噂のあの子
「鶴丸さん」
「んん」
「ねえ、鶴丸さん」
「んーん……」
「鶴丸さんってば。起きてください」
掃除ができませんと張り上げた声も虚しく、彼の身体は布団の上をごろりと怠惰に転がった。身長に見合った大きな背中。寝間着がずれて、白いうなじがお目見えしている。
この人は全くなんて無自覚な。
白さをウリにしているだけあって、美容ポスター顔負けの完璧に美しい襟足である。生まれながらにフォトショップ搭載とは羨ましいかぎりだ。
「じゃなくて。どうしたんですか、鶴丸さん。本当は起きてるって知ってるんですよ」
「放っておいてくれ、俺はもうダメだ」
こちらに背中を向けたまま、彼は瀕死人のように唸った。
早寝早起き、低血圧とは無縁な鶴丸さんがこんな時間までぐずぐず寝ているなんてありえない。上記の台詞を聞くまでもなく、不貞寝であることは明白だった。
「何が嫌だったんですか」
返事はない。代わりに布団が引き上げられ、銀色の頭はすっぽりと見えなくなった。
私はふうむ、と考え込んだ後、彼の枕元にしゃがみ込んだ。
「じゃあ、質問を変えます。それ、昨日からですよね?」
「……ん」
「あそこに行ってから?」
布団の中から、うーん、と否定とも肯定ともつかない答えが返ってきた。
「でも、これと言って変わったことはしませんでしたよね?」
「ああ」
モゴモゴと要領を得ない答えにとうとう痺れを切らした私は、掛け布団の端を掴み、慎重にめくりあげた。中から出てきたのは、世も末といった表情の鶴丸さんである。
「ほら、早く墓土を被せてくれ。俺はもう引退する」
彼は疲れ切った顔で、ほれほれと布団を指差した。朝の陽を反射して眩しくきらめく銀糸とは正反対に、その声は亡者のごとしである。
「引退するって何からですか」
「人生、いや刃生から」
「引退してどうするんですか」
「博物館とかに行く」
「博物館とかに」
「そう、博物館とかに……」
そこまで言って、鶴丸さんはひしっと私の服の裾を掴んだ。
「うう、家主殿ォ」
芋虫のようにモゾモゾと這い出てきて、私の膝下にすがりつく。
滅多に見られない姿の鶴丸さんを撫でながら、私は昨日の出来事を思い返した。
◇◇◇
土曜日の午後、特に予定のなかった私たちは連れ立って外出することにした。行き先はそう、博物館である。電車で一本、私たちが住む町と同じく、決して都会とは言えない隣町にぽつんと佇むそこは、かつて名のある富豪の別荘だったらしく、古くともなかなかに小洒落た建物だった。
なお、
「所蔵物の多くはその資産家が自ら蒐集したものらしいですよ」
「そりゃ、楽しみだ」
とエントランスホールでどうということのない会話を交わした時には、彼はまだ普通だった。
一枚三百円のチケットを買い、最初の展示室に入った私たちは、紀州のなんたらという殿様ゆかりの水墨画を見ては感嘆の声をあげ、鎌倉時代の書簡を見ては鶴丸さんの翻訳に対してああだこうだと意見を交わし合い、それはそれは楽しい時間を過ごした。
次のフロアは確か古文書のコーナーになっていたと思うが、そこでも同じく私たちの会話は弾んだ。
なので、彼の身に何らかの異常が起こったのだとしたら、きっとその後だ。
私たちが次に進み入ったのは―― 日本刀ばかりを集めた展示室だった。フロアガイドには大して目を通さず道なりに進んできただけだったから、まさかこんなところで彼の得意分野に出逢うとは想定外、鶴丸さんは乗り気な様子で声を上げた。
「おお、これはなかなかだな! 家主殿、ちょっと時間を取ってもらっても構わないか」
「ええ。ゆっくりどうぞ」
私の言葉を聞くか聞かないか、鶴丸さんは足音も軽く展示物に近寄り、その中を覗き込み始めた。
のぞきこむ、という表現は正しくないかもしれない。彼はガラスケースの前に佇み、ただひらすらじっと中身を見つめていた。
まるで中に並ぶ刀たちと会話でもしているみたいに。
