床に頬をつけ、穴を覗くと、やはり眼下に海があった。ざざあ、と古アパートの一室に、波の音が響く。
彼は瞬きも忘れて、目の前の光景に見入った。
暗闇の真ん中に《海》がある。小さく丸く切り取られ、妙に明るいその部分は、平易でつまらない比喩を用いるならば、夜空に浮かぶ満月に似ていた。
ただ本物の月とは違って、正円の中央に一本の境界線が走っている。海と陸を分ける境界線―― 泡だった波打ち際によって、海辺は曖昧に、だが真っ二つに区切られていた。白と青。砂浜と海。空から見た海の景色は、子供が描いた絵のように単純明快で、現実味がなかった。
海と陸とを分かつ汀には、女がひとり立っていた。こちらを仰ぎ見て、何事かを言う。
はるか上空を飛ぶ鳥の目で、彼はそれをいつまでも見下ろしていた。
Uno
スクアーロが昼寝から目覚めたのは、春の昼下がり、うららかな陽気に包まれた窓辺のソファの上だった。
背もたれに散った銀髪を、日差しがいやに明るく透かしている。舌打ちをしたスクアーロは、乱暴にカーテンを引き、髪をまとめて肩の後ろへ投げやった。
自宅とはいえ、窓際で呑気に居眠りとは。
苛々ついでに立ち上がり、光の届かない隅の方へとソファを蹴り寄せておく。
冷蔵庫からボトルを取り出し、冷えた水を呷ったが、眠気はすでに髪一本分も残っていなかった。目覚めたその瞬間に、脳も身体も完全に覚醒している。常日頃からそう訓練しているし、そうでなければ続けられない稼業である。
リビングに戻ってきた彼は、ソファではなく金属製のテーブルに腰を下ろした。
スクアーロという男はそもそも、自堕落な生活を厭忌している。強さを求めたその日から、誰に言われるでもなく己を律し続けてきた。衝動、情動、享楽、快楽。内的なものに振り回されているうちは、素人の域を出ない。プロの仕事には普遍性がなくてはならない。いついかなる時でも、どんな状況でも、相手が誰でも、目的を遂行する。「ヴァリアー・クオリティ」―― そう称される完全性は彼が彼自身に課してきたものであり、もはやそれ自体が信仰である。強く速く、殺す。その行為に向き合う時、スクアーロは聖賢のごとく敬虔で清貧だった。
現在時刻、昼飯時を少し過ぎた頃である。ランチを済ませた近所の子供が、窓の外でやかましく騒ぎまわっている。
まず、立地が良くない。と、彼はケチをつけた。
先月越してきたアパートの一室は、シャワールームとキッチンがついただけの手狭なワンルームである。立場、報酬、その他あらゆる点において、彼のプロフィールにはまるきり見合っていない。が、スクアーロが自身に何より似つかわしくないと感じているのは、この部屋を包む安穏とした雰囲気だった。
朝には鳥が鳴き、昼には子供が喚き、夜には物音ひとつしない。白を基調にした古くとも小奇麗な内装に、スクアーロは珍しくため息をついた。どうしてこんなところに住もうと思ったのか、今となっては良くわからない。家選びの手間を惜しんだ過去の自分に、現状を突きつけてやりたいと思う。
やむを得ない事情で棲家をなくしたのは先々月のことだった。とりあえず本部の空き部屋に移ってみたが、昼夜を問わない上司の横暴に耐えかねて、早々に自分の城を持つことにしたのである。マフィアというと防弾だのセキュリティだのと身辺に関して神経質なイメージがあるが、彼くらいになるとかえって、棲家に堅牢性を求めなくなる。万が一にも居所を嗅ぎつけられたとして、意気揚々と襲ってくる馬鹿はいないからである。この業界、腕が立つほど身の程を知る。
前に住んでいたところは、裏路地の薄暗いアパートだった。元々はどこぞのファミリーの倉庫だったが、当のファミリーは抗争に敗れお家断絶、残されたハコモノの方は陰鬱な集合住宅として生きながら得た―― というどこにでもあるいわくつきの物件だった。留守の間に、トチ狂ったヤク中のガキが建物ごと焼身自殺しなければ、今も“らしい”生活が送れていただろうに。
善良なる市民にとっては幸いなことに―― 彼にとっても良いことのはずなのだが―― 世に大事がなく、自宅待機が続いたこの数日、スクアーロは太陽の下に引きずり出された吸血鬼、とまではいかずとも、手違いでスポットライトを浴びせられた黒子のような、どうしようもない居心地の悪さを感じていた。
「他に移るかァ?」
