蝋燭がちらちらと揺れている。
神主は長い昔語りをようやく終え、向かいに座した客人の男に話しかけた。
「以上が、この神社に古くから伝わる物語です。どうです? 吹雪く夜のなぐさみにはなったでしょうか」
夜中、始終響いていた風の音はいつしか止んでいる。時間を忘れて聞き入っていた客人を前に、若い神主は優雅に微笑んだ。艶めく黒髪が頬にかかる、白面の美青年である。はっとあてられたような思いになり、男は慌てて視線を外した。
不思議な神社だ。何もかも。
この男は離れた山村に取材に行く途中、ひどい嵐に遭い、偶然見つけた小さな神社で一晩の客人となったのだった。
神主が夜通し語った話はひどく奇妙なものだった。
今より遥かに昔、小さな街で起こった不思議な出来事。誰にも知られることなくひっそりと終わった物語。
男がろくな返事もできないでいると、神主は着物の袖を顎にあて、ふむ、と言った。
「つまり御仁はこうお考えでいらっしゃる―― すべて私の作り話ではないかと」
心を見抜かれて客人の男はどきりとした。記事を書くことを生業とする彼は職業柄博識であり、このあたりの地誌にもまた明るいと自負していた。
見たこともない神社に、聞いたことのない逸話。それから、神社の主を名乗るにはしてはずいぶんと若い―― 少々浮世離れした風体の―― 青年。胡散臭い、という気持ちが顔に出ていたのかもしれない。
雨戸を閉じきった闇の中で、神主の黒い瞳が、一瞬、琥珀色にきらめいた。刃のそれのように鋭利で神秘的な光は、見入る間もなく元の黒色に吸い込まれて消えた。あるいは、朧気なろうそくの光がそう見せただけかもしれない。
魅入られたように見つめる客人の男に対し、神主は微笑んだだけでそれ以上何も言わなかった。
しばらくすると神主は立って行って、雨戸を開け放った。夜か朝かもわからなかった部屋の中に、眩しい朝日が差し込んでくる。目を痛めないように少ししてからまぶたを開くと、外は白一色だった。
「今日は良い天気ですね。この調子なら麓に降りられるでしょう」
客人の男は神主の言に従い、境内に出た。そして思わず感嘆の声を漏らした。
彼が夜を明かした場所は見たこともないような白く輝く社だった。昨夜は吹雪の中でよく見えなかったが、境内には立派な松の木が立っていた。雪に彩られ、朝日を弾く古松は息を飲むほどに荘厳だった。
いつまでも境内でぐずぐずしている客人に、神主はまた心を読んで言った。
「話の続きが気になっているのですね。彼と彼女はいったいその後どうなったのか」
目を輝かせた客人に、神主は懐からなにやら古い和装本を取り出した。ひと目見ただけでひどく時を経たものだとわかり、客人の男はごくりと唾を飲み込んだ。
「あの、もしかしてそれは……」
だが、神主は静かに首を振った。髪がわずかに揺れ、その黒は日の下ではしなやかな鋼のような色合いにさえ見えた。
「残念ですが、もう時間です。すべてはこの世ならざる狭間が呼んだ昔語。夜が明ければすべては夢現の物語。お気をつけなさい。ここもまたいきては帰れぬ細道の中なのですから」
立ち止まってはならない、覗き込んではならない、振り返ってはならない。
昔語の中で繰り返された文言を思い出し、ぎょっとした男は指し示されるまま出口に向かって歩き始めた。
とおりゃんせ、とおりゃんせ。
ここはどこの細道だ。
後ろで神主が唄を口ずさんでいる。一度も聞いたことのない、不思議な旋律だった。百年、いや千年も昔には巷にそんな童唄もあったのかもしれない。
山道に下りようとした男だったが、それでもやっぱり話の続きが気になって、うっかり後ろを振り返ろうとしてしまった。
その時、わっ、と耳元で大きな音が聞こえた。
男はびっくり仰天してひっくり返った。
―― あっはっは。
目を白黒させるの男の頭上で、それはそれは愉快そうな笑い声が響いた。
大丈夫ですか、と慌てて神主が駆け寄ってくる。逆光の中、顔を覗き込んでくる人影。
―― が、なぜかそれが一人ではない。全部で、一、二、三人。
目を擦って何度数えても一人、二人、三人。
ああ、きっと転んだ拍子にメガネが外れたに違いない。
と、そんなことを考えている男の耳に、神主の声が飛びこんできた。それはこんな内容だった。
「まったく、いつまで経っても大人げない人だなあ。母さんも笑ってないで止めてあげてください」
ふふふ、と笑う女の声。それからまた、あっはっは、と笑う男の声。
男は慌てて飛び起きた。そばに落ちていたメガネを拾い、かけ直す。
いや、そうだ、確かに三人いる―― と、人影を捉え、そう確信した瞬間、一迅の突風が吹いて、境内の雪をはねちらした。視界が白く覆われ、男は思わず目を閉じた。
雪の向こうから、男女が仲良く唄い合う声がかすかに聞こえてきた。
行きはよいよい、帰りはこわい。
こわいながらも――
風が収まり、男が再び目を開いた時、そこにはもう人影も、社も、何もなかった。
朝日に輝く雪原に、一本の松が静かにそびえているだけで。
いつの世とも知れぬ、とある男の昔語り。