんは不思議そうに問うた。鶴丸さんのところに行くのは決まって午後、この時間はいつもならまだ昼食を食べているような時刻である。
「今日はおばあちゃんにお客さんなんだ。お家の紹介をしている男の人で、おばあちゃんに大事な相談があるんだって。『家にいるのが退屈なら、おにぎりを作ってあげるから外で食べてもいいよ』って。お仕事の邪魔をしてもいけないしね」
そう言って好物の昆布おにぎりを掲げると、鶴丸さんはふうん、と興味ありげな応えをした。
「君のおばあさんはどんな仕事をしているんだ?」
「占い、みたいなこと」
少し戸惑うような気配があった。私は慌てて付け加えた。
「でも本当は良く知らないの。きいても全然教えてくれないし」
「君のおばあさんは、君がここに来るのを良く思っていないんじゃないか?」
―― 見知らぬ神と縁を持つことはとても恐ろしいことなんだ。
どきりと震えた心を隠し、幼い私は小さな声で嘘をついた。そんなことないよ、と。そして、それ以上何か言われる前に、急いで話を変えた。
「ねえ、鶴丸さんってやっぱり神様なの?」
その話題に興味がないこともなかったのか、鶴丸さんはそれ以上蒸し返すことなく、そのまま質問に乗ってくれた。
「そうだ!と、胸を張って言えればいいんだがな。こうして意思を宿している時点でそこらの事物よりは格上だが、天津神やら国津神やら神話に出てくるような正真正銘の神、つまり『神』であることを本質とするような存在とはまるで比較にならない。どちらかと言えば地霊精霊のようなもんだ」
「カンタンに言うと?」
「君をあっと驚かせるようなすごいことは実演できないってことだ。今の俺では君とこうして話すので精一杯」
「今の、ってことはすごかった時があったの?」
元々は好奇心旺盛、訊きたがりの私は鶴丸さんに詰め寄った。
「祀られていた頃はな。雨を降らせたり雷を落としたりなんてことはできなかったが、人の夢枕に立つことくらいならそう難しくなかった。俺たちのような存在が持つ力というのは、それそのまま人の思いの力なんだ。俺という存在を見知って、聞き知って、それに多少なりとも心を傾ける。そうやって束ね合わされた願いや思いが俺たちに力を与えるのさ。信仰、ともいう。信仰が廃れ、祀りの意味が薄れた時、神はいつしかただの自然現象や事物に戻る。現代はまさにそういう時代だ」
「まつり……おまつりをすれば、鶴丸さんにも力が戻るってこと? ええと、例えばひなまつりとか、夏まつりとか」
難しい言葉の羅列の中にようやく出てきた聞き知った単語に私はすかさず反応した。
「あはは。雛祭りはちょっと違うな。雛祭りは元は『雛遊び』と言ってな、俺の生まれた時代にはただの遊びだったんだ。流し雛の習慣と結びついて『祭り』になったわけだが。夏祭りはまあ、祭りは祭り、今となっては神を祀るという意味は薄れているが、元は同じものだわな。そういえば、あと二月、三月で雛祭りの季節だな。君も飾るのか?」
突然の質問に、私はぴたりと固まった。地面を見て、少し考えてから慎重に言葉を選んだ。
「実はまだかざってもらったことがないの、おひなさま」
ふむ、と鶴丸さんは少し意外そうな感じで応えた。私は慌てて両手を振った。
「でも!今年はおばあちゃんと一緒だから、きっとかざってくれると思う。うん……きっと……多分……」
自分で言っていてだんだん自信がなくなってきた。おばあちゃんは雛祭りのことを覚えていてくれているだろうか、とか、そもそもおばあちゃんの家にお雛様はあるんだろうか、とか。
「もし、なんだけど」
「うん?どうした?」
「おばあちゃんがやってくれなかった時は鶴丸さんがお祝いしてくれる?」
「俺が?」
頷くと鶴丸さんは一度詰まってから、そうっと答えた。
「それが許された時には、必ず」
それから彼は口調をがらりと変えて、まるでどこか遠くの国で聞いた愉快な物語でもするように語り始めた。
「例えばこれからずうっと先―― 百年や千年先の世には、俺たちみたいな存在が肉の身体を得る方法があるかもしれない。物の魂に形を与え、人と同じように食い、笑い、話す。そんなことを許す術が。清庭あたりならいつかできるかもしれないな」
あっはっは、と快活な笑い声が、どこか虚しい響きを帯びていて、私は思わず身を乗り出して言った。
「人まかせになんてしないよ!いっぱい勉強して、えっと、その、さにわ?になって、私がちょちょいのちょいでなんとかするからね。それで自分で動けるようになったら、今度は鶴丸さんが私のところに遊びに来るんだよ」
「俺が君のところに?」
「そう。雪合戦もするし、お花見もお月見もする!それから、夏まつりも行くからね!」
「あはは、わかったわかった。その時には……そうだな、桔梗柄の紅梅小紋」
きっと君に似合うだろう、と顔の見えない彼が微笑んだ気がした。
◇◇◇
そんなある日、家に帰ると祖母が神妙な顔で「こっちに来なさい」と言った。バレたのだとすぐに悟った。
「通ってるんだね。あれだけ行ってはいけないと言ったのに」
「行ってないよ!」
私は必死に言い返した。
「嘘をつくんじゃない。神気がまとわりついている」
祖母の目は私には見えない何かを見つめていた。
「絶対に悪い神様じゃないもん!」
「神様に悪いものなんていないんだよ。ただ例外なく恐ろしいだけ。もう絶対に行ってはいけない」
そう言って、彼女は黒塗りの箱から小さなお守りを取り出して、私の手に握らせた。
そしてその日、私はすべてを忘れてしまった。