誰にともなく呟いてみる。だが口に出した時点で、スクアーロは自分にそれを実行する気がないのを知っていた。
彼はもう一度キッチンまで立って行って、ボトルの水を飲んだ。空っぽになったそれをゴミの袋に投げ入れたが、前の家のように袋から虫が飛び出してくるようなことはなかった。
仕事の都合で居を変えなければならない機会は今後いくらでもある。ちょっとした気分の問題を解決するためにわざわざ居宅を変えるのも、それはそれでらしくない。
再びリビングに戻った彼は、少し迷った後、ソファに腰を下ろした。上等なクッションが柔らかく彼の身体を受け止めた。にもかかわらず、口元が不満気に引き結ばれているのは、気に入っていた一点物のかたいレザーを例のボヤで焼失してしまったからである。
尻が深く沈む感触に眉を顰めながらも、スクアーロは再びゆっくりと身体を倒した。怠惰に過ごすのは嫌いだが、他にすることがなければ身体を休めているしかない。人の目がある日中に剣を振り回すなどとんでもなかった。
ソファの上で寝返りをうつと、水盆からあふれるごとくに銀の毛束が床にこぼれた。土足のフローリングに毛先が擦れても、スクアーロは気にも留めない。女がこぞって触れたがる髪も、彼にとってはあの時の昂ぶりと熱狂を呼び起こすための記憶装置に過ぎなかった。長く伸びれば伸びるほど、後背を苛烈な焦燥で追い焦がしてくれる。
「何だァ?」
床上の髪をなんとはなしに目で追っていた彼は、ふと異変に気づいた。目立たない床の隅に、小穴がひとつ開いている。
縁に埃がこびりついているところを見ると、ここ数日にできたものではない。ソファの下敷きになっていたらしいそれは、床の汚れに擬態して、ぱっと見ただけではまるで分からないようになっていた。
越してきて一ヶ月、侵入者の痕跡はなかったのだが。
スクアーロは物音を立てずに起き上がり、ラジオを手に取った。外からは子供の声が聞こえてくる。
ちょうど良い、とイヤホンをつけ、周波数のダイアルをつねっていった。無線式の盗聴器が仕掛けられていれば、周波数が合った時ラジオから部屋の音、すなわち今であれば子供の声が聞こえてくるはずである。
だが慎重に合わせていっても、そのような音は入らなかった。ハウリングも起こらない。
「……ほう」
無線式以外の盗聴器にしても、その種類、仕組み、発見方法、あげくの果てには逆探知の方法まで、スクアーロは思い浮かべるのも面倒なほど仔細熟知している。だが、今回はそのどれも試さないことにした。なんとなく、そうする必要はないと感じたのである。
そこいらにあったワイヤーに適当な錘をつけ、大胆にも穴から下へ垂らしていった。標準的なアパートで床の厚みは百五十ミリから二百ミリ、古屋ならもっと薄い。三十センチも下ろせば下階の天井に行き当たるはず、という並の予想とは異なって、実際には何の引っかかりもなくするすると床下に消えていった。
やっぱりな、とスクアーロは嫌味な笑みを浮かべた。床の穴はどうやら階下の天井まで突き抜けているようである。階下に人の気配を感じた彼は、錘を引き上げ今度は剣を抜き身にした。
どこの誰だか知らないが、とんだストーカー野郎もいたものだ。床板ごと串刺しにされても文句は言えまい。
舌なめずりをしながら床の穴を覗いたスクアーロは、だが、そのまま動きを止めた。
穴の向こうに広がっていたのは、海だった。
「……疲れてんなァ」
彼は身体を起こし、眉間を指でほぐした。ボスの癇癪に付き合い、部下の教育に走り回る日々である。疲れているのはどうやら身体だけではなかったらしい。床板ごと串刺し、床板ごと串刺し、と元気の出る呪文を呟いた後、今度は慎重に穴を覗いた。
途端、ざざあ、と波の音が聞こえた。床板の向こうにあるのは、見間違いようもなく“海”だった。どうなってんだ、という台詞すら忘れて、彼は吸い込まれるように小さな床穴から階下をのぞきこんだ。
鳥瞰写真のような、上空からの景色である。穴の縁によって丸く切り取られた“海”には、波打ち際がくねくねと走り、それを境に白い浜辺と青い海が並んでいる。色の取り合わせを度外視すれば、カレーライスとかいう日本の家庭料理、あれに似ていなくもない。
海面は絶えず揺らめいており、その度に波の砕ける音がした。一切を見下ろす天の玉座にあり、彼の身体は奇妙な全能感に打ち震えていた。