「絶対に、行かない」
鶴丸さんはいつもの飄々とした態度からは考えられない、頑なな口調で言った。
「死んでも行かない。いや、むしろ行ったら死ぬ」
「そんなに嫌いなんですか」
「嫌いだ。断固拒否する」
リモコンを持ち上げた彼は、鼻息荒くチャンネルを変えた。“いよいよ海開き! おすすめのビーチ特集”とのテロップがかき消え、代わりにお天気お姉さんが現れた。
「もしかして、カナヅチなんですか」
「はっ、金槌! この俺が金槌だって? あんな粗雑な奴らと一緒にしないでほしいな。俺はもっと繊細で優美だぞ」
軽蔑したように肩を竦める鶴丸さん。相変わらず着眼点が独特である。
「潮水に身体を浸けるなんて、考えただけでぞっとする」
「まあ、肌はベタベタになりますけど」
一般的な返答をしたつもりだったのだが、「何も分かっていない」とでも言いたげな顔で見返された。
「とにかく、海だけは絶対に行きたくない」
「無理にとは言いませんよ。でも、せっかくのお休みですし、ずっと家でゴロゴロしているのも……」
「むう、確かにそうだな」
家の中でゆっくり過ごすのも悪くないが、一日も外に出ないとなると、逆に身体が鈍ってしまいそうだ。半年前の年末年始みたく。
でも本当のところ、そんなことはどうでも良かったりする。私はただ鶴丸さんと一緒に出かけたいだけなのだ。
「海じゃなければ良いんですよね」
「ああ。海じゃなければ」
「分かりました。では、正反対のところへ行きましょう」
「正反対?」
不思議そうな声を受けて、私はテレビの画面を指差した。お天気お姉さんは消え、新たな特集番組がテロップを展開している。
鶴丸さんはそれをゆっくりと読み上げた。
「“大ブーム!この夏は山へ行こう”?」
国破れて
「―― 山河あり。久しぶりに登るが、山はいつの時代も変わらないな」
木々を眺めつつ、鶴丸さんは気持ちよさ気に伸びをした。
「正直ほっとした。最近は新しいものばかり見ていたから」
「“新しい”ですか」
「物も人もな。変わることは良いことだ。変わらなければ、いつかは絶えてしまう。時代というものは、過去に留まるものたちに対して容赦がない」
淡々とした言い方だったが、表情は少し寂しげだった。彼はつづけた。
「だが、いや、だからこそ、かな。変わらないものも少しは残っていて欲しいと思うんだ。変われないものたちのために」
“変わらないもの”と“変われないもの”。
彼の言葉はいつだって深遠で抽象的だ。それが何を指すのか、まるで私に知って欲しくないみたいに。
「さて、先に進むぞ! ここだけの話、自分の足で登るのは初めてなんだ」
恥ずかしそうに耳打ちをして、鶴丸さんはリュックサックを背負い直した。
山の中腹まで来て、私たちは足を止めた。
「見えるか。家主殿」
「うわあ、綺麗な川ですね」
道の外側に浅瀬が見えた。清流のせせらぎが、火照った耳元を涼やかに冷やしていく。
言葉を交わす必要はなかった。顔を見合わせた私たちは、そのまま川辺に降りていった。
「やったな、俺たちだけみたいだぜ」
大型連休中にも関わらず、あたりに人の気配はなかった。きっと車では入って来にくい場所なのだろう。
鶴丸さんは木陰の岩に腰を下ろし、ふう、と息をついた。
「家主殿、遊びたければ遊んできていいぞ」
「鶴丸さんは?」
「俺はいい。ここで見物してる」
「水が嫌いだからですか」
彼ははっきりとは答えなかった。川の側にいた私は、彼の近くに戻り、その目の前にかがみこんだ。
「一緒に入りませんか」
「ふうむ」
鶴丸さんは水を好まない。だが、本当に嫌っているのは濡れることではないのだ。
「せっかくだから一緒に入りましょう。後でちゃんと拭いてあげますから」
「……本当か?」
彼は顔を上げ、ほんの少し緊張した面持ちで問うた。
「本当。約束します」
「分かった。濡れたまま放っておくなんて、絶対にやめてくれよ」
袖をまくり、裾をまくり、私たちは時間を忘れて川遊びを楽しんだ。
水の掛け合い、笹船流し、鬼ごっこ。ぬるいプールとはまるで違う、自然の川の冷たさにひどく心が踊る。
遊び疲れて木陰に腰を下ろした時には、もう三時を過ぎていた。
「ちょっと遊び過ぎたな。今から登っても頂上まで行くのは難しいぞ」
「良いんです。山に遊びに来ただけで、山登りに来たわけではありませんから」
「そういう頓知は好きだぜ」
鶴丸さんは調子よく笑って言った。その拍子に髪から雫が落ちて、私はさっきの約束を思い出した。
「鶴丸さん、ほら」
リュックサックからタオルを取り出し、手招きする。
―― その時の彼の顔と言ったら。
悦びと驚きと安堵と、言葉にならないたくさんの感情を瞳にのせ、鶴丸さんは動物のように擦り寄ってきた。
「拭いてくれ、家主殿。できることなら、時間をかけて」
買い物、炊事、洗濯。彼はそういったことを嫌がらない。人の世話をすること、人の役に立つことを心から喜んでいるように見える。
しかし私は知っている。鶴丸さんが本当に喜んでいるのは、世話をすることではなく、“される”こと―― 誰かの“対象”でいることなのだ。
愛されたい。大切にされたい。
だれしも願うことである。だが彼のそれは甘い願望でもなければ、受け身のわがままでもない。彼の内には、いつも血を吐くような切実さがある。
彼の望みのまま、ゆっくりと丁寧に髪を拭っていった。
「悪いな、家主殿」
下を向いたまま、彼はぽつりと言った。
「俺のために、大事な時間を使わせて」
「大丈夫、私ちゃんと分かっていますよ」
手間も時間も心も。彼がそれを欲するならば、いくらでも。
そう思えるくらい、たくさんのものを与えてもらったのだ。
気が済むまでさせてください、そう言うと、鶴丸さんは黙ってこくりと頷いた。
“変わらないもの”と“変われないもの”。
彼の望んでいるものは、案外小さなものなのかもしれない。
常磐に囲まれて、私たちはいつまでも二人で座っていた。