彼が日本刀に興味があるのは知っていたので、私の方は彼の鑑賞が終わるまで隣のカフェで腰を休めていることにした。
そして、十分後。
展示室から出てきた鶴丸さんは何故だかすでにゾンビに仕上がっていた。
「昨日、展示室で一体何があったんですか」
「何もないぜ……」
彼は、何も知らず日本のビッグマックを注文してしまったアメリカ人のような、力ない笑みで肩を竦めたのだった。
◇◇◇
何もない。そう、何もなかったはずなのだ。あの時、あの古さびた博物館の展示室にいたのは鶴丸さんだけだったのだから。
「何もないって顔じゃありませんけど」
「俺の顔に曇りが見えるのは、家主殿の心に曇りがあるからだ」
「急に哲学者を気取るのはやめてください」
私はため息をつき、冗談交じりに問いかけた。
「まったく、誰かに虐められでもしたんですか?」
私の膝に頭を乗せて、指先で服の裾をいじっていた鶴丸さんの動きがぴたりと止まった。思いも寄らぬ反応に、思わず顔を覗き込んでしまう。
「まさか本当に?」
「虐められたわけじゃない。ただ」
「ただ?」
「ただちょっとショックだっただけで」
そう言って、彼はふたたび私の服の裾いじりを再開した。今度はぽつぽつと言葉も交えながら。
「そりゃあ俺だって少しは調子に乗っていたかもしれないさ。でもまあ致し方ないとは思わないか? なんてったってかの五条の生まれなんだぜ!いいか、俺としては、だ。『貴方があの鶴丸殿ですか!』『まさか真作にお目通りが叶うとは!』ぐらいの言葉はあっていいと思っていたんだ……が……あの若造ども」
そこまで言って鶴丸さんは私の膝に顔を埋めた。
「俺のこと知らないって」
駄々をこねる子供のように、うう、とすがりついてきた。
「三日月のことも、光忠のことも、うう、薬研のことも知ってる癖に。でも、そりゃそうだよな、もうたっぷり云百年は箪笥の肥やしだったんだ。ふふふ、天下の御物も落ちたものだぜ。ふふふふ」
今度は昏い目で笑いはじめた鶴丸さん。幽霊のような白い面に加え、薄っすらと隈も見えて、なかなかに恐ろしい。
「つ、鶴丸さん落ち着いて。ほらこの辺は辺鄙ですから、きっと世間知らずの田舎者だったんですよ。その人たち」
「俺は落ち着いてるさ。ただちょっとまた墓穴に入りたくなってきただけで」
「と、殿ご乱心!ご乱心!」
ひとしきり二人で騒いだ後、鶴丸さんは「はあ」と改めてため息をついた。
「時の流れは残酷なもんだ。俺が生まれて一時は、知らぬ者などいなかったというのに」
まあそれだけ綺麗だったらそうでしょうね、と私は横目で鶴丸さんの整い切った顔を見た。
「まあ、でも俺も大した努力をしなかったからな。持って生まれたものも重要だが、その後の行いも同じくらい大切だ。例えば薬研のように、時には主に背いても守るべきものを貫き通す意志も。俺は、何にも抗わなかった」
彼は私の膝から頭を起こし、自嘲するように口の端を上げた。
「これから抗えばいいじゃないですか」
私は彼の手を掴み、ぎゅっぎゅと握った。
「私も同じ。いつだって流されるまま、何にも抗わずに……そう、だってそれが一番楽だったから。一生懸命抗って、叶わなかった時に耐えられないから」
でも、と彼の蜂蜜色の瞳を見つめて笑った。
「私は鶴丸さんを引き留めました。どこかへ帰ろうとする鶴丸さんを、無理やり。強引に。ダメでしたか?」
彼はゆっくりと頭を振り、否定の意を示した。
「多分きっと、もっとわがままになっていいんですよ。私たち。今ここにこうして生きているかぎり、これからもずっと変わっていけるんですから」
「つまり……」
鶴丸さんはもうすっかり元気な顔に戻っていた。
「俺が再び驚きの殿堂に返り咲く日も近いということだな?」
「そういうことです」
私たちはパチンと片手同士でハイタッチした。
「家主殿は人を丸め込むのがうまいな」
「『丸め込む』ではなく『元気付ける』でお願いします。誤解を招きますので……ということで、さっさと起きてください! お掃除しますよ